34 皇居の盆器史
 
              皇居の盆器史
 
                     参考:日本盆栽協会発行「皇居の盆栽」
 
〈皇居の盆器〉
 
 皇居においては,鉢,水盤とも「盆器」と云う言葉で呼んでいますが,その数はざっ
と3000個と云われています。
 明治以前からあった盆器の大半は帝室博物館に保存されていましたが,後にこれが国
立博物館に替わったとき,当時の宮内省内匠寮園芸課に移管されました。現在は盆栽に
合わせて盆器類の管理も庭園課が行っています。
 使用されている盆器の殆どは明治以後に購入されたものが多いが,これらには質的に
較差はあるにしても,一般では得難い絶品も数多く,皇居ならではの一大コレクション
と云えましょう。
 このうち24個は重要盆器として,昭和48年に国有財産の登録をしています。皇居秘蔵
の盆器も,盆栽と同じようにいわゆる民間にあるものとは可成り違う点が大きな特色で
す。
 中国渡来の古渡,南京,炉均窯,南蛮など,古く海を渡ってわが国に入った鉢もあり
ますが,皇居の盆器の特徴的なことは,寧ろ日本鉢にあると云ってもよい。写真で見る
通り,産地も各方面に亘り,それぞれの特色の生かされた盆器がこれ程多く集められ,
しかも鑑賞的価値の高いものであることは,民間では到底考えられません。
 
 昔は,名工と云われるような人達は,盆栽の鉢には手を付けませんでしたが,皇室の
注文品とか献上品になりますと,名工が改めて制作したと云います。
 伊万里焼にしても献上伊万里と云う言葉が残っていますが,こうしたことから考えて
も皇室の盆器に力作の多いことがうなずけます。
 文政8年(1825)生まれの瀬戸の名工川本治兵衛(素(土偏+素)仙堂と名乗る)は,
中国磁器の模造に優れた才能を発揮し,瑠璃釉などに独特の創意工夫を凝らして,瀬戸
磁器に新境地を開拓した人として知られています。
 皇居の盆器の中に,この名工の斬新なデザイン感覚が縦横に生かされた作品もあり,
これには「素(土偏+素)遷堂」の銘が入っています。同じ川本治兵衛が一般のものの
制作品には「素(土偏+素)仙堂」と記しながら,皇室ご用品には「仙」を「遷」に替
えて区別したのも,多分当時の名工が皇室ご用品を特別扱いして記録する意味が込めら
れていた,と考えるのが妥当でしょう。
 
 また,皇室ご紋章入りの鉢と云うのも皇室だけのもので,これは盆栽を好まれた伏見
宮恭王が,明治40年頃琉球に特別注文して制作,献上したものです。
 盆栽と鉢に詳しい愛好家にとっては,垂涎のものとなっている明治の「幻の陶工」通
称「呑兵衛」の作「「小倉焼」と,同時代の窯業家でその作品が呑兵衛に似ているとこ
ろから「三井呑兵衛」と呼ばれて来た斎藤勘次郎の作品が揃っていることも,いよいよ
興味を深くさせます。「呑兵衛」と云う名は,その人物が無類の酒好きからそう呼ばれ
たもので,本名は今もって分かりません。
 明治24〜25年頃からその作品が世に出ましたが,品良く柔らかい味わいも独特で,瑠
璃釉の紫を含んだ深い美しさと,盆器としての狂いのなさは名品以上の名品と云われた
ものです。窯の所在も今だにはっきりせず,東京の本所か深川辺りでは,と推測する人
もいますが,何一つ記録めいたものはなく,全て謎はそのまま「幻の陶工」とだけで分
かりません。
 呑兵衛の作品が「小倉焼」と命名されたのは明治38年で,後に宮内大臣となった渡辺
千秋氏が付けたものです。
 
 当時の宮内省が東京芝の盆栽業者木部米吉氏(盆栽界の先覚者であり,陶工「呑兵衛
」の才能を見出した人)に,宮中の紅葉山を写した寄植盆栽の制作を命じたのが事の起
こりです。
 そのためにもみじ200種以上が集められ,鉢は呑兵衛に注文されましたが,その出来映
えの素晴らしさに木部氏が非常に感激したと云われています。これが宮内省に納められ
記録される段階になって,鉢の作者がただ「呑兵衛」では具合が悪いと,渡辺千秋氏が
「小倉焼」と命名したと云います。
 呑兵衛が寡作であったことの希少価値も手伝って,当時呑兵衛の評判は大変なもので
あり,その作品を持つことの出来たのは愛好者の中でも限られた人達でした。
 時代を経て今改めて鑑賞しますと,釉クスリの風化した味わいは一層作品の見事さを増
し,貴重なものとして評価を高めています。
 
 「三井呑兵衛」こと斉藤勘次郎は,明治28年に開かれた博覧会にわが国最初の白の上
釉ウワグスリを掛けた化粧煉瓦を出品し,話題になった窯業家と云われています。わが国の
家屋の装飾にこうした飾り瓦を用いる初めての試みが,この人の手で道を付けられた訳
です。
 この飾り瓦は伊豆の石を砕いて一種の上釉を掛けた独創的なもので,このとき三井商
店の飾り瓦として30余万個を作り,その余った材料で水盤を制作したことも,水盤の裏
に白の釉薬ユウヤクで自書しています。
 既にこの頃は,呑兵衛も瑠璃の釉薬を掛けた水盤類を焼いていたことは確かで,斉藤
勘次郎は呑兵衛の作品から何かを学び採ったのではないか,と云う説もあります。或い
はまた,呑兵衛の水盤が大きくて自分の窯で焼くことが出来ず,窯業家である斉藤勘次
郎の窯を借りて制作したのでは,と憶測する向きもあります。斉藤勘次郎の作品が「三
井呑兵衛」と云われるのも,水盤などその作りや味わいの点で「呑兵衛」の作品によく
似ているからです。
 
 ある時期は呑兵衛の偽物のように扱われたこともありましたが,最近はそうした見方
は誤りであり,それぞれ別なものとしての価値が見出されています。
 皇居の盆器の古い台帳には,三井呑兵衛について,明治34年10月,第1回窯業品共進
会に出品されたものを,宮内省ご用品として買上げた記録が残っています。呑兵衛は同
38年12月,39年2月,同じく4月の3回に亘り,宮内省に納入されていることが記され
ています。
 この記録の年月日から見ますと三井呑兵衛の方が先になる訳ですが,このことだけで
どちらが古い,新しいと決める事は出来ません。しかし,鉢の研究をしている専門家の
間では,この二人の作品に何らかの関連があることは確かと観ていますが,これ以上に
はっきり解明出来る資料は今のところ見当たりません。
 
 また,皇居の盆器には一般では容易く見ることの出来ないものも数多く,その一つ「
尾張染付大盃」を採り上げて見ますと,万延元年(1860)幕府の遣米使節として訪米し
た新見正興が,ときのアメリカ大統領ジェームス・ブカナン(1857〜61)への土産品と
して贈呈した大盃と同じものです。日本流に云いますと大盃でも,アメリカではこれを
パンチボールと承け取ったようです。ブカナン大統領は美術品の愛好家であり,この大
盃も現在ブカナン美術館に保管されている筈です。
 
 また,昔の絵巻物などに出てくる「石台セキダイ」(鉢の四方に持ち手が付いている)
も,皇居には素(土偏+素)遷堂川本治兵衛の作品があります。これは瑠璃色と白の大
きな縞柄に,牡丹と唐獅子を配した図柄ですが,素(土偏+素)遷堂は好んでこうした
瑠璃と色の大胆な縞柄を生かしたものです。明治以後には,奇想天外とも受け止められ
たでしょう素(土偏+素)遷堂のデザイン感覚が,今新鮮な共感を呼んで人々に訴える
のは驚きと云うよりほかありません。
 皇居の盆器はどの一つを採り上げても,陶工の伝統的な技術の確かさや模様の巧緻さ,
釉クスリの面白さと云ったものを,その個性の中で生き生きと昇華させているのです。

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