06 松舘村講宿の旨趣(天神講の由来)

             『松舘風土記』(写)による 平成六年五月二十二日調べ
 
 日本式目第一條に述べられておりますように、「神は、人の敬によりて威を増し、人
は神の徳によりて運を添へる」と言われております。然れば、神国に生れた者は、上は
天子から下は庶民に至るまで、不信仰があってはならないということです。
 
 抑そも、当松舘村講宿の儀は、寛永(西暦一六二四〜一六四四年)の頃から始まった
と言われております。その頃は、未だ講宿、当宿などというものは、他の村にはありま
せんでした。当松舘村としても、御役人衆か、肝入所か、老名の内壮年か心祝等がある
時は、産土神の別当(法印家)を招き、別当は天満宮の御掛物を床間へ勧請奉り、今上
天皇はじめ、国主、領主、当村の安全を祈って一統(一同のこと)が拝礼し、式が終る
と一統へ御洗米、御神酒が振舞われました。
 然るにその頃は、祝として樽代を持参しなくてもよく、御神酒代として米酒五合、御
洗米代として一盃ぐらいを、その身分に応じて宿へ持ち寄り、持ち寄った分だけご神前
へ供えました。また、別当へは宿から米一升と銭百文を差し出しました。
 
 その後凶作等がありましたので、自然にこの行事が廃止されてしまいました。ところ
が、寛文三年(西暦一六六三年)二月十六日に大火事があり、村中が残らず焼失しまし
た。又吉という者只一軒が残りました。洵に不思議な火事であり、風が四方から吹き寄
せ、南の家へ移れば北風が吹き、北側の家へ移ると南風が烈しくなり、東も西もこの状
態で、稀にみる焼けざまと言い伝わりました。
 
 又吉が運よく焼け残った由を、後日聞いてみますと、「自分は、先年より産土神御縁
日には四季を問わず、風雨に拘わらず、毎月々怠りなく神社へお参りしていました。然
るに、正月廿五日夜の夢に、衣冠を正しくした老翁が枕元に立ち給いて、鈴しき御声で、
『汝、我を祈る事、甚だ深切なり、依て、今、汝に教ゆる事あり。遠からず、当村に火
難の患あるべし。其の時は、必ず驚く事なかれ、兼ねて水神に捧げ置きし幣あり、危急
に至らば右幣を軒先へ立て、一心に礼拝すべし。必ず火難を免るべし』とお告げがあり
ました。夢が覚めて、不思議な事だと思い、垢離を取って神に拝礼し、毎日用心してお
りました。程なく二月十六日夜四ツ半(九時)に出火し、しかも風烈しく、その火もま
た激しく言語に絶しました。自分の家も既に危くなったので、兼ねての霊夢の通りとな
るだろうと水神の幣を軒先に刺し、『南無天満自在天神宮、別ては御水神、何卒神力応
護を以て只今此の火難、免れ給へ』と、一心凝りてお祈りしましたところ、不思議なる
かな、この幣が動くと見えしか、忽ち風変り洵に危急難を免れました」と申しました。
 
 このような霊験を聞いて、村中が舌を震わせ拝感の余り、一統相談しました。第一に
火難を除き、疫病を消し除くため、村中が別当へ紙と御初穂を持参し、特別に御幣を切
る事となりました。
 
 然るに翌年、肝入四郎兵衛家一軒建て、その新宅祝の時、以前の通り村中を招き、別
当も招待されて祈祷し、一統へ先例の通り御神酒、御洗米を振舞い、一統着座し四方山
の話となりました。彼の又吉の霊夢により火難を逃れたことを、皆々この霊験を心根に
徹しました。近来、神拝を止めておったのを悔み、是より以前の通り神拝寄合講をする
ことに相談が成りました。
 
 肝入殿が発言し、「それは各々結構な心掛けであります。さぞ神意に叶うものであり
ましょう。そこで、皆々に相談したいのは、天神堂が処々破損しております。ついては
この普請料を必要な分だけ村方へ割当てしたいところですが、それでは小間居(小世帯
のこと)は困るでしょう。よってこれからは産神講を結んで、会合のとき各々百文を持
ち寄り、これを貯めて普請の代金に用いれば、普請も容易にでき、皆々も別段苦労がな
く済むのではないでしょうか」と相談しました。幸い御屋布(領主のこと)御役人はじ
め村中全て寄り合っていましたので、至極結構な事であると話がまとまりました。その
時の申し合わせで、御役人始め肝入、老名から段々に廻り宿としました。この講宿から
別当を招き、御神体を遷して祈祷することになりました。

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