33 皇居の盆栽史
 
              皇居の盆栽史
 
                     参考:日本盆栽協会発行「皇居の盆栽」
 
〈皇居の盆栽〉
 
 日本歴史の新しい夜明けを迎えた明治から,大正,昭和と100年余の歳月が,今もはっ
きりした形で生きているのが「皇居の盆栽」です。
 それ以前の徳川300年の江戸城の歴史も,土や水に染みて,皇居の盆栽の年輪の中に,
ひっそりと刻まれているのではないでしょうか。
 皇居の盆栽の雄々しく,しかも荘重な気品に満ちたその佇まいに接しますと,不思議
に,様々な歴史が絵巻物のようにその背景を彩り,心を離しません。今,皇居には約600
鉢の盆栽がありますが,昭和の初めの頃までは5000鉢を越えたと云います。50年の間に
こんなに減ったのは,第二次世界大戦の戦中戦後に失った数が大きく,盆栽にも戦禍の
傷跡は大きかった訳です。
 
 昭和51年4月,この中の70鉢は国有財産として登録されましたが,これは外の盆栽展
に貸し出されたり,また皇居内でもよく使用されるものが選ばれました。
 現在,皇居の盆栽を管理しているのは,宮内庁管理部庭園課です。
 この庭園課の記録や,親代々皇居の園丁を勤めたと云う方々の口伝えを,あれこれ繋
ぎ合わせても,皇居にある盆栽の歴史が読み取れるのは明治以後です。
 今皇居の盆栽の樹齢を見ますと,古いものは1000年,有名な三代将軍遺愛の盆栽で500
年,平均しても100年以上にはなろうと云います。古いものは旧幕時代から,江戸城の広
大な建物の装飾用に,鉢の植物(盆栽)として培養されたものがそのまま残されていた
のでしょうか。或いはまた,明治天皇のお供をして京から江戸に下ったものが多くあっ
たのではないか,などとこの辺は全て推測の域を出ません。
 
 今,皇居の盆栽の置かれている「大道盆栽仕立場」は,坂下門から乾門に抜ける乾通
りを途中で左折し,約500m程入ったところにあります。幅8mのこの通り「大道通り」と
呼びますが,500余年前大田道潅が城を築いた頃は欅ケヤキ並木の街道筋で,一説には甲州
街道であったとも云われています。盆栽仕立場の近くに今も一里塚が残っていて,春は
桜が一際美しく,街道筋であった頃の名残りを留めています。
 盆栽仕立場は,珊瑚樹サンゴジュの生垣で通りに面し,それをしっかり二重に固めるよう
に後から要カナメの高い木が寄り添った処に入口があります。この真向かいの西側一帯には
吹上御苑のコンクリートの塀が長く続き,鬱蒼と緑深い吹上の森と大道通りとの間に一
線を画しています。
 今も空に突き抜けるような数十メートルのけやき,えのき,あかがし,白かし,くすの木,
もちの木,もっこく,と云った様々な吹上の森の大木を,その裾でしっかり包むように
回された塀が,吹上の森をくっきりと浮き上がらせています。
 仕立場の東は道潅濠を距てて真向かいに紅葉山を見ますが,この辺りの秋色はその名
の通り素晴らしい。
 仕立場から道潅濠に降りる急な小道は,しっとりと緑の匂いに包まれ,えのきの大木
が空を覆い,日を遮ってほの暗い。一口に道潅濠と云っても,上道潅,中道潅,下道潅
の三つに呼び分けられ,それぞれに生い茂る植物の風情も異なります。中道潅には清麗
な蓮の花が夏の朝を爽やかに彩り,小道を挟んで続く下道潅は,水面一杯に葦を茂らせ
て武蔵野の面影を偲ばせます。
 皇居の盆栽が,その歴史の始まりを明治としますと,そのときからこうした環境の「
大道」に100年余りの日々を生きて来た訳です。
 
 吹上御苑と道潅濠に挟まれ,南北に伸びた約8000uの平地で,通風も日当たりも良い
好個の地が「盆栽仕立場」です。此処には盆栽ばかりでなく,陛下(昭和天皇)の採集
された野草もこの一角に植えられています。晴れた静かな日に,陛下は道潅濠に沿った
小道のご散歩を楽しまれ,時折はまた仕立場の中の野草の生育振りをご覧になります。
 盆栽の仕立場となって整然と棚が並んだ部分は,この中の約450u程です。数多い盆栽
は,高さに応じて40〜50pから80pの木の台に載せられ,安定した佇まいを見せていま
す。
 此処までは都塵も近付けず,澄んだ空気は道潅濠に啼く鳥の一声も近々と伝えてきま
す。空は一杯に開かれて日と風に恵まれたこの環境にも,風はときに思いのかけない都
心の表情を運んで来ます。
 南の空が桜田門から三宅坂へと広く開かれ,遮るもののない空間は,激しい交通の騒
音を始め,街に流れる賑やかな音楽や人声までも響かせ,風がそれを乗せて皇居の盆栽
の葉の茂みを吹き抜けて行きます。
 吹上の森と紅葉山の樹林に挟まれながら,盆栽は移り変わる大都会の息吹きを空から
味わうことも度々です。
 盆栽置場の近くには熱帯植物や蘭のための温室もあり,季節の花を楽しむ園芸の場も
あります。
 およそ皇居で栽培される植物の殆どは「大道」の土に生き,それぞれの個性を精一杯
発揮しています。
 多くの盆栽類を保存,収納する倉庫も此処にありますが,門外不出,皇居以外には見
られないと云う盆器の数々が,名工の魂を篭めて眠っています。
 
 江戸城の頃からこの「大道通り」があったことは確かであり,また「盆栽仕立場」は
「皇居御造営」後の施設と,どちらも宮内庁の古い記録にはっきり記載されています。
 大正10年12月,宮内省の内匠寮は「宮城風致考」と題し,綿密な記録をその「附図」
と共に完成させています。全部で三篇に亘りますが,和紙に毛筆書きで,当時の宮城の
風致をその歴史と共に解明している貴重な記録です。
 三篇のうちの「中篇」に「大道通り」がありますが,そこには次のように記されてい
ます。「西桔橋ニシハネバシニ対面セル吹上東門ヨリ道潅濠ニ沿ッテ登リ、入隅門前ニ於テ左
折直進シ、三角門内ニ達スル道路ハ、徳川時代ヨリ大路ト称シ、西丸及ビ本丸ヨリ吹上
ニ出入スルノ要路タリシモノ。今尚道路ハ以前ノ位置ニアリテ僅カニ内苑内外賢所脇道
潅門ノ処ニ於テ幾分改メラレタルニ過ギズ。コノ道路ノ創設ハ道潅濠穿鑿ノ際ニシテ、
昔時、水戸、尾張、紀州三家邸前ノ街路ナリシヲ三家撤退後、吹上苑経営ノ際ニ入隅門、
道潅門、間濠ニ沿ウテ湾曲セル部分ヲ改メテ直線トナセルモノナリ。而シテ現今ハ道潅
門以南ハ道潅堀添賢所方面ト呼ビナサレ、普通大道通リト称スルモノハ東門ヨリ道潅門
ニ至ル道路ノ謂ナリ。盆栽仕立場ハ皇居御造営後ノ施設ニシテ、尚其前後ニハ明治ノ初
年建設セラレシ兵舎ト火薬庫アリテ、火薬庫ハ二、三年前廃止セラレシモ、兵舎ハ今ニ
存在セリ。」
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