10 天神宮縁記由来覚え書

             《松舘風土記》他による  平成六年五月二十二日調べ
 
 『功徳水(参具打場)』
 社堂の下、現在山崎英男所有の林中に、古の功徳水参具打場の跡があると言われてい
ます。
 
 『精左衛門精長の末裔』
 舘主松舘精左衛門精長は、その後柳舘に居を移し、柳舘精長と名乗りましたが、この
柳舘という地名は不明とされています。
 また、大湯に三つの舘があって、第三の丸の館を柳舘というとされていますが、この
舘なのか否かは明かではありません。
 
 『その後の舘主』
 精長に代わって舘主となった盛歓法印は、羽黒山(山形県)に修行し、新たに三帝山
松舘寺の号を得て、寺務が盛大になったと言われています。
 
 『牛石(ベコイシ)の由来』
 三ノ台に永く住んでおり、天神宮の乗られました黒牛の死によって立てられた墓石が
牛石です。明治の中頃、それを石材として使用されたらしいが、その者の末路は多く悲
惨であったとも言われています。
 
 『講宿の由来』
 寛文三年二月十六日の大火のとき、ただ一軒焼け残った又吉は、如何なる時でも、月
の二十五日には必ず天神宮に参拝していました。
 また、その後の元文四年の疱瘡流行の時、村の代官の若旦那が神威によって治った等
の出来事によって、旧十月より二月までは寒気のため別当宅で、三月より九月まではお
宮に詰めて信心したのが、天神宮講宿の始まりとされています。
 その後幾多の変遷がありましたが、今日では通年の廻り宿となっています。
 
 『北野の送り松』
 京都北野天満宮から送られてきました「北野の送り松」は、二番鳥居の側の参道の両
脇に生えていました。向かって右手の松は参道を大きく覆い、左手の松は南の崖の数丈
下の川面に届く程に垂れて生えていましたので「さがり松」とも呼ばれていました。
 真に神門に相応しく、偉容なる兄弟松でした。
 その後昭和に入って,左の松が豪雨による崖崩れにより、それから二十数年後右の松
も後を追うように暴風雨により倒れていまいました。
 
 『松舘庚申塚の桜樹』
 明治初年の頃は一面の原野で芝生の原であった村はずれも、今は数戸の住宅、商店が
建っています。そこの庚申塚の老桜樹は、約百数十年前、長右衛門老(佐藤長右衛門の
先祖)が刈払いの際、花が見事であると言って、取り残したものと言われています。こ
の桜樹は現在は枯れてしまいました。

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