010125秋田蘭画
 
                    参考:小学館発行「万有百科大事典」ほか
 
〈秋田蘭画アキタランガ〉
「蘭」
 @ラン科植物の総称。本来は、1本の花茎に1花をつける東洋蘭(1茎1花)のこと。わ
が国にはカンラン・シュンラン・クマガイソウなどが自生、また、観賞用として洋蘭・東洋
蘭の栽培も盛ん。スズラン・ハラン・クンシランなど、ランの和名を持つがラン科でない
ものも多い。
 Aフジバカマの古称。
 B和蘭オランダの略。「蘭学・蘭医」など。
 
「秋田蘭画」
 江戸時代の十八世紀後半に秋田地方で生まれた洋風画派及びその作品。蘭画は江戸時
代の言葉でオランダ絵、即ち洋風画を意味する。安永二年(1773)秋田藩は物産学者と
して名のあった平賀源内(1736〜79)を江戸から招いて、領内の鉱山の技術改良を図っ
た。源内は阿仁アニ銅山に赴く途中、秋田藩支城の所在地角館カクノダテで絵の上手な武士小
田野直武オダノナオタケ(1749〜80)に出会った。源内はオランダの書物の挿絵によって西洋
画に通じていたので、直武に陰影法や透視画法などの知識を与え、西洋画法研究を勧め
た。直武は源内から得た西洋画の知識を、同じく絵の好きな藩主佐竹義敦サタケヨシアツ(号曙
山ショザン、1748〜85)に伝え、互いに協力して新しい画法の習得に着手した。二人の周囲
には、角館城代の佐竹義躬ヨシミ(1749〜1800)や藩士の田代忠国タシロタダクニ(1757〜1830)
等が、洋風画に志して集まった。
 
 江戸に帰る源内の後を追うかのように、直武は銅山方ドウザンガタ産物サンブツ吟味役
ギンミヤクを命ぜられて、安永二年の冬に江戸へ上った。彼は江戸で正式に源内に師事し、
オランダの図書や銅版画によって洋風画法の研究を深め、翌安永三年の、有名な『解体
新書』の翻訳出版に際しては、杉田玄白の依頼で挿絵を描いた。一方、佐竹曙山・義躬等
は、参勤のため江戸に上る度に、直武を呼んで共に画技の修練に励んだ。彼等は明治時
代以前の洋風画家の常として、輸入された銅版画や図書の挿絵を写して洋風画法を習得
したが、単なる模写には満足し得ず、植物、鳥類、小動物などを写生した。また、狩野
派や中国清朝の写生体漢画の画風に、陰影法や遠近法の新視覚を加え、オランダ銅版画
から学んだ精緻な細密描写を採用して、実感味溢れる鑑賞画を制作した。
 
 佐竹曙山は安永七年九月、秋田城内でわが国最初の西洋画論『画法綱領』と『画図理
解』を書いた。それらは現存する三冊の『佐竹曙山写生帖』のうちの一冊に記されてい
るが、西洋画の写実の優秀性を強く主張し、陰影法や遠近法の理論を解説図入りで説き、
併せて西洋画の顔料や油絵具の製法に及んでいる。しかし、秋田蘭画の制作期はあまり
に短かった。安永九年に中心作家の小田野直武が僅か三十二歳で早逝すると、それは発
展の芽を摘み取られた。そして五年後に佐竹曙山が同じく早逝した後は、田代忠国や佐
竹義躬等によって断続的に制作が行われたが、ほぼ十九世紀の初めにはその歴史的生命
を閉じてしまった。
 
 桃山時代の洋風画がキリシタン禁制と鎖国のため衰滅した後に、秋田蘭画は最初に組
織された洋風画派であった。それは結局、広義の江戸系洋風画に属するが、司馬江漢や
長崎派の洋風画家に先立つ先駆性は高く評価される。大抵、秋田蘭画の作品は漢画の花
鳥図や花卉図カキズを骨子とし、それにオランダ銅版画風の遠景を添えた折衷画体に過ぎ
ず、油絵具なども殆ど用いられていない。しかし、素朴ながら西洋画法を以って東洋的
乃至日本的事物を描いたことには、洋風画史上画期的な意義がある。また、秋田蘭画の
鑑賞画としての価値には注目すべきものがあって、多くの作品は武人画らしい気品と迫
力とを備え、西洋と東洋とが混在する一種不思議な美しさを持っている。
 
 最近の研究によると、小田野直武が司馬江漢の洋風画研究に影響を与えたことが確認
されている。直武はその作画の晩期において、次第に漢画の観念的主題を離れ、実写的
風景画に進もうとしていたが、この方面で十分な業績を上げることなく没した。しかし、
直武の遺業は江漢の銅版江戸名所風景図のうちに継承され、より高い次元のものへ発展
した。そこで秋田蘭画は必ずしも儚く消滅した訳ではなく、江戸系洋風画の初期に位す
るものであったとも言うことが出来よう。
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