06 海を渡ってきたお菓子「南蛮菓子」
△金平糖コンペイトウ
わが国において金平糖の名が初めて見られるのは,宣教師のフロイスが本国に報告し
た『耶蘇会士日本通信』です。それには,永禄エイロク12年(1569)フロイスがキリスト教
布教の許可を得るため織田信長に謁見したとき,「予は金平糖入の硝子瓶一つ及び蝋燭
数本を贈りたり」とあります。
この当時は,わが国において金平糖が作られていなかったでしょうから,遥々ハルバルポ
ルトガルから運ばれた金平糖であったかも知れません。
金平糖と云いますと,その角ツノが特徴です。わが国において角のある金平糖が作られ
るようになったのは,江戸時代の長崎です。
井原西鶴の『日本永代蔵』(1688)に,長崎の町人が角のある金平糖の製法を考案し
て,一躍成金になった話があります。
前出の『古今名物御前菓子秘伝抄』にある金平糖の作り方の概略は「氷砂糖1升(約
1.4s)に対して水2升(1.6リットル)を入れて煮溶かし、絹篩で濾し、それを半量になる
まで煮詰める。別の平鍋に芥子ケシの実を入れて弱火に掛け、煮詰めて置いた砂糖を少し
ずつ掛けて茶筅チャセンで掻き回す。何度も何度も砂糖を掛けては掻き回すうちに、大きく
苺のようになる」(鈴木晋一訳)とあって,江戸時代の金平糖は,芯に芥子の実が使わ
れていたようです。
現在においても作り方は殆ど変わりませんが,芯は粗目ザラメ糖になっています。大き
な鉄製の平鍋を少し傾斜させて,下から火を焚き,何度も砂糖を掛けて掻き回すとあの
角が出来るのです。鍋の傾斜角度,火加減,砂糖蜜の掛け方などによって角が出来るの
ですが,何故角が出来るのかは今のところ解明されていません。
金平糖の語源は,ポルトガルのコンフェイト(砂糖で包まれた菓子の意)です。そし
て現在においても,わが国とポルトガル,スペインなどで作られています。
ポルトガルにおいては角のある金平糖はポルトガル北部のブラガやテルセイラ島で作
られているそうですが,中部の都市コインブラの金平糖は角はなく,京都の五色豆風で
した。ポルトガルの金平糖には,コリアンダーやナッツを芯にしたものがあって,江戸
時代のわが国の芥子を芯にした製法とよく似ています。
京都の手作り金平糖屋では現在,梅味,生姜味,山椒味,柚ユズ味,抹茶味,日本酒味
などのほかチョコレート味やコーヒー味,蕎麦の実の金平糖など,伝統の味に加えて新
しいものも作られています。
△卵素麺タマゴソウメン
卵素麺とは,卵黄を糸状(素麺状)にした甘い菓子のことです。
ポルトガルにおいては各地の菓子店で卵素麺を見かけました。一方,わが国において
も鶏卵素麺として九州博多の銘菓となっています。卵素麺はわが国とポルトガルの両国
で,今も作られている菓子なのです。
卵素麺の作り方は,熱した砂糖蜜の中に卵黄を如雨露のような道具を使って糸状に落
として作ります。ポルトガルの名はフィオス・デ・オボス,卵の糸と云う意味で,作り
方に由来する名が付けられています。
この卵素麺の記録がわが国において最初に見られるのは,わが国で最初の本格的料理
書である『料理物語』(1643)です。ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えて100年後のこ
とになります。
香港島の隣りマカオは,現在ポルトガルの唯一の植民地ですが,マカオのケーキ売り
場では卵素麺を飾りに使った菓子が沢山ありました。ポルトガルの人々は,マカオを経
由してわが国に遣って来たのです。人々と共に食べ物が伝えられた足跡を改めて感じま
す。
△ひりょうす
ひりょうす又はひりょうずと云います。これは,現在わが国においてはおでんなどに
使うがんもどきのことですが,ポルトガルでは菓子なのです。
江戸時代の料理書『南蛮料理書』には,菓子のひりょうすが見られます。わが国にお
いても伝えられた当初は菓子であったのです。その作り方は「粳米の粉を蒸して練り、
擂り鉢に空け、解き卵を加え、固い糊位にして油で揚げる。砂糖を練って浸す」とあり
ます。
これに対してポルトガルのひりょうすは小麦粉,卵,牛乳を混ぜて練って揚げたもの
で,砂糖シロップに浸して食べることが多いようです。クリスマスに食べるそうで,各
家庭で作られています。
共通点は揚げ菓子と云うことになりますが,わが国のひりょうすは,江戸時代の料理
書『和漢精進料理抄』(1697)以降には,豆腐を使った現在のひりょうず(がんもどき
)に変化しているのです。その理由ははっきりしません。菓子として伝えられたものが,
何時の間にかがんもどきに変身してしまったのは,今のところ謎のままです。
わが国に伝えられた南蛮菓子は,砂糖の普及と相俟って,餅菓子中心であったそれま
での菓子の姿を大きく変えました。そして次第に和菓子に同化されて行きました。
和菓子のルーツを考えるとき,南蛮文化の影響は忘れてはならないものなのです。
(以上,原筆者江後迪子氏)
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