41 天地創造の謎「世界の始まり」
 
  [万物を創造した神の言葉]
 
                    参考:(株)産報発行「天地創造99の謎」
 
                     本稿は吉田敦彦氏著「天地創造99の謎」
                    を参考にさせて頂きました。
                     著者は言う、「われわれの周囲に無限と
                    見える広がりを以て存在する不可思議な世
                    界と、その中にあるもろもろの事物や、人
                    間が営んできた文化や制度などの起源を、
                    人類は神話の中でどのように説明してきた
                    のでしょうか」と。
                     まず初めに、旧約聖書の記述例を採り出
                    して、神話の意味するところを述べておら
                    れます。
 
                     わが国の神話を始めとする、世界各地の
                    いわゆる「神話」には、地域的に、或いは
                    年代的に、共通するものがあるようです。
                     前掲の「わが国の神話」の出来事を想い
                    出して、本稿と比較して太古を偲んでみて
                    下さい。            SYSOP
 
 旧約聖書の最初の『創世記』に、古代ヘブライの創造神話は、次のような書き出しで
始められています。
「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、
神の霊が水のおもてをおおっていた。
 神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日で
ある」と。
 古代ヘブライ人の神話では、天地万物は全能の神の言葉によって、神が何か言えば忽
ちその通りになると云う遣り方で、神の意志の通りに造り出されたと見なされています。
 
 ところで、新約聖書の中のキリストの伝記の一つである『ヨハネによる福音書フクインショ
』には、
「初めに言コトバがあった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は初めに神
とともにあった。すべてのものは、これによっできた。できたもののうち、一つとして
これによらないものはなかった」と。
 つまりこの福音書の作者は、キリストの生涯の叙述を始めるに当たって、まず天地万
物が神の言葉によって創造されたと云う、旧約聖書『創世記』の神話を持ち出している
のです。そしてその後に続けて彼は、「この言に命があった。そしてこの命は人の光で
あった」と述べ、更に少し間をおいて、次のような有名な文句を書き記してします。
「そして言コトバは肉体となり、私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た。それ
は父の一人子としての栄光であって、恵みと誠とに満ちていた」
 それに拠りますと、紀元一世紀に一人の人間としてユダヤに生きたイエスなる人物は、
実は世界の初めから神と共にあり万物を造ったと云う、あの神の言葉が人間となったも
のにほかならなかったことになります。
 
〈神の言葉、そして人間の言葉〉
 
 前述のように、救世主イエス・キリストを、この神の言葉が肉体を備え、人間となって
この世に生まれたものとする『ヨハネによる福音書』では、このようなキリスト神話を
結実させました。神の言葉によって造られた世界は、神の言葉によって救われます。天
地を創造した神の言葉は、生命のある神の一人子であり、神自身なのです。
 聖書にはまた、人間の話す言語の違いの起源を説明した、次のような話があります。
 
 太古には地上の人間たちは皆、同じ言葉を話していました。ところが人間たちはある
とき、傲慢ゴウマンになって、煉瓦レンガとアスファルトを使って高い塔を建て、その頂きを
天に届かせようとしました。神はこれを見て、この企てを止めさせるために、人間たち
の言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしました。人間たちは仕方なく塔の建設を
中止しました。神は彼等をその処から、全地の表てに散らばらせました。このときから
人間たちの間に、言葉の相違が発生し、彼等が建て掛けて止めた塔とその周りの町は、
このことに因んでバベル(=混乱)と呼ばれるようになったと云います。
 
 ところで、旧約聖書の神の言葉による天地創造の神話を受け継いだキリスト神話が、
新約聖書の『ヨハネによる福音書』に見出されるのと同様に、この人間の言葉の話と呼
応する話も、新約聖書の中に物語られています。それは、イエスの死後における弟子た
ちの活動を記した『使徒行伝』の二章にある次の記事です。
「五旬節(ユダヤ教の祭日、キリスト教の聖霊降臨節に当たる)の日が来て、皆の者が
一緒に集まっていると、突然激しい風が吹いて来たような音が天から起こって来て、一
同が座っていた家一杯に響き渡った。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現
れ、一人びとりの上に留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるまま
に、いろいろの他国の言葉で語りだした」
 当時エルサレムには世界の方々の国から来たユダヤ人たちが居ましたが、彼等はイエ
スの弟子たちが聖霊を受けて突然話し出したこの言葉を聞き、次のように言って驚き合
ったと云います。
 「見よ。今話しているこの人たちは、皆ガラリヤ人ではないか。それだのに、私たち
がそれぞれ、生まれ故郷の国語を彼等から聞かされるとは、一体どうしたことか」
 バベルの塔を築こうとした太古の人類の罪の結果発生した、人類の間の言語の障壁は、
神の言葉が人間となった救世主イエスの出現によって取り除かれました。神の言葉の働
きによる、人間の言語の統一の回復 − それがこの話に物語られた、聖霊降臨の奇蹟の
内容に外ならないと云います。
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