50 酒壽サカホガヒ
 
                       参考:堀書店発行「祝詞範例全書」
 
 「壽詞ホギゴト」とは、「ほがひごと」とも云い、普通、天皇の御代が長く栄えるよう
に祈りことほぐ言葉で、広義の祝詞ノリトです。その壽詞の一つに「酒壽サカホガヒ」がありま
す。
 
 日本書紀の崇神スジン天皇八年四月の條に、高橋邑ムラの人活日イクヒを大神オホミワ神社の掌酒
サカヒト(造酒担当)とせられたとあり、十二月の條に、天皇、大田田根子オホタタネコ(大神の
裔ハツコ)に大神神を祭らしめられましたが、その時、活日は、神酒ミキ(神に供えるために
造った酒)を天皇にも差し上げて、
 「この神酒ミキは、我が神酒ならず大倭ヤマトなる、大物主の醸カみし酒。幾久、幾久」
と歌い、やがて大神社の宮殿で宴を催しました。これに侍した重臣たちも、
 「味酒ウマサケ、三輪ミワの殿トノの、朝戸アサトにも、出でて行かな、三輪の殿門トノドを」
と歌いました。ここに天皇も、
 「味酒、三輪の殿の、あさとにも、押開かね、三輪の殿門を」
とお歌いになって、神宮の門を開いて、その宴席に臨まれた、とあります。
 
 秋の収穫トリイレも終わり、奉賽カヘリゴトマヲシの神祭りをすべき時季となったので、先ず活日
に新穀を造らせたのです。三輪の神は、造酒の神としても信仰せられていました。そこ
で活日の酒壽の歌となったのです。歌意は、神徳によって出来た神酒のことを讃え、こ
れを戴くときは、幾久しく栄えるであろう、と祝福したのです。また重臣たちの歌は、
この朝、三輪の宮殿へ早く参ろう、と酒宴に向かう心勇みを詠んだものであり、天皇の
御歌は、早く三輪の宮殿を開いてくれよ、今行こう、との意のものです。
 
 神主カンヌシ大田田根子の大神神オホミワノカミ(大物主神)に新酒を捧げて祭ることが終わった
朝、この宴会、即ち直会ナホラヒが催されたのでしたので、右の三首の歌は、何れも神徳を
仰ぐ心を背景として神酒を讃える歌です。よって酒壽サカホガヒと云います。
 後の延喜式巻第八祝詞の大殿祭オホトノホガヒの祝詞の中の「言壽コトホギ」の本註に、「古語
に許止保企コトホギと云ふ。壽詞ホギゴトと云ふは、今の壽觴サカホガヒの詞コトバの如し」とあっ
て、酒壽を壽觴とも記しています。「觴ショウ」は「酒盃サカヅキ」で、これを挙げて祝福コト
ホギするのが酒壽ですから、壽觴を以てこれに充てたのです。
 
 次に同じく書紀に、神功ジングウ皇后十三年二月の條に云う、皇太子(後の応神オウジン天
皇)が、敦賀ツルガの気比ケヒ神宮に参拝し、大和の都へ帰られたので、皇太后(神功皇后
)は、これを迎えて宴を催し、盃を挙げて太子のために酒壽サカホガヒをせられ、次のよう
に歌われました。
 「この酒ミキは、我が酒ならず、薬クシの神、常世トコヨに在イマす、岩立たす、少御神の豊トヨ
壽ホぎ、壽ホぎ延モトへし、神カム壽ホぎ壽ホぎ来るほし、献マツり来コし酒ぞ。餘アさず飲ヲせ。さ
さ」
 この酒は、少彦名神スクナヒコナノカミが祝福して造り賜タモうた酒です、ぐっと干していや栄え
なさい、と慈愛と祝福とをこめて歌われたのです。武内宿禰タケシウチノスクネが太子に代わって
次のように答歌し奉りました。
 「この酒ミキを醸カみけむ人は、その鼓ツヅミ、臼ウスに立てて、歌ひつつ醸カみけめかも、
この酒の奇アヤに転楽ウタタノし。ささ」
 昔の造酒器は、鼓のような形をしていました。この酒を造った人は、酒鼓サカツヅミを臼
のように置いて、楽しく歌いつつ、酒だねを作りこめた、そのせいか、何とこの酒のう
まく楽しいことよ、さあ戴きましょう、と皇太后に謝する意をこめて酒徳を誉め讃えた
のです。
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