35 盆栽と宮殿(史)
 
              盆栽と宮殿(史)
 
                     参考:日本盆栽協会発行「皇居の盆栽」
 
〈盆栽と宮殿〉
 
 皇居の盆栽の歴史は明治と共に始まり,明治宮殿の内外においてその本領を発揮し,
以来皇居の仕来りの中で盆栽は何時も大切に,重要視されて来ました。
 明治天皇が新しい首都東京へ移られたのは明治元年10月13日でした。
 当時の江戸城は中核であった本丸,二の丸の御殿は焼失していましたので,無事に残
っていた西の丸御殿を皇居として,東京城と改称されました。
 この西の丸も同6年5月5日に焼失しましたので,天皇は赤坂の御殿に移られて仮皇
居とされました。
 
 それから11年後の同17年4月,宮殿の再建工事が始まり,同21年10月落成,次いで12
月「宮城」と呼ぶことが決定されました。これが「明治宮殿」で表宮殿,奥宮殿を合わ
せますと総面積5000坪(約16,500u),木造平屋建,屋根は入母屋イリモヤ造りで銅板瓦葺
き,全部木組みの純粋な日本建築です。
 外観は和風でも内部は洋風と云う和洋折衷の荘重な御殿でした。拝賀や謁見に使用さ
れる正殿や,宴会の行われる豊明殿などのある表宮殿は,美しい千種の花が精巧に描か
れた折上げ格天井ゴウテンジョウで,壁面には綴織が張り巡らされ,床は寄木ヨセギ張り,建具
は唐戸仕上げのガラス障子,それにヨーロッパの宮殿のようなシャンデリアが天井を飾
り,大理石のマントルピースが据え置かれました。
 
 豊明殿の食堂用に,肘掛けのないしっかりした皮張りの椅子がドイツに注文され,千
種の間の家具はフランスから輸入されました。和洋折衷と云うより,寧ろ和洋共存の華
麗さが明治宮殿の大きな特徴でした。この工事期間に当たる明治17年から20年と云う間
は有名な鹿鳴館時代で,その西欧風俗の流行は当時の思潮をそのまま反映し,明治宮殿
もそれと無縁には考えられなかった訳です。
 表宮殿だけでも3800坪(12,000u余)もあり,豊明殿は東西21間(約38m)南北12間(
約22m)で,柱無しのところだけでも東西17間(約31m)南北8間(約15m)と,当時の建
物としては画期的とも云える空間の広さを持ったものでした。
 
 こうした宮殿の屋内の装飾に「盆栽」を登場させることについては,少しの躊躇タメラい
もなかったようです。洋風ならば切花を飾るところを,盆栽一筋に考えたと云うのも,
和洋共存の感覚が当時の人々に無理なく消化されていたと考えられます。
 今当時を想像しても,盆栽ならば寄木の床や椅子,卓,或いは唐戸仕上げのガラス障
子と云ったものとの対照も,しっくりと共存し,調和したに違いありません。壁面に張
られた綴織の鮮やかな絵模様の中でも,盆栽の緑は相殺することなしに浮き立って効果
を上げたでしょう。
 西欧文明に押し流されたような明治中期に,自然を写した盆栽の簡潔な美を,自身を
以て宮殿の装飾に採り入れた先人の美意識は,今こそ高く評価されてよいのです。
 
 こうした環境の中で盆栽が求められた条件は,まず空間の大きさに負けない「大盆栽
」であること。常緑のものの方が調和しやすく引き立つことから,松柏類が中心になる
こと。花ものでは梅や藤のように木が大振りで,しかもあっさりと美しいものが適当で
あるなど,当時の基本的な考え方でした。
 豊明殿で晩餐会が開かれる折には,ご陪食の間の正面には大金屏風を背景にして
三鉢の盆栽が並べられます。中央には高さ一丈(約3m)からある松柏類の大盆栽が置か
れ,両脇に一つずつそれに合わせた盆栽が並びます。例えば中央が松の大盆栽なら,片
方には真柏を,もう片方は花もの盆栽を置くと云った取り合わせです。そして反対側(
入口)にはあまり大きくない盆栽が選ばれて七鉢並びます。それぞれ紫檀,黒檀の卓ショク
に載せられた盆栽は,辺りを払う壮麗さであったと云います。
 
 このときの盆栽の種類と配置は,山あり,谷あり,花あり,と云った自然の調和を表
現したものなのだと,その頃を知る人達は語っています。
 絢爛と輝く天井のシャンデリアが,高貴にして華麗な晩餐会の夜を映し出しますと,
居並ぶ外国の貴賓達は驚嘆し,新しい目でわが国の美しさや伝統の重みを味わい直した
に違いありません。皇居の盆栽には「大盆栽」が多いと云う点も,宮殿そのものとの調
和の上で絶対の条件であったことが改めてうなずけます。
 しかし,茲で思い起こされることは,大盆栽が求められたのは皇居だけであったか,
となりますと必ずしもそうではなかったようです。
 既に徳川時代,東海道は原宿に植木大尽と呼ばれた植松家がありました。参勤交代の
諸大名はその往復に必ず植松家に立ち寄り,見事な松の盆栽を鑑賞して大いに楽しんだ
と云う話は有名です。この植木大尽の盆栽は何れも大盆栽でした。徳川時代,大名が愛
培した盆栽と云うのは,恐らくこうした大盆栽に近いものが多かったと思われます。
 明治30年代に入って全国的に盆栽が流行し出してから,一般に培養法に凝り,技術的
な進歩がこれに伴って,大きいだけが能ではない,換言しますと芸術盆栽への志向が強
まり,同時に小型化へと動き出した,と観ることも出来ましょう。
 しかし,皇居の盆栽だけはこうした一般の潮流とは無関係に,その本質と目的を揺る
がすことなく,大盆栽の自然が守り通されて来た,と云って良い。
 
 盆栽を金屏風の前に飾ると云う習慣も,今は広く一般に行われていますが,これにし
ても明治宮殿を始め,それ以前の徳川の諸大名等の装飾法の一つが,民間の富裕な階級
に移って今日に残ったものと考えられます。
 明治,大正の頃は,皇居の仕来りの中に盆栽の登場する場面は様々ありました。宮殿
の広さはまるで迷宮のように分かりにくく,廊下にしても広いだけではなく,それが幾
つにも分かれていますので,慣れない人々には大変でした。また,廊下から見ますとど
の部屋も同じように見え,参内する人々がまごつくことも珍しくはありませんでした。
そこで,廊下の曲がり角など要所々々には道標ミチシルベとして盆栽を置いたものです。こ
れを目印に曲がったり直進したりしますと,目指す場所に無事到着出来ると考えた優雅
な趣向です。たまたまこの道標が盆栽でなく,人の立つこともあり,そんなときは盆栽
代わりの出役と,本人も周りの人々も苦笑し合ったと云います。
 この習慣は,昭和に入っても戦前はずっと続いていました。
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