02b 皇居の植物(抄)その1
 
△道潅濠
 現在,上カミ・中ナカ・下シモの各道潅濠に分けられていますが,江戸時代には一続きの道
潅濠でした。道潅の名を冠するこの濠は,太田道潅の時代に造られたものか,或いは徳
川氏の居城となってから掘られたものか定かではありません。上・中各道潅濠の境は,
明治5年に架けられた釣橋に代えて,同17年頃土手を築いて道路としたものです。中・
下各道潅濠を区切る道潅濠新道シンミチは,昭和17年紅葉山に掘られた防空壕の土によって
新設されました。
 
△吹上御苑
 吹上御苑は,天正以前には局沢(坪根沢)と称し,日蓮・真言・天台・禅など五宗の
寺院16箇寺が存在したと云われます。家康の関東入国後は,これらの寺を悉く他に移し
て跡地を代官・年寄・番衆などの邸宅としました。前述の年寄は老中の前身です。その
後,慶長の末・元和の頃二代将軍秀忠のときに紀伊・尾張・水戸の三家,駿河大納言,
越前中納言などの親藩を初め二十余家の宅地となりました。四代将軍家綱の時代に至り,
俗に振袖火事と呼ばれた明暦3年の大火後は,上述の親藩の屋敷を他に移し幕臣の邸宅
が置かれました。五代将軍綱吉の代の元禄・宝永年間に半蔵門・竹橋間の邸館を他に移
し,跡地を均ナラして周囲に土塁や濠を巡らして一大苑地としました。これが吹上苑の創
設と云われています。しかし綱吉は工事の途中で世を去り,次の六代将軍家宣は,一部
の大名にその工事を手伝わせ,更に全国の諸大名に命じて珍石・名木を収集しました。
そして紅葉茶屋・松茶屋・地主ヂシュ山亭・清水観音堂・同舞台・滝ノ宮・上覧所などを
築造しました。吹上苑の池においては最も大きい広さ約三千坪(約1ha)の大池も,そ
の頃造られたものと推定されています。諸工事の終了後は吹上苑と称し,吹上花畑奉行
(吹上奉行の前身)が置かれました。吉宗が八代将軍となるや勤倹・殖産・文武の奨励
を旨として,一二の小亭を残して他は取り去り,家継の生母勝田氏(月光院)の居館を
新構に建てました。そのほかに学問所・給所・天文所・馬場・射場・鉄砲所・薬草製所,
酒・砂糖・菓子など食品の製所,穀物取集所・綿羊飼立場などを設立しました。更にサ
クラ・カエデ・マツ・ハゼノキ・クリ・タケ類・サツマイモなどを植えました。後にサ
クラ・カエデ・マツなどは飛鳥山アスカヤマや向島ムコウジマの隅田川堤などに移植して士民の遊
観に供しました。このように実用主義に偏った吉宗も,一方においては田地タヂノ流・木
賊山下ノ流・梅ノ腰掛・鳩ノ腰掛・三角柵ノ物見などを造らせました。九代将軍家重の
代には,山吹流,新茶屋と同所泉水,作兵衛滝・紅葉茶屋などが出来ました。十代将軍
家治の世には,煉土前ノ流などが造られましたが,吉宗の建てた学問所や諸製所などは,
何時の間にか廃されました。しかし家斉が十一将軍を継ぎますと,益々修築を加えて諏
訪ノ茶屋・同所腰掛・同所吹井筒・田舎茶屋・並木茶屋・新植木茶屋・織殿オリドノ,幾つ
かの腰掛・堀・流れなどが新設されました。更に文政ブンセイ元年5月24日には,山吹流れ
に沿って諸国に名立たる名所の松40本が植えられました。十二代将軍家慶以後は,世事
ようやく繁く十五将軍慶喜に至るまで,さしたる工事もなく明治維新に及びました。
 
 なお,吹上苑の周囲には,御成門(現在,その跡に滝見門がある)・入隅門(跡には
吹上正門)・弐之門・壱之門・新門・西門・植木門などがありました。また,現在の大
道庭園一帯は裡山ウラヤマと称し,江戸時代には薬園・文庫・クリ林などが置かれたことも
あります。江戸城において使用した水道は,玉川上水が四谷見付ミツケを経て半蔵門から入
り,分水されて吹上苑は半蔵門内,西の丸は吹上門(明治以後の三角門),本丸は北桔
ハネ橋門から,北の丸には半蔵門から吹上苑の外側を巡って配水されました。現在,代官
町通りの南側に沿う空濠は,俗に段ダン濠と称し江戸時代には半蔵門内から西門を経て段
濠に至り,其処に数箇所の石造りの堰セキを設けて水を蓄えた跡があります。
 江戸時代における吹上苑は,新構・広芝ヒロシバ・田地タヂの三つに大きく分けられてい
ました。新構とは吹上苑の南部の区域です。現在,昭和3年に竣工した生物学研究所,
明治22年に移転した賢所,吹上浄水場,桑園,明治・大正年間の建築に係る御ギョ府など
が存在しています。他の二つは広芝と田地でその周囲に土塁を巡らし,現在,吹上御苑
と称する区域です。広芝は新構と田地との中間に位置し,文字通り広々とした芝地が中
央にあり,地主山ヂシュヤマ・ケヤキ並木・竹の裡山ウラヤマなどに囲まれた場所です。広芝は
歴代の将軍が武術の習練や閲兵をしたり,明治4年11月17日には大嘗祭ダイジョウサイを挙行
した広場でもあります。田地は吹上苑の北部を占める低地で,江戸時代にはこの一部に
水田が造られ,毎年,米10俵を収穫したと云います。現在,覆馬場跡・内大路,観瀑亭
(江戸時代の滝見茶屋)・滝見の滝・滝見の池・白鳥堀(弁天堀)などを含む区域です。
 
 維新当時の吹上苑は荒廃し破壊された所も多く,明治7年に縦覧を許した頃は,諏訪
ノ茶屋・紅葉茶屋・並木茶屋・滝見茶屋・花壇茶屋・地主山腰掛・三角矢来腰掛・梅ノ
腰掛・馬見所・上覧所だけが残存していたと云います。その後,同22年に寒香亭が落成
してから駐春閣・広芝の馬場・温室などが新設されました。昭和の初期からゴルフ場と
して使用されてきました広芝は,昭和12年からゴルフを中止したのを機会に芝生の手入
れも止めました。更に同14・15年頃からは吹上御苑の庭園的な管理も中止しました。同
17年には広芝の中の北部に防空建築の御オ文庫が出来て,空襲が激しくなってからは天皇
・皇后の住居となりました。同36年11月27日には,この建物の南側に接して吹上御所が
落成しましたので,併せて吹上御所と呼んでいます。今や吹上御苑に存在する建物は,
吹上御所・花蔭カイン亭・観瀑亭・寒香亭・霜錦亭,泉水としては滝見の滝・滝見の池・白
鳥堀(弁天堀)・大池と中島ナカノシマ・寛政の滝などがあります。現在は江戸時代からの大
木を交えた多くの栽植品と共に,いわゆる武蔵野の植物が生い茂っています。
 
△北の丸と北の丸公園
 北の丸は,明暦以前は主として幕臣の邸宅が存在しました。やがてそれらは取り払わ
れて空地や土蔵の敷地となりました。八代将軍吉宗の時代に至りその子,田安宗武が北
の丸の西部に,更に九代将軍家重の子,清水重好が東部に各屋敷を与えられて居館が建
てられました。現在,田安門・清水門は重要文化財に指定されています。維新後の北の
丸跡は,明治7年に近衛歩兵第一・第二聯隊レンタイ が編成され,その駐屯地となり,同43
年に近衛師団司令部の庁舎が建築されるなど,昭和20年までは主として近衛師団の使用
地でした。戦後,同38年5月の閣議決定に基づき,皇居外苑の一部となり森林公園とし
て整備されました。現在は北の丸公園と呼ばれ環境庁が管理して一般に開放されていま
す。建物としては,同39年に武道館・科学技術館が竣工しました。更に同44年に東京国
立近代美術館,同46年には国立公文書館が完成しました。内閣文庫も同公文書館の一部
として存在しています。旧近衛師団司令部の建物は重要文化財に指定され,前記近代美
術館の工芸館として利用されています。以上,北の丸公園は皇居ではありませんが,昔
は江戸城の一部になっていましたので,茲に略述しました。

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