36 盆栽,戦禍に生き抜く(史)
 
           盆栽,戦禍に生き抜く(史)
 
                     参考:日本盆栽協会発行「皇居の盆栽」
 
〈盆栽,戦禍に生き抜く〉
 
 皇居の盆栽にとって,明治,大正の頃は何と云っても古き良き時代でした。昭和もい
よいよ第二次世界大戦に突入してからは,盆栽も苦難時代を迎え,息も絶え絶えのその
日暮らしが始まりました。
 水の一滴は血の一滴,と消火用水の確保のためには盆栽の水など以ての外と,当時大
道の植物室に駐屯していた兵隊が目を光らせ,園丁等は蛸壷掘りに明け暮れる日々が続
いたのです。
 盆栽の一部は鉢のまま地面に植え込んでみたものの,鉢があっては根が外へ出られず,
頭の方は枝や葉があるために雨も根元には浸透しないので,何時もカラカラ状態でした。戦
争も酣タケナワになってからは,盆栽も可成り小石川植物園(東京大学附属植物園)に下付
されましたが,それでも大道に残った盆栽を水の飢餓から救うことは大変に努力でした。
 晴天が続けばどうにもならず,園丁は夜を待って月明かりを頼りに道潅濠まで水汲み
に下りましたが,急勾配の坂道を銅壷罐で濠の水を汲み上げるのは大変な重労働でした。
食糧不足で栄養失調の身体には酷ヒドく応えて,盆栽が先に参るか,自分等の身体が先に
参るか,まるで根比べのような気持ちであったと,当時園丁として過ごした人達は語っ
ています。
 
 昭和20年5月25日夜の東京大空襲によって,火は烈風と共に皇居を焔の中に包み込ん
でしまいました。大道では,目の前の吹上の森の大木の虚ウロから,火は煙突にように吹
き上げ,盆栽は頭から火の粉を被りました。水を掛けて必死に食い止めようとしたその
日の記憶は,戦時中の最も強烈な思い出でしたと云った園丁も居ます。
 終戦となっても盆栽置場がまず取り掛かった仕事は食糧増産で,戦時中からのサツマ
イモ畑に加えてキュウリ,トマト,カボチャの苗,二万本が持ち込まれて菜園作りが始
まりました。
 終戦は,一際厳しい大変革を皇居にもたらしましたが,大道だけでを限ってみても,
係員の殆どが退職,倉庫や作業所は焼失,盆栽の鉢だけがゴロゴロ転がっていました。温
室など1枚のガラスもない程の荒れようで,培養に必要な器具さえ無いと云う有様でし
た。
 
 小石川植物園も焼けて盆栽も減り,食糧増産の大道ではゴロゴロしている鉢類(支那鉢
も染付もあったと云う)を集めて植物園に移管する手筈を調え,当時のガタガタ木炭車で
運んだと云う話もあります。
 終戦前後の混乱は,当時の記録的なものを残していませんが,昭和の初めには5000鉢
あったと云う盆栽を,茲で十分の一近くにその数を減らしていることから考えても,こ
れは深刻以上のものでした。
 水の飢饉と戦災から漸く生き延びたものの,枯死寸前に追い込まれていた盆栽に,昭
和22年思い掛けない救いの手が差し伸べられました。
 東京盆栽組合が窮状を見かねて勤労奉仕を申し出たことに始まります。東京,大宮周
辺の盆栽業者が地区別に班を作って,7〜8人から10人位ずつ,月2〜3回の割で大道
に通い,瀕死の盆栽を何とか生き返らせようと云うことになりました。
 
 組合は度々役員会を開き,それについての技術的な研究を重ね,周到な準備でこの仕
事に取り掛かりました。普通の場合のように植え替えすれば,返って枯らすことにもな
りかねないと,ほんの少しずつ土を替え,根を切ると云う具合に,観察,診断しながら
作業を進めて行きました。
 触れればポリンと音がするような盆栽の状態を,どうして生き返させる,それだけが目
的の全てで,盆栽としての姿や形など問題ではなかったと,奉仕に参加した人達は当時
をそんな風に語っています。
 2〜3年は東京盆栽組合の奉仕が続けられ,皇居の盆栽は1鉢の犠牲もなく見事に危
機を克服して立ち直りました。
 そして,何時かその姿も整えられ,根張りは力強く,幹肌は年輪の深みの中に活力を
漲らせ,葉の緑は冴えて艶やかに,皇居の盆栽らしい重厚な品位と雄々しさと厳しさを
備えて見せるようになったのです。
 
 皇居の盆栽が,多くの人々の誠意と適切な管理によって,奇蹟のような立ち直りを見
せたことは確かですが,それに加えてもう一つ,皇居の盆栽自体が持っている体質的な
強さが,この試練を耐え抜かせたことも見逃せない事実です。
 戦前までの皇居の盆栽の培養上での一つの特徴は,原則的に何時も無肥料の状態で管
理されて来たことです。
 その頃,未だ化学肥料は使われず,油粕を主体とした有機肥料であったために,肥料
を使いますと異臭が伴うので,皇居の装飾用となる盆栽には,簡単に肥料を与える訳に
は行かなかったのです。従って肥料は遠避けられ,それが続けば盆栽も無肥料と云う訳
で,何時かその状態に盆栽が馴らされてしまったことになります。
 
 植え替えにしても,その直後のものは根が活着するまでの1〜2カ月は運搬すること
にも不安があるばかりでなく,それを数十日も飾らなければならないとしますと,その
木は枯れてしまうかも知れない危険があります。植え替えをしますとその翌年でないと
飾るには不適当と云った不便さが,植え替えの機会までも遂見送らせてしまう結果にな
りました。もし肥料を十分与えますと根の伸長も激しくなり,鉢一杯に根が張り巡らさ
れることになりますので,当然度々の植え替えも必要になってきます。しかし,その植
え替えはなかなか出来ないと云う訳で,この相関関係が一般盆栽とは違った皇居の盆栽
の培養上の特殊性となっていたのです。
 このことは,当然盆栽にとっては悪条件になる訳ですが,長い年月はそれを体質的な
強さとして,耐える力を付けさせることに役立っていたのです。
 一般の盆栽愛好家が示すような完璧な培養が続けられていたら,皇居の盆栽はおそら
く戦中戦後の試練を耐え抜くことは難しかったでしょう。盆栽が無肥料の状態では,常
磐木など深く濃い緑は望めず,どうしても薄い緑になりますが,皇居の盆栽の場合は,
却ってその薄緑に一種の神々しささえ感じさせるのです。

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