02a 皇居の植物(抄)その1
 
△本丸とその跡
 本丸には五重の天守閣,三重の富士見櫓(現存)の他に九基の三重又は二重の櫓と,
1万坪前後の殿舎とが建てられ周囲の濠や高い石垣と相俟って壮観を呈しました。その
後,本丸の建物特に殿舎は,都合5回火災により焼失していますが,最後の文久ブンキュウ
3年(1863)の火災を除きその都度建造されました。しかし明暦メイレキ3年(1657)1月
のいわゆる振袖火事によって焼失した天守閣は,その直後に天守台の石垣のみ修復され
ましたが,遂に再建されることはありませんでした。本丸御殿は表・中奧・大奥の三つ
に区切られていました。表には大広間・白書院・黒書院などの儀式に使用される部屋,
帝鑑之間・柳之間・雁之間・芙蓉之間など大名や旗本が詰める部屋,老中・若年寄の御
用部屋を初め幕府の役人が執務する部屋などが造られました。中奧には将軍の日常の政
務を執る部屋・居間・寝室などが配置されていました。大奥は将軍の夫人・子女,奧女
中などの住居です。
 本丸跡の天守台には,明治15年以後,気象台が設置されて気象の観測が行われたこと
もあります。そして呉竹クレタケ寮の近くに午砲ゴホウ台跡の小山が存在しました。この午砲
は俗に「ドン」と呼ばれ,明治4年から昭和4年まで正午を知らせる大砲(空砲)が近
衛兵,後には東京市によって撃たれました。昔は海が望まれたと云う潮見坂の西側や現
在の楽部庁舎辺りに衛生研究所,天守台の南側に紅葉山の養蚕所において用いる桑園な
ども設置されました。昭和7年3月,この桑園の東側に内親王の住居である呉竹寮が建
てられました。現在,本丸跡には宮内庁の書陵部と楽部との庁舎,桃華トウカ楽堂などがあ
りますが,大部分は皇居東御苑の庭園です。
 
△二の丸・三の丸と皇居東御苑
 二の丸・三の丸にもそれぞれ殿舎が建てられ,各御殿に表と奧とが存在しました。明
暦3年の大火後は二の丸・三の丸共に殿舎が再建されました。その後,二の丸御殿は焼
けても造営されて慶応ケイオウ3年(1867)に全焼するまで存続しました。また,三の丸に
ある大手門内には下シモ勘定所が置かれていました。なお,二の丸跡の百人番所・同心番
所,中之門内の大番所,三の丸跡の桜田二重櫓(巽タツミ櫓)・桔梗門(内桜田門)・平河
門は江戸時代のものですが,大手門渡ワタリ櫓は昭和20年に戦災によって焼失し同42年に復
元された建物です。
 
 明治以後,二の丸跡に宮内省の主馬シュメ寮庁舎・馬場などが設けられましたが,現在は
大部分が庭園に変わり,蓮池門跡付近が車馬課の庁舎になっています。また,大正7〜
8に埋められた濠跡の辺りに皇宮警察本部・済寧館などが建っています。三の丸跡にも
覆オオイ馬場・厩舎・宮内庁病院の庁舎や馬場などが造られ現在に及んでいます。なお三の
丸跡に存在した内閣文庫は,北の丸公園の国立公文書館内閣文庫として発足しましたの
で,昭和60年に撤去が完了しました。昭和35年1月には,本丸・二の丸・三の丸各跡の
一部を庭園として整備することに閣議において決定し,同36年に着工して同43年9月に
完成しました。これを皇居東御苑と称し,同43年10月1日から特定の日を除いて一般に
公開されています。二の丸跡には,武蔵野の雑木林を再現したもの,ハナショウブ園,
都道府県の木植栽地,移築された諏訪の茶屋,江戸時代の図面によって復元された泉水
などが設けられています。
 
△西の丸と宮殿
 西の丸の地は徳川氏の入国直後も,まだ耕地や花木が植えられた処がある丘陵で,江
戸士民の信仰や行楽の場所であったと云われます。当時,鷹ノ森とも呼ばれたと云う紅
葉山は,士民の氏神として山王社が建立されたり,山里に西の丸築造後は遊山の地とし
ています。山里は西の丸の殿舎の西側の地で,現在は宮殿の表御座所・つつじの庭・馬
見所などが存在する区域です。その後,山王社は城外に移され,元和ゲンナ4年(1618)
4月17日,紅葉山の東照宮が創建されました。後には紅葉山下ヤマシタにも二代将軍秀忠以
下の歴代将軍の霊廟が建てられましたので,紅葉山とその山下一帯は,明治維新まで城
内の霊域となりました。紅葉山は明治年間に内庭の一部として当時の皇后の運動を兼ね
野菜・花卉カキが栽培されました。そして大正3年(1914)から紅葉山に新築された養蚕
所において蚕の飼育が行われ現在に及んでいます。江戸時代には紅葉山下に存在した宝
蔵の約半数が紅葉山文庫(楓山文庫,楓山秘閣)と云われ,家康以来,収集した書物や
献上本など幾多の貴重な書物も所蔵されていました。紅葉山文庫は維新後,新政府に引
き継がれて内閣文庫となり,後にその一部が宮内省図書寮(現在宮内庁書陵部)の蔵書
となりました。内閣文庫は三の丸跡にありましたが,昭和46年7月1日から北の丸公園
において国立公文書館内閣文庫として発足しました。明治4年,紅葉山下の宝蔵跡に女
官ニョカンの局ツボネが建てられました。現在,同山下一帯には用度課総合倉庫・紅葉山宿舎
・宮内庁庁舎などが存在しています。また,江戸時代の遺構と思われがちな乾門通り沿
いの長屋門は,明治19年に建てられたものです。
 
 西の丸の殿舎は,主として前将軍又は将軍の世子の住居に使用され,表・中奧・大奥
の三つに区切られていました。文久ブンキュウ3年(1863)6月3日,西の丸殿舎が全焼し,
更に11月15日には本丸の殿舎も焼失しました。以後,本丸の御殿は再建されませんでし
たが,西の丸には同4年7月1日に仮御殿が竣工して十四代将軍家茂が移りました。現
在,二重橋の近くに伏見櫓と多聞タモン,その奧に山里門など江戸時代の建物が残っていま
す。
 
 慶応3年(1863)10月14日,十五代将軍慶喜は大政を奉還しました。斯くて江戸城は
慶長8年(1603)2月,家康が征夷大将軍に任じられてから265年に亘る江戸幕府の政庁
として終わりを全うしました。明治元年4月4日,東海道先鋒総督橋本実梁サネヤナ,同副
総督柳原前光マエミツが西の丸に入城して朝命を伝え,同11日に朝廷が江戸城を接収しまし
た。斯くして天正18年(1590)家康が入城して以来279年に及ぶ徳川氏の居城が朝廷方に
明け渡されました。そして前将軍徳川家十六代を相続した家達イエサトは,明治元年5月24
日,駿河国府中(明治2年静岡に改称)において70万石の府中藩主に移封されました。
同年7月17日に詔書を以て江戸を東京に改め,9月8日に慶応を明治と改元しました。
9月20日,明治天皇は京都を出発して10月13日に西の丸に入城し,江戸城を皇居と定め
東京城と改称しました。天皇は12月8日に東京城を出発して22日に京都御所へ戻られま
した。これより先,19日に徳川家達に対して城内の紅葉山とその山下にある徳川氏の霊
廟の撤収が命じられました。天皇は同2年3月28日,再び東京城に入りこれを皇城と改
称し,同5年3月には本丸・二の丸・西の丸・吹上が皇居と定められました。ところが
同6年5月5日の払暁,女官部屋から発した火は,瞬く間に宮殿を始め西の丸一帯を焼
失しました。そこで天皇・皇后は赤坂離宮に移られ,同離宮を仮皇居としました。その
後,同7年12月,皇居造営のことが出されましたが,着工しないうちに同10年1月に至
ってこの造営は延期となりました。同12年9月に再び造営令が出されましたが,国事多
端の折から造営費が巨額に達すること,位置の選定,建築様式などから造営の決定が困
難となりました。ようやく同16年に至って吹上に賢所,西の丸の殿舎跡・山里に宮殿,
紅葉山下に宮内省の庁舎・女官局,二の丸・三の丸の各跡に主馬寮の庁舎・厩舎を建設
することが決まり,同17年に着工しました。斯くて同21年10月27日に明治宮殿が落成し
皇城を宮城と改称しました。この宮殿は御車寄ミクルマヨセ・正殿・豊明殿・東溜・西溜・千
種チグサの間・鳳凰の間・御常オツネ御殿などからなっていました。その後,大正時代を経て
昭和20年まで約60年に亘り,公式の行事,天皇・皇后の住居などに使用されて来ました
が,同年5月26日の未明,戦災により焼失しました。以後,新宮殿が出来るまで宮内庁
の庁舎の三階が改装されて仮宮殿になりました。そして同23年7月1日には宮城が皇居
に改称されました。新宮殿は同39年6月29日に起工式,同43年11月14日に落成式が行わ
れ,同44年4月から使用が開始されました。この宮殿も表御座所・正殿・豊明殿・連翠
レンスイ・長和殿などの建物と,これらに面して,つつじの庭・南庭ナンテイ・中チュウ庭・東トウ庭
などの庭園が配置されています。なお,つつじの庭の上部には,明治宮殿造営の際に建
てられた馬見所バケンジョが現存しています。
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