37 盆栽界発展の軌跡(史)
 
            盆栽界発展の軌跡(史)
 
                     参考:日本盆栽協会発行「皇居の盆栽」
 
〈盆栽界発展の軌跡〉
 
 皇居の盆栽は,独自のものとして一般盆栽とは異なった観点で考えられなければなり
ませんが,と云っても,一般盆栽とは全く無縁に今日の存在がある訳ではありません。
皇居の盆栽も一般の盆栽も,その歴史の中では何時も並行して,お互いに影響し合って
来たことは確かです。皇居の盆栽を語りますと,当然其処には一般盆栽の発展の経過も
並行して語らなければなりません。それはまた,皇居の盆栽の歴史の背景でもあるから
です。
 
 初めに一言触れて置きたいことは,一体何時頃から「盆栽」を「ぼんさい」と音読す
るようになったか,と云うことです。「盆栽」という字の現れた最初の文献は,清の陳
扶揺著『秘伝花鏡』(1688)で,茲では「盆栽」を動詞として使っています。しかし,
これより1世紀位前に明朝の屠隆の書いた『考槃餘事』には,既に梅,松,竹の盆栽の
ようなものが文人の清玩として流行していたことを記しています。
 わが国においては岩崎潅園著『草木育種ソウモクソダテグサ』(1818)に「盆栽」を名詞とし
て使っていますが,これを「はちうえ」と読ませています。
 「盆栽」を現在のように「ぼんさい」と呼ぶようになったのは,明治の初め頃のよう
です。明治8年大坂で発行された『青湾茗宴図誌セイワンメイエンズシ』の跋バツには,明らかに
「盆栽」となっています。
 
 言葉としての「盆栽」は比較的新しいが,植物の観賞法としての一つの形であるわが
国の盆栽は,江戸時代中期以後からと観られています。古く『春日権現霊験記絵巻』(
1309)の中に登場している軒場の鉢物棚の盆養植物は,いわゆる盆栽とは云えないでし
ょう。
 江戸時代末期に出されている園芸書『草木錦葉集』『草木奇品家雅見ソウモクキヒンカガミ』『
金生樹譜附録キンセイジュフフロク』などには,鉢の植物ウエモノを盆栽の二字で表現しています。
 観賞用の選ばれた鉢の中で丹精込めて培養した,いわゆる盆栽が人々のよって作られ
始めたのは,江戸時代中期以後と云う訳で,自然を象徴する今日風の盆栽は,江戸時代
末期の南画趣味の影響によるところが多いと観られています。
 
 同6年(1873)にウィーンで開かれた万国博には,わが国は大量の出品をしています
が,その中に「盆栽」が含まれていた事実は,わが国の盆栽の海外進出の第一歩として
記録されてよい。
 同7年,大阪の有名な骨董商山中吉兵衛(後の山中商会)の三回忌に,盛大な追悼茶
会(十席)と骨董陳列会が催され,このとき30点の盆栽が陳列されたことをそのときの
図録がはっきり残しています。これは近代における盆栽陳列会の最初のものでしょう。
 明治に入ってから,盆栽は京都,大阪,東京と拡がり,全国各地にその輪は広げられ
て行きました。
 東京では,同25年12月11〜12日の2日間,田口松旭と云う人が台麓盆栽会(上野の麓,
つまり下谷地区内)を開き,盆栽の品評会を行っていました。その図録が,当時の東京
の主だった盆栽園主等の肝入りで『美術盆栽図』3巻として発行されました。盆栽に「
美術」の言葉が明確に打ち出されたと云う点で記録されてよく,また,既にこの当時,
鉢の植物ウエモノではない盆栽の芸術性が認められていたことになりましょう。
 同25年には,向ケ岡神泉亭において「美術盆栽大会」の名で大陳列会が開かれるなど,
「美術盆栽」と云う言葉が陳列会にも用いられるようになったのです。同29年には専門
雑誌『盆栽雅報』,40年には『東洋園芸界』がそれぞれ発刊されるなど,専門誌の台頭
も際立ちました。
 
 盆栽発展の基礎は,明治中頃に確立されたと云ってよく,同30年代に入っては全国的
に盆栽は浸透し,流行し出したと観られます。
 そこで,明治の盆栽は樹種としてどのようなものが多く好まれたかを知るには,『明
治年間花卉園芸私考』(明治園芸史所版)があります。これは,曙山前田次郎と云う大
衆作家であり,明治の園芸界では名を知られた人の著した本で,これには当時の盆樹の
移り変わりが記されています。
 何時も同じように好まれて盛衰のないのが松の種類で,それも黒松と赤松であり,五
葉松にはときに人気の消長はあっても,飽きられることはありませんでした。松類を除
きますと,同30年頃からすさまじい勢いで流行したのが欅ケヤキで,それに次いで杜松トショウ
となり,32〜33年から40年にかけては桧柏イブキ(真柏のこと)が大流行を極めたと云い
ます。自生地の四国では,真柏シンパクの殆どが掘り尽くされたとも云われています。その
真柏が下火になって,次に登場したのが石榴ザクロで,これの流行は暫く続き,百面金カラ
タチバナや万年青オモトと同じように,一種の投機的な骨董品のように扱われた時代もあった
と云います。
 石榴の次いで登場したのが躑躅ツツジで,これは九州久留米辺りから押し上げて来たと
も云われています。石巌キリシマではなく,皐月サツキと称する種類のものが殆どだったようで
す。
 この本には,明治末期から今日(大正4年)まで皐月の流行は続いていると書いてあ
りますが,現在は一層盛んになって皐月会員は8000名とも云われています。
 花櫚カリン,杉,蝦夷松エゾマツ,もみじ,楓カエデ,桜桃ユスラ,豆桜などは明治を通して好ま
れたようです。
 また,その一方においては,下草盆栽として山草(高山植物)が流行し出したのも,
同30年代以来です。
 
 盆栽の海外への紹介は,ヨーロッパの博覧会などに度々出品されてばかりでなく,既
に明治34年(1901)9月13日に,盆栽の歴史と作り方とその実物紹介の講演会がロンド
ンにおいて開かれています。ロンドンにある日本協会の主催で第54回の会合が,ハノー
バー・スクエアのホールで開催されたとき,ツムラ・トウイチと云う日本人がその講演
をしたことが記録に残っています。今(昭和51年)から75年前の出来事で,こうした形
で盆栽が海外紹介された最初のものでしょう。
 
 大正に入りますと,前述の盆栽専門二誌は廃刊になり,折から東京大洪水もあって,
一時盆栽界は振るわなかったようです。大正10年,東京の盆栽業者が中心になって「大
日本盆栽奨励会」が組織され,毎月各盆栽園を会場にして陳列会が開かれるようになり
ました。年2回の大会は,東京鴬谷の料亭伊香保において開かれましたが,この奨励会
の宣伝誌として月刊『盆栽』(編集発行小林憲雄氏)が発刊されました。その後奨励会
は同14年に解散しましたが,『盆栽』誌は同氏の独力経営でその後も長く続けられたの
です。
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