33a 皇居の盆栽史
 
〈皇居の盆栽〉
 
 皇居の地は大体三区域に分けられています。坂下門と乾門とを結ぶ南北の線の東側は,
旧江戸城本丸,二の丸,三の丸の跡で,その大部分は東御苑と云って現在公開されてい
ます。
 南北の線の西側は道潅濠を境にして南が旧江戸城西の丸跡で現在の宮殿地区,北が吹
上御苑で両陛下のお住居吹上御所のある地域です。大道通りは,前述のとおり吹上御苑
と道感濠に挟まれた古くからの道ですが,また,昔は賢所参拝への道でもありました。
 三大節には,正装の高官が馬車で大道を通って賢所に向かったものです。盆栽仕立場
の園丁等にとって三大節は受難の日で,夜になると提灯を点けては馬の糞を拾い集め清
掃する仕事が一つ増えるのでした。
 当時はまた,浜離宮や霞ヶ関離宮に盆栽を運ぶ機会が多く,そのときは輿入れ行列の
ように台輪ダイワで担いで運んだものです。股引,腹掛け,雪駄履きと云う出で立ちで,
首には拍子木をぶら下げ,「よう」と云う掛声でカチカチと叩き,これを合図に担いだと云
います。一丁行く毎にカチカチと叩き,休み休み目的地に着いたと云われ,当時ののんびり
とした有様が目に浮かぶようです。
 その後,格子車と呼ばれる欄干ランカンの付いたバネ付き手車を使うようになり,更にそ
れはリヤカーに変わり,遂に自動車になったと云うのも,時世の変化を物語っています。
 
 明治,大正の頃の園丁の制服は独特のもので,半被ハッピの背中央に丸に宮の字を染め
抜き,前の衿には丸に匠タクミの字を入れたものでした。これに饅頭笠と腰に吊るした山刀
ナタと黒木綿の合羽が加わって一揃いとなりました。
 しかしこの服装も昭和に入っては園丁等に嫌われたようで,その後は作業服らしいも
のに変わり,更に昭和戦中に入って国民服調となり,それから現在の開襟シャツスタイ
ルとなりました。
 此処に働く人達は人目に付かない地味な労働でも,陛下のお側に置かれる盆栽を自分
等の手で守り育てると云う気概を持ち,親子二代に亘って仕立場の盆栽に生涯を賭けた
と云う人達もいます。家族的な雰囲気の中で盆栽は何時も大切にされ,この人達の誠実
な管理が続けられて来たのです。
 
 皇居にある盆栽を語るとき,全くそれが一つの固有名詞のように「皇居の盆栽」と呼
ばれ,皇居に秘蔵された盆栽ではあっても樹種や樹形が特殊なものである筈はなく,盆
栽はあくまでも盆栽なのです。
 しかし「皇居の盆栽」と,改めて「皇居の」文字が付けられるには,矢張りそれなり
の大きな理由はあります。
 此処に集録された数多くの盆栽を鑑賞するとき,いわゆる一般の盆栽,たとえそれが
名品と云われるものであろうとも,皇居の盆栽はそれらとの比較を超越した次元のもの
であることが理解出来るに違いありません。一般の盆栽の常識的な条件の埒外にあって,
目を見晴らせるような感動を与えるのが皇居の盆栽と云えましょう。
 
 普通の場合,盆栽の名品と云えるものはその木自体の性の良さに,完璧なまでの人工
的な技術が加えられ,それに歳月の重みが裏打ちされて名品の条件は整えられるもので
す。皇居の盆栽には,まず,人工的な技術が極端にまで押さえられ,植物の自然を阻害
しないところに盆栽作りの基本的な姿勢が置かれて来たと云えましょう。
 大らかに,堂々と,自然そのままを大切に,葉を茂らせ,枝を混ませて大盆栽とした
ものが目立つのも,一般的な培養とは異なった皇居独自の盆栽作りによるものです。そ
れに加えて,皇居の盆栽の樹齢は前述のとおり100年,数百年のものも決して珍しくない
盆養の古さが,自然と歳月を絡み合わせて,ただの盆栽ではない厳しく深い重々しさを,
その幹肌に,根張りに,枝先に漲らせています。この深い味わいこそ,何かを超越した
皇居の盆栽だけが持つ貴重な表情なのでしょう。
 それは風格と云う言葉で表現しただけでは足りない,堂々と辺りを払う気品が芯を貫
いていることで一層その思いを深くさせます。常識的な盆栽観では律しきれないものが,
皇居の盆栽の個性であり,圧倒されるような感動が沸き起こるのもその辺にあると云っ
てもよいでしょう。

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