040780桃源郷
参考:小学館発行「万有百科大事典」ほか
〈桃源郷トウゲンキョウ〉
「桃」
バラ科の落葉小高木。中国原産。葉は披針形。4月頃、淡紅又は白色の五弁花を開く。
果実は大形球形で美味。古くからわが国に栽培、邪気を払う力があるとされた。白桃・水
蜜桃の他に、皮に毛のないツバイモモ(アブラモモ)、果肉が黄色の黄桃オウトウ、扁平な
蟠桃ハントウ、観賞用の花モモなど品種が多い。仁・葉は薬用。
「桃源郷」
桃或いは桃の花は、古代から中国人にとって極めて親しいものであった。桃が長命の
象徴であり、また「桃印」と云って夏至の日に桃の木を門口に刺して置けば、邪気を払
うと云う魔除け説も古い記録に見える。更に「桃李トウリ言モノイわざれども、下おのずから
蹊コミチを成す」(『史記』李将軍列伝)と云った諺コトワザの類や、「二つの桃が三人の士
オトコを殺し」た春秋時代の故事(『晏子アンシ春秋』諌下篇)、小説『三国志』の中で劉備
リュウビ、関羽カンウ、張飛チョウヒが義兄弟の契りを結んだ「桃園に義を結ぶ」話など、桃に纏
わる俗諺ゾクゲンや故事は少なくない。
文芸作品においても桃の出現は早く、中国最古の詩集『詩経』に既に幾つかの例が見
え、中でも、
桃の夭夭ヨウヨウたる
灼灼シャクシャクたる其の華ハナ
で始まり、花嫁を桃に喩えて祝福する歌は有名である。
後世、例えば唐の李白リハクの「春夜桃李の園に宴するの序」、また、
桃花流水 杳然ヨウゼンとして去り
別に天地の人の間マに非アラざる有り
の句など、桃を配した詩文は少なくない。
それらの中で、取り分けよく知られているものに、晋シンの陶淵明トウエンメイ(365~427)
の理想郷ユートピア物語『桃花源記』がある。中国では不老不死の思想に絡めて理想郷を描
き出すことは、古くから行われて来た。『桃花源記』はそれらの発想を踏まえつつ、独
自の境地を拓く。
「晋の太元年間(376~396)のこと、武陵ブリョウ(湖南省桃源県)の一漁師が川に沿っ
て山に分け入った。どれ程の道程ミチノリを来たのか、突然桃の花咲く林に出会った。両岸
数百歩、桃また桃の林である。その奥に小さな洞穴ホラアナがあった。人一人通れる程の洞
穴を数十歩進むと、突然目の前がカラリと開けた。見れば土地は平らかに打ち広がり、
よく肥えた田、美しい池、鶏や犬の長閑な声が聞こえて来る。行き交う人の服装も奇異
なものではない。漁師を見付けて家に連れて帰り、酒を調え鶏を潰して持て成して呉れ
る。訊けば先祖が秦シンの世(500年前)の戦乱を避けて、此処に住み着いたのだと言う。
何と秦の次に漢の時代があったことを知らず、魏ギ、晋は言うまでもない。話は弾ハズん
で、あちこちの家に招待された。やがて暇乞いをした漁師は、目印を付けつつ元の道を
帰った。報告を聞いた郡の太守は、部下に命じて探させたが、徒労に終わり、理想郷は
杳ヨウとして消え失せたまま、現在に至っている」
以上が物語の要約である。極めて平板にして、平凡な理想郷と言わなければならない。
発見者は一漁師、住民は中国の一般農民、風景も服装も食事も、総てが日常世界のもの
である。金殿玉楼、山海の珍味は全く無い。しかし其処には永遠の平和がある。この平
凡な理想郷は、権力の象徴、俗物の代表である郡の太守の探索を峻拒シュンキョする。権力と
の隔絶、其処にこそ理想郷がある、とする作者の現実批判は鋭い。この平凡な、しかし
意味深い理想郷の入り口に、中国の人々に最も親しまれて来た桃の花が、溢れんばかり
に咲き乱れていた、と云う描写も、中々に象徴的ではないだろうか。
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