1101c 新宿御苑の菊(続き)
 
 〈歴史〉
 
 新宿御苑は明治,大正と昭和の前半までを通して日本国皇室の禁園でした。国民の公
園となったのは,第二次世界大戦後のことです。
 御苑での菊の栽培は明治37年(1904)から,観賞のための展示は昭和4年(1929)か
ら始まっています。従って名実ともに菊の御苑時代は,昭和4年から現在までです。し
かしその前身からみますと,御苑の菊も宮廷園芸として発達した典型的なものの一つで
あるといえます。
 △運営・管理
 御苑の前身は,明治5年(1872)に大蔵省が内藤新宿試験場を設けたことに始まりま
す。明治12年(1879)以降は宮内省の管轄となり,皇室のための作物を生産しつつ,一
方近代日本農業の発達を推進する役割を果たしました。この間に苑の名称は5回変更さ
れています。
 同25年(1892)頃から鑑賞園芸植物を増加させ,同39年(1906)に名称を「新宿御苑
」と改め,従来の実用本位の園芸農場から鑑賞本位の庭園へと姿を変えました。
 第二次世界大戦後,昭和21年(1946)から大蔵省,同24年(1949)から厚生省,同46
年(1971)から環境庁の所管となり現在に至っています。
 △菊の鑑賞
 明治元年(1868),菊が皇室の紋章と定められました。このときから日本国民にとっ
ては,皇室と菊花が直接的な関係を持つようになりました。
 宮内省は皇室を中心として菊を鑑賞するために「観菊会」を設け,明治11年(1878)
から昭和11年(1936)まで開催しました。展示場所は赤坂仮皇居で,昭和4年(1929)
からは新宿御苑に場所を移しました。
 殊に,大正から昭和へかけては,観菊会の展示の規模,技術,デザイン等が最も充実
した頃で,これらによって御苑がパレスガーデンとして広く海外に知られるようになっ
たと云われます。
 昭和12年(1937)から同23年(1948)までは,日中戦争と第二次世界大戦の影響で観
菊会,展示とも中止しました。戦後,同24年(1949)に菊花展示を初めて一般公開し,
一日に約4万人が鑑賞したと記されています。
 同26年(1951)からは一般公開中に内閣総理大臣,28年(1953)からは所轄の厚生大
臣,46年(1971)からは同じく環境庁長官により菊花を観賞する催しが開かれましたが,
現在は案内のみに止まっています。
 △栽培圃場
 皇室で鑑賞するための菊の栽培は,明治11年(1878)から赤坂仮皇居丸山仕立場で始
まりました。同37年(1904)からは同仕立場の補助農場として新宿御苑も使用するよう
になり,そして大正14年(1925)からはすべての菊の栽培を新宿御苑で行うようになり
ました。
 この圃場には,全国各地から優良品種が収集され,それらを応用して多くの新品種が
作出されました。さらに多数の野生種も同時に収集保存されるようになりました。
 しかし,前述の戦争中,菊花は戦傷病兵慰問への下賜となり,また戦後の圃場は専ら
食料増産のために向けられました。これら戦火や困窮の時代にあっても圃場内での品種
保存は断つことなく続けられていました。
 再び平和になった昭和40年,12,799uの菊栽培圃場には,現在約800余りに達する品種
の菊が栽培されています。
 
 〈菊花壇の歴史〉
 
 △赤坂仮皇居の時代
 明治11年(1878)11月16日,赤坂仮皇居に敷設した中菊篠作り花壇が,観菊会におけ
る最初のものとされ,昭和4年(1929)新宿御苑にすべての花壇が移設されるまで,数
多くの花壇が創設され,その規模と内容が充実していきました。
 明治17年(1884)には中菊大作り地紙形ジガミガタ花壇,大菊厚物手綱植花壇を創設し,
翌18年(1885)には伊勢菊篠作りを,そして20年(1887)には大菊大作り,中菊丸鬢挿
マルビンザシ作り花壇を新しく設けました。
 明治41年(1908)には10種11花壇に増え,大菊大作り,中菊大作り,中菊篠作り,大
菊厚物手綱植,一文字菊手綱植,嵯峨菊箒作り,伊勢菊篠作り,中菊越後作り,中菊丸
鬢挿作り,中菊角鬢挿カクビンザシ作り,接分ツギワケ菊の各花壇を作りました。このうち,8
花壇が竹木軸ヨシズ張りの上家を用い,残る3花壇が障子屋根の上家を用いました。
 花壇の最大規模のものは,中菊篠作り花壇で間口17間(30.6m),奥行3間(5.4m),
植付本数184株,一株29輪仕立て5列「互の目植え」でした。
 これらの花壇作りには数組の造園業者が当たり,それぞれの技術を競って作り上げま
したが,観菊会が終わると数日の内に取り壊されました。
 大正14年(1925)になりますと,関東大震災の影響によりそれまで単独の花壇を構成
していたものが,一花壇に統合され,やや規模を縮小しました。
 地植えの中菊大作りを,大菊大作りと同じ石台植えに,一文字菊手綱植,細管菊手綱
植を混植の手綱植に,そして伊勢菊,丁子菊と中菊一六作りを混植にして,それぞれ一
つの花壇を作りました。
 △戦前の新宿御苑
 昭和4年(1929),それまで観菊会が開催されていた赤坂仮皇居が,ガーデンパーテ
ィの規模拡大に伴い手狭となったため,新宿御苑にすべて移されることになりました。
しかし明治40年(1907)来毎年作られた中菊越後作りはこの年から中止となりました。
 昭和11年(1936)の菊花壇は,大菊・中菊作り,大菊厚物手綱植,一文字・細管菊手
綱植,中菊一六作り・丁子菊・伊勢菊・嵯峨菊混植,肥後菊,小菊懸崖作りなどが作ら
れ,花壇の種類においては,現在とほぼ同様でした。
 しかし,この年を最後に皇室による観菊会の歴史の幕が閉じられました。
 △戦後の新宿御苑
 昭和24年(1949),12年間の空白の後初めて作られた菊花壇は,僅かに残された菊を
用いて4花壇を設置しました。
 それは露地花壇を始め,丁子菊花壇,大菊大作り花壇,大菊・中菊・小菊懸崖大作り
混植花壇で,戦前の豪華な花壇と比較すべくもありませんが,初めて一般に開放された
元皇室の庭と菊花壇に国民の強い関心が寄せられ,多くの見学者が訪れました。
 翌25年(1950)は大懸崖をあしらった大菊・中菊大作り花壇,大菊手綱植花壇が作ら
れました。
 その後,次第に花壇が増設され,菊の品種増加に伴い,内容も充実していきました。
 現在と同規模の花壇が整ったのは,昭和30年(1955)で,一部の花壇で設置場所が変
わったほかは,同規模,同位置で展示を継続しています。
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