07 海を渡ってきたお菓子「饅頭と羊羹」
海を渡ってきたお菓子「饅頭と羊羹」
参考:新潮社発行「和菓子の楽しみ方」
〈饅頭がやってきた〉
饅頭マンジュウは鎌倉時代から南北朝の頃,禅文化の一つとして中国から伝えられ,禅僧
の点心テンジンとして作られたものでした。点心とは元々決まった食事以外の一時の空腹を
満たすため,一点を点ずると云う意味の間食のことでしたから,麺類,粥なども含まれ
ていました。
伝えられた頃の中国の饅頭は,中身が羊や豚の肉を用いたいわゆる肉饅頭(包子パオズ
)と,中に何も入っていない饅頭(マントウ)でした。それがわが国に入って来ます
と,禅宗の下で中身が植物性のもの(小豆)に変化し,やがて羊羹と共に菓子として食
されるようになって行くのです。今日ではわが国の菓子を代表するものともなって,私
共の生活に溶け込んでいます。
わが国に饅頭をもたらしたのは中国人林浄因リンジョウインと云われます。1350年京都建仁
寺の龍山徳見リュウザントクケン禅師ゼンジが長い遊学を終えて帰朝の際,禅師を慕って来朝した
林浄因が奈良に住み,饅頭を作ったのが初めとされています。
当時,上流階級の人々の間では既に喫茶を嗜タシナむ習慣があり,禅寺は僧侶や公家の出
入りする社交場のような処でした。浄因は家伝の饅頭の中に小豆の餡を入れ,禅僧に合
う点心として作ったのでした。これがなかなかのものでしたらしく,後村上天皇(1328
〜68)に献じたところ喜ばれ,それがきっかけで宮中に仕える女性と結婚し,その子孫
は代々饅頭作りを受け継いで行くことになったのでした。林浄因がわが国の饅頭の始祖
と云われる所以です。浄因は徳見禅師の死後,望郷の想いが絶ち切れず,故郷に帰った
と云われます。
浄因の作った饅頭は,小麦粉を捏コねて発酵させた皮に餡を包んで蒸したものでした
が,やがて薯蕷ジョウヨ饅頭の作り方を中国から学んで皮の作り方も工夫が凝らされて行き
ました。
応仁の乱(1467〜78)のとき,一族は戦火を逃れて三河の塩瀬村(愛知県)に行き,
此処で塩瀬姓を受けて,以来浄因の饅頭は塩瀬饅頭と云われて,饅頭の代表となりまし
た。後に京都において饅頭屋を開き,更に江戸に出て,饅頭全盛の時代とも相俟って大
変な人気を得たようです。
一方「塩瀬饅頭」の系統とは別に,饅頭の起源として伝えられているものに「虎屋饅
頭」があります。1242年,聖一国師弁円が伝えたと云われるものです。
聖一国師は後に臨済宗東福寺の開祖となった高僧ですが,国師が宋から帰朝し,博多
において禅の布教をしていたある日,茶店で休息したところ,店の主栗波クリハ吉右衛門に
歓待されました。その礼に宋で習い覚えた饅頭の作り方を伝授したと云うものです。栗
波吉右衛門は早速饅頭屋を開き,「虎屋」と号して,弁円に看板を書いて貰ったと云う
ことです。栗波家は間もなく廃絶しましたが「虎屋」と云う名は残り,栗波家とは関係
のない処で虎屋と云う店があちこちに出来ました。饅頭屋には一般的な名であったので
しょう。
虎屋饅頭は,皮に酒類を入れて作るいわゆる「酒饅頭」「酒素サカモト饅頭」で,この製
法は後に上方に伝えられ大変な人気になりました。
聖一国師が初めて伝えたものは,中に餡の入っていないいわゆる饅頭マントウであったと
思われます。
どちらにしても饅頭伝来の起源古く,その後いろいろに変わり,種類も多くなりまし
た。
〈饅頭屋大繁盛〉
室町時代になりますと,庶民の間でも饅頭に対する関心を呼び,饅頭売りも現れて来
ます。当時の職人の姿を描いた『七十一番職人歌合絵』の中には箱に入れた饅頭を売り
歩く女性の絵があります。其処には,
売り尽くすたいたう(大唐)餅やまんぢう(饅頭)の 声ほのかなる夕月夜かな
と書き添えていて,饅頭売りの声が夕月夜の下,仄かに聞こえて来るとあります。また,
いかにせむ甑コシキにむせる饅頭の 思ひふくれて人の恋いしき
など,歌にも登場して来ます。そして絵に書き添えられた言葉には「砂糖饅頭、菜饅頭、
いづれもよく蒸して候」とありますが,砂糖饅頭とは砂糖餡を包んだもので,いわゆる
餡饅頭のことです。以後,饅頭と云いますと甘い餡饅頭を云うようになり,砂糖の使用
は一つの変化と云えることでした。
江戸時代になりますと,饅頭は益々人気の食べ物となりました。江戸においては「松
屋、亀屋、二口屋、宝来屋等、互いに争ひて饅頭を造る」とあり,よく売れた様子が窺
えます。塩瀬の饅頭屋は,江戸市中に数件の店を持ち「・・・・・・毎朝蒸立ての皮解くるが
ごとし、争って買う世間下戸の人」と「江戸名物詩選」にあるように大繁盛でした。江
戸の人は実に饅頭好きであったようで,特に薄皮の上質餡のものを好んだようです。
上方では虎屋饅頭が有名で,虎屋では饅頭と交換出来る饅頭切手なるものを発行した
りしました。
江戸時代は饅頭の種類も多く,吉野饅頭,朧饅頭,腰高饅頭,薯蕷ジョウヨ饅頭などがあ
りますが,その中に米ヨネ饅頭と云うのがありました。これは皮は米粉で作り,蒸す製法
ではなく搗ツいて作るものでしたから,饅頭と云うより大福餅のようなものであったよう
です。慶安ケイアンの頃(1648〜52),江戸浅草の聖天金龍山の麓に鶴屋と云う店があり,
此処の娘お米ヨネが自分の名を付けた饅頭を作って売り出したとも云われます。これがな
かなか好評で,米饅頭を唄った小唄が流行したそうです。
これらの中には今も残っているものもありますが,半面どのようなものであったのか
分からないものも数多くあります。
〈多種多様な饅頭たち〉
江戸寺末期以後は皮にも餡にもいろいろな工夫が凝らされ,製造の技術も一段と進歩
しました。
皮の製法は,次の三つに大別出来ます。
○薯蕷饅頭 薯蕷ジョウヨ(山芋)を擂ったものを皮の繋ぎに入れ,よく捏コねて延ばし,
餡を包んで蒸し上げます。ふわっとした歯触りと共に山芋の香りが広がる上質の饅頭で,
塩瀬饅頭に代表されます。薬饅頭とも云います。薯蕷は中国では自然から与えられる「
山の薬」と云われることから,薬饅頭とも呼ばれるのです。形は林浄因が作り始めた頃
から,上は丸く膨れ上がり,下は平らないわゆる饅頭形とあまり変わらないものでした。
○酒饅頭 酒種で発酵させた皮を用います。虎屋饅頭に代表され,蒸し上がりの何とも
云えない酒の香りが特徴で,変わらぬ人気を持っています。
○膨剤を使ったもの ふくらし粉など膨剤を使って発酵させた皮に餡を包みます。
皮の材料は小麦粉の代わりに蕎麦ソバ粉を用いた蕎麦饅頭,皮に黒砂糖を加えた利休饅
頭,蒸し上がったものに焼き色を付ける焼饅頭,栗餡を入れて蒸す栗饅頭,胡麻を加え
た胡麻饅頭,中が透けて見えるように表皮の薄い薄皮饅頭,中の餡が所々見える田舎饅
頭やおぼろ饅頭など,多種多様なものがあります。餡ではこし餡,つぶし餡,白餡など
が主流です。また,抹茶の香りのするもの,チョコレートの味のするものなど最近では
見られます。
長い歴史を経て来た饅頭は,上質のものは上流階級の献上菓子や引出物として用いら
れ,そうでないものは庶民の菓子として益々広く,時代に合わせて様を変えながら食さ
れて来ました。
儀式用に出世したものもあれば,旅の途中でつい買いたくなるその土地の名物菓子,
各地の温泉や観光地で見かける温泉饅頭,訪問のときに一折手土産にしたくなる饅頭な
ど,饅頭には沢山の顔が出来てしまったようです。
饅頭とは一口で云いますと,小麦粉を捏ねた皮に餡を包み,それを蒸して作ると云う
単純な菓子です。かつて一人の中国人林浄因のもたらした食べ物が,これ程長い時を生
き,変化し,親しまれ,更に時代の好みと共に変わって行くとは,当の浄因は想像も出
来なかったでしょう。
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