30a 盆栽
 
[発達史]
 古来日本人は,縄文・弥生時代以降,大陸(中国,朝鮮半島)の先進文化,特に随・
唐の律令制リツリョウセイ(法律と政治の体制),文物,仏教,農法,習俗などを積極的に導入
して国造りの規範とし,また生活の向上に役立ててきました。その点で,明文を欠くも
のの,諸事情を総合判断して,盆栽の導入とその後の展開,社会への定着もまた例外で
はなかったと推察されます。
 中国についてはほぼ1300年前の「盆景」(盆栽の中国名),古名「盆花」の様式と,
それに纏マツわる世情を写し留めた貴重な資料として,初唐(唐代の頭初)に造営された
章懐太子李賢(3代目の皇帝高宗の長子)の陵墓(陪葬706年)に遺る壁画があります。
その黄釉オウユウの円形平鉢と白磁らしい木瓜モッコウ形平鉢の中には,共に石を据え花物を配
していて,「石付盆栽」の先駆形を連想させ,併せて宮女の捧持する姿からは,当時の
宮廷周辺で盆花の観賞を高風としていた事情が汲み取れます。なお,副葬品としての円
形深鉢(下方ゲホウ鉢)も出土しましたが,前記の壁画と出土品は,唐朝の高識者が室内
に盆花を飾る風習,当時の呼称「堂花」(後世人の「唐花」)を盛行させていた事情を
裏付けます。元来,生活慣習や植物などの導入は,概して記録の端にも載りませんでし
たが,前後200年,15〜6回にも及んで,先進文化の導入に努めた遣唐使とその一行が,
唐の高風「堂花」と盆樹及び「花盆」(植木鉢)を導入した可能性が浮かび上がります。
 唐の都城長安(西安)・陪都洛陽の冬における酷寒と過乾から盆花を護るためには,
特別な施設と配慮が必要でした。その点で,中唐(唐代の半ば過ぎ)の詩聖白楽天は遺
詠「新葺シュウ新居」の詩句中,「(秋末)盆花を暖室に入れる」として,はしなくも「盆
花」の呼称と「暖室」(盆栽小屋)の施設を紙面に留めました。なお,「暖室」のほか
に「地窖チコウ」(低設温床)も活用されて,盆花の保護と「早放」(開花促進)に役立っ
ていました。
 宋代には,文治制作を反映して,学問・芸術・禅宗が一段と栄えました。そのような
時代思潮を体現した花盆の優品が「古宮蔵磁」として伝世します。
 鎌倉時代から吉野時代にかけ,日本と南宋(宋の後半)及び次の王朝元との交流は,
彼我の貿易船と禅僧の頻繁な往来によって濃密に保たれていました。明文を欠くものの,
南宋で盛行していました「盆花」は,鎌倉幕府の招請した中国の禅僧とその随行者,入
宋入元した多数の禅僧などを介し,まず幕府と朝廷及びその周辺と「五山」(臨済宗の
主要寺院)の寺域などに識者の高風として導入され,次いで急速に普及したと推論され
ます。その点で,当時多作されました絵巻の中にあって,「西行サイギョウ物語絵巻」(大
原本,1200年頃),「一遍聖イッペンヒジリ絵」(歓喜光寺本,1299年),「法然ホウネン上人ジ
ョウニン絵伝」(知恩院本,1302年),「春日験記ゲンキ絵」(1309年),「慕帰ボキ絵詞エコト
バ」(1351年),「祭礼絵草子」(1360年前後)などに,接尾して盆栽(当時の「盆山
ボンザン」と「鉢木ハチノキ」)が図写され,特に画面の青磁鉢(竜泉窯ないし越州窯らしい,
「春日験記絵」「法然上人絵伝」)と花瓶カヘイ(竜泉窯らしい,「慕帰絵詞」「然礼絵草
子」)などは,傍証ながら前記の推論を裏付けます。なお,その中国渡来の磁器,特に
花盆につき,1976年韓国西岸の新安沖から引き上げられた元代の沈船(1320年頃,慶元
路(寧波))から貿易品の磁器,銅銭その他を満載して,鎌倉時代末に相当する日本(
とそれ以南)に向かっていた中国船)から,積荷の一部として発見された多数の竜泉窯
と釣釉ユウ系(焼成場は不詳)の花盆は,前掲の推論を証明します。因みに当時から江戸
中期にかけて,輸入陶磁鉢は希少高価でしたため,木片を組み合わせた精巧な鉢(「花
セキ台・石台」,それに水を湛えて「岩上樹」を据える場合の「船」)が多用されていま
した。
 室町幕府の手厚い保護のもと,京都と鎌倉で栄えた両地の「五山十刹サツ」(臨済宗の
主要寺院)の寺域内では,中国流の禅的文化が盛行しましたが,その一端を為す「五山
文学」中の漢詩文には,碧ヘキ玉盤(青磁の水盤)上の石菖セキショウ,盆蘆ロ(アシ),盆柏
(ミヤマビャクシン),盆紅梅,盆松,盆躑燭テキチョク(サツキ)などの詠物モツが介在し
て,禅林における盆栽の盛行と青磁鉢の渡来を傍証し,ひいてはそれらと中国高人の好
尚との密接な連関を推察させます。因みに,国内で良質な磁器の恒常的な焼成を開始し
ましたのは,江戸時代初頭であり,それまでは,飛鳥時代以降の長い年代に亘り,宮廷
人や地方の豪族などは,中国の磁器,特に越州窯の「祕色青磁」に強い憧れを持ってい
ました。
 室町時代初期,申サル楽師観阿弥カンアミ清次セイジは,三代将軍義満の志向に沿って,貴族
的な格調を持つ謡曲を大成しましたが,その労作とされる1曲「鉢木ハチノキ」は,当時,
盆栽が辺地の郷士にも普及し,樹種も多く,手入れも行き届いていた経緯を物語ります。
室町中期,政務を粗略にしながら,雅遊に耽っていました八代将軍義政は,清壮の頃盆
山と盆石に執心しましたが,お忍びで足げく「諸五山」を訪ねる過程で,寺域の盆山に
接したらしく,時折「諸五山,諸寺院」内の盆山を提出させ,それらの幾つかを献上さ
せて観賞し,好期を過ぎた物は,培養に長じた近侍の禅僧蔭涼軒主に預けていました。
義政の治世後半に,洛外までも焼土と化した応仁の乱が起こりましたが,動乱の中にあ
っても盆山の観賞が存続したらしく,九代将軍義尚ヨシナオの遺愛とされます絵巻「狐草子
絵」(1475年頃)では,土佐光信ミツノブが描いたマツ(「船」の岩上樹)が,縁先を飾っ
ています。
[次へ進んで下さい]