02 皇居の植物(抄)その1
 
             皇居の植物(抄)その1
 
                        参考:保育社発行「皇居の植物」
 
[総説]
 
〈地形〉
 
 皇居は東京都千代田区のほぼ中央,北緯約35゚40',東経約139゚45'に位置しています。
東京都は奥多摩の山地から多摩丘陵,次いで武蔵野台地へと,西から東にかけて次第に
低くなり,遂に旧利根川沖積平野の低地いわゆる東京の下町シタマチに達しています。武蔵
野台地は,北の荒川・入間イルマ川と,南の多摩川との間に発達した長方形の台地で,先端
が幾つかの平坦な台地に分かれています。その一つ淀橋ヨドバシ台は,神田川と目黒川と
に挟まれた台地で,複雑に侵食されて多数の谷が入り込んでいますが,上面は割合に平
坦で,標高は30〜40mあります。東及び南東の端は東京湾に面して崖ガケになっています。
皇居の地は,この淀橋台の東北端を占めていますので,昔は遥かに江東コウトウ地区から千
葉県方面まで一望のうちに収められました。現在は本丸跡の潮見坂シオミザカの名が往時の
名残りを留めています。皇居内において最も高い処は,吹上御苑の地主山ヂシュヤマの海抜
33mです。そして半蔵門付近の32.5m,本丸跡天守台の30.2m,紅葉山の28.5mなどがこれ
に次いでいます。
 
 皇居の西側,及び北の丸公園・東御苑(本丸跡・二の丸跡・三の丸跡)を含む北側は,
桜田濠・半蔵濠・千鳥ケ淵・牛ケ淵などによって淀橋台の本体から切り離され,東側は
桔梗キキョウ濠・二重橋濠などを介して下町の沖積低地に接しています。また皇居には上カミ
・中ナカ・下シモの各道潅ドウカン濠,平河ヒラカワ濠・乾イヌイ濠・蓮ハス池など大小の濠があります。
これらは何れも人工的な構築物で,多量の移入石材が使用されています。
 皇居を取り巻く各地のボーリングの結果から総合しますと,皇居の地下は大体次ぎの
ような地層になっていると考えられます。薄い表土の下に,厚さ6〜8mの関東ローム層
があります。これは富士山や箱根山の噴火による火山灰が西風に運ばれて積み重なった
と考えられる赤褐色の地層で,1〜3万年前の立川タチカワローム層が上に,3〜6万年前
の武蔵野ローム層が下に重なっています。その下に4〜5mの厚さのローム質粘土層(6
〜13万年前),更にその下に黄色〜褐色の砂や礫レキの層(東京層)のような順になって
いると思われています。
 
〈気候〉
 
 皇居は東京の都心に位置していますので,濠を隔てて直ぐ東側にある気象庁が観測・
発行した「日本気候表」(1982)その2,地点別月別平均値143〜144頁の東京の観測記
録によって,皇居の気象の概略を知ることが出来ます(表略)。
 気温は年平均15℃程度の温暖な気候ですが,夏と冬との寒暖の差を,最高・最低各気
温(平均)で見ますと約30℃あり,比較的に大きい。
 降水量は,梅雨期の6月よりも秋の長雨(秋霖シュウリン)の季節9・10月が多い傾向があ
り,西日本と異なっています。また冬季には,降水量が日本海側に比べて著しく少ない。
 11月から3月頃までは,西高東低の気圧配置が続いて北西や北の風が多い。この季節
風は関東地方においては俗に「空カラっ風」と称し,特に3月から4月にかけて強く,武
蔵野においても,軽い火山灰土(関東ローム)が,土煙となって空高く巻き上げられま
す。冬は晴天が続いて空気が乾燥し,夜は放射冷却によって気温が下がり,冬日フユビ(
最低気温が0℃以下の日)は28日を数えます。霜は11月下旬から3月まで降りますが,
この間には降霜のない日もあります。また,普通は12月に入りますと結氷する日が現れ
ます。雪の日数は10日位で,その内訳は1月が2日,2月が4日,3月が3日,12月が
1日です。降雪量も10p以下の日が多く,2〜3日位で解けて根雪にならないのが普通
です。
 夏は太平洋高気圧から吹く南の季節風が卓越します。梅雨は6月上・中旬に入り,7
月上・中旬に明けますが,月末まで延びる年もあります。最高気温が25℃以上の日は106
日で,その中に含まれている真夏日マナツビ(最高気温が30℃以上の日)は45日に達しま
す。秋は長雨の後,10月には気温が急に下がり,12月には最低気温が0℃以下の日が出
始めます。
 
〈江戸城と皇居との沿革〉
 
 武蔵野台地の東側に位置し,江戸時代の初期まで海(日比谷ヒビヤの入江)が迫ってい
た皇居の地は,昭和30年代まで本丸跡の天守閣の南側にも貝塚が存在しました。その遺
蹟には,今や東京湾においては生き貝が見られなくなったと云うサモボウ・ハイガイな
どが散乱していました。更に西の丸跡の紅葉山においても同33年に縄文式土器片が採集
されています。従って皇居の地は,既に縄文時代に人が住んでいたことが知られていま
す。
 
 年を経て平安時代の末に到り,豪族の江戸氏が現れ,江戸に居館を構えたと云われま
す。その館が皇居の地であったか否か,確かな資料がなくて不明ですが,要害・水運・
景観などから見てもあり得ることです。下って関東管領扇谷オウギガヤツ上杉氏の家宰太田
資長スケナガ(道潅)が康生コウセイ2年(1456),皇居の地において築城に着手し,翌長禄
チョウロク元年4月8日に完成したと云われます。この城に江戸城の名が初めて付けられ,子
城ネジロ・中ナカ城・外ト城の三郭クルワから構成されています。また,静勝軒・泊船亭・含雪
斎などの建物も造られ,文芸にも秀でた道潅は文人・墨客を城中に招き風雅の道を楽し
みました。その後,江戸城は大永ダイエイ4年(1524),上杉朝興の時代に小田原の北条氏
綱に攻められて落城しました。北条氏は遠山氏を城代として城を守らせて来ました。天
正テンショウ18年(1590),豊臣秀吉の小田原征伐の際,城代遠山景政は篭城し,景政の弟の
川村秀重が城将として守っていましたが,徳川家康の家臣戸田忠次に明け渡されました。
同年7月,北条氏政・氏直父子が秀吉に降伏し,氏政と弟の旧八王子ハチオウジ城主氏照と
は小田原城を出て7月11日に自刃しました。
 
 家康の領有していた駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五国と引き換えに,北条氏の旧
領である広大な関東の領主となった家康は,天正18年8月1日,いわゆる八朔ハッサクの吉
日に江戸城に入城しました。当時の江戸城は竹木チクボクが茂るに任せた土塁だけで石垣が
なく,居館も枌葺ソギブキで玄関の階段は幅の広い船板フナイタが並べられていた程荒廃して
いたと云います。しかしながら当座の工事は小規模に止めました。そして2年後の文禄
ブンロク元年(1592)から西の丸の築造に着手しました。慶長ケイチョウ8年(1603)2月12日,
家康が征夷大将軍に任じられてから後,全国の諸大名を動員して大規模な拡張工事が始
められました。この築造には大量の石材が,主として伊豆半島の東海岸から切り出され
て舟で運ばれました。更に武蔵国多摩郡タマゴオリ成木村・小曽木オソギ村(両村は現在東京
都青梅市)から多量の石灰が搬出されて白壁に使用されました。この拡張工事は二代将
軍秀忠を経て三代将軍家光の代まで続き,寛永カンエイ13年(1636)に外郭の大工事が始め
られて外濠(幸橋・赤坂・四谷・市ヶ谷・牛込ウシゴメ・小石川・筋違スジカイ・浅草橋など
の見付ミツケを連ねる濠)が造られ,同15年頃完成したと云われます。斯くて規模において
も建物においても近世最大の城郭が完成しました。
 なお昭和35年5月20日,江戸城跡(濠ホリと石垣の周辺)が史跡に指定され,更に同38
年5月30日には同区域が特別史跡に指定されて現在に及んでいます。
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