時を経て元文四年(西暦一七三九年)十二月、往古に焼失した神社領地の御証文を書 替えることになりました。然るに元文五庚申年から翌寛保元辛酉年(西暦一七四一年) にかけて、御城下並びに墓地に至るまで疱瘡が流行しました。御屋鋪(領主)でも御子 様方御三人が疱瘡に罹り、分けても若旦那様が殊に重くなられたにつき、当村御役人の うち川村安右衛門殿、舘澤儀右衛門殿をお呼びになり、法印家も首尾よく御瘁痘(平癒 のこと)の御祈祷を申し上げようと一同揃って訪問しました。御屋鋪に感謝され、早速 祈祷を仰せつけられ、沐浴斎戒(潔斎)し、祈祷に丹精を凝らしたところ、第三日目に 旦那様が御夢を御覧になりました。衣冠正しき若君が、緋衣(赤い衣のこと)を着た僧 に手を引かれ、御手に梅花の枝を持たせ給い、若旦那様の御病床へ入られ、この梅の花 一輪を若旦那へ薦められました。この夢によって旦那様は、御垢離を取られ、御神体安 置の間へ出でて、御礼拝された処、その日より若旦那様は、日毎に御瘁痘されて御機嫌 が良く、御三人様共ども御平癒になられました。旦那様は御満悦になられ、御役人中も 恐悦申し上げ、法印家にも色々拝領物がありました。その節の御意では、「知行所(村 役人方のこと)はじめ村方に至るまで、怠り無く信仰すること。神には別事は無いが取 り分け天満宮の儀は、無実の罪難を救い給うこと、他の神にもまして霊験が著しい。特 にこの度の感応については家来は申すに及ばず、百姓へも申し聞かせて、毎日、御縁日 には拝礼して怠りなく信仰すること。第一に村方上下一統睦まじく和合すれば神意に叶 うものである。故に諸事無難である。この事を諭達(布令のこと)致したい。且つ、別 当へは何かと相談し、格別粗略に取り扱うこと無く、出家沙門なれば尊崇し、礼儀を正 しくしておれば、即ち神を敬うことの一つであり、実体に出あうであろう」と、安右衛 門殿、儀右衛門殿に話され、別当へも神務に怠り無く相励み、下じもへ篤く教諭するよ う申し付けがありました。程なく前両人と別当は帰宅しました。 同寛保元年四月廿五日、村方上下一統を相集め、以上の御内命の趣旨を聞かせ、次の ような掟が定まりました。『三月廿五日から九月廿五日までは、御宮へ参拝礼し、御供 物等は銘々(各人)で思いのまま取りこしらえて持参し神前へ捧げ、終日神意を慰め奉 ること。十月から二月までは寒気で御宮に詰めることができないので、別当院内にて宿 勤し、順次廻り宿にして相勤めるものとする』。御初穂の儀は、以前は米一升、銭百文 あて供えてきましたが、今後は、御宮の普請のための持寄銭も有るので、御初穂まで供 えると迷惑なこともある故、天神講には御初穂を無くすることを取り決めました。もっ とも御日待(大晦日などのとき、前夜から潔斎して寝ずに日の出を待って拝むこと)の 節は、従前どおり三十三銅を供えることとなりました。 以上のとおり安右衛門殿、儀右衛門殿が御屋布より御内命を受けて、肝入四郎兵衛始 め老名小間居(上下とも全て)まで一統へ御諭達がありました。この取り決めは、後代 までの本鑑(本則のこと)となるものでありますのでここに誌しました。 万一、拝式に怠りがあれば、神意に逆らい、領主の命令にも背くことになりますので、 末代に至ってもよくよく勘弁(考えわきまえること)すべきことであります。村方には 書き置くことが無いと思われますので、時々話して聞かせ、その訳を村中一統が心得て おく必要があります。以上宝光院が代って誌したものであります。 その後、御供物並びに色々な賄物の儀は、各人思いのまま取り揃えて御宮へ持参して いましたが、他人に劣ってはどうかと気を張り、自然と奢るようになりました。内々で 迷惑の者もありましたので、それからは党宿の順番を相定めて、その宿へ米、銭、御神 酒を持寄って、諸事は宿の支度により御供物や諸賄をすることに相談し決めました。 別当は党宿から招待され、従前どおり講宿において祈祷しました。もっとも別当が病 気のときは、御神体を当院の神前へ飾って置き、一統が参拝礼するものとしました。例 えば講中の人たりと雖も、御神体を俗に渡すことは不浄のこともありますので、別当不 参の時は、御神体を遷さないことを安右衛門殿、儀右衛門殿のほか御役人、講中が相談 して取り決めました。 かりそめにも、心得を守らないことは、古語にも「鬼神を敬して遠し」とありますよ うに、この取り決めについては、宝光院内も神前を取り乱すことなく、何分にも清浄第 一に心掛け、御縁日はもちろん平生とも戒行をもっぱらに心得すべきものであります。 寛保二年(西暦一七四二年)壬戌四月 寳光院 代誌之 |