06 海を渡ってきたお菓子「南蛮菓子」
 
          海を渡ってきたお菓子「南蛮菓子」
 
                     参考:新潮社発行「和菓子の楽しみ方」
 
〈南蛮菓子〉
 
 天文テンブン12年(1543)ポルトガル人によって,種子島に鉄砲が伝えられました。南蛮
船の渡来です。このことに始まるいわゆる南蛮文化との交流は,わが国の菓子文化にも
大きな影響を与えました。
 その頃わが国においては,ポルトガルやイスパニア(スペイン),オランダを始め,
わが国への経由地であったルソン(フィリピン),ジャワ,マカオなどの国々を南蛮と
呼んでいました。以来西欧との交流が始まったのです。
 南蛮の人々がわが国へ遣って来た目的は,貿易及びキリスト教の布教でした。貿易商
人や宣教師等は,キリスト教が弾圧されるまでの約1世紀の間,わが国との交流を深め
ました。そして医学,天文学を始め印刷や言語,食べ物など多くの文化が伝えられまし
た。珍しい風俗は南蛮屏風として描かれ,またビロード,タバコ,パン,コンヘイ(こ
んぺいとう)などのポルトガル語は日本語となって残っています。
 宣教師等は,その頃未だわが国になかった珍しい品を献上品として持って来ました。
その中には金平糖,有平糖アルヘイトウ,ぼうろなど沢山の菓子がありました。これらの菓子
を南蛮菓子と云います。次に南蛮菓子の幾つかについてお話します。
 
△カステラ
 カステラのルーツはスペインのカスティリア地方(中央部高原地帯)で,その地名か
ら来た名とも,またポルトガル語で「カステロ」(城の意)と云う語に卵白を泡立てる
と云う意味があり,この語に由来するとも云われています。
 わが国において最初に「かすてら」の名が見られるのは『甫庵ホアン太閤記』(1625)で
す。その中にはキリスト教の布教の方法が書かれていて,要約しますと「上戸ジョウコ(酒
飲み)にはちんた、葡萄酒、ろうけ(以上酒)、がねぶ(不明)、みりんちゅう、下戸
ゲコ(酒の飲めない人)にはかすていら、ぼうる、かるめひら、あるへい糖、こんへい糖
などをもてなし、我宗門に引入る事、尤ふかかりし事」と記されています。このほか虎
屋文庫所蔵の『院御所様行幸之御菓子通』(1635)や,臼杵藩(大分県)の御会所日記
の1680年に贈答品として記録があり,既に各地において作られていたことが分かります。
 
 江戸時代を代表する菓子製法の書『古今名物御前菓子秘伝抄』(1718)には,当時未
だ珍しかった「かすてら」の作り方が見られます。それには「鶏卵五〇個を割ってかき
まぜ、白砂糖六〇〇匁(2.25s)、小麦粉五〇〇匁(1.88s)を入れてよくこね合わせ、
銅の平鍋に紙を敷いて流し入れる。この平鍋を大きな鍋の中に入れて金属の蓋をし、上
下に火を置いて焦げ目のつくまで焼く」(鈴木晋一訳)とあり,現在に比べて可成り硬
いカステラとなります。また,天火(オーブン)のなかった時代に火を用意することは
大変なことであったでしょう。
 因みに,現在のカステラの材料配合は『古今名物御前菓子秘伝抄』に比べますと小麦
粉が少なく,砂糖が多くなっています。その後明治になって水飴や蜂蜜を入れ,しっと
りとした日本風のカステラとなりました。
 
 日本人は,南蛮菓子が伝わる以前は卵を食べる習慣がなかったのですが,カステラや
ぼうろが伝わってから卵を食べるようになったと云われています。
 現在においては,カステラと云う名の菓子はわが国だけのようですが,カステラに似
た菓子としてはスペインではスポンジケーキ風のビスコーチョ,またポルトガルではパ
ンデローがあります。パンデローには2種類あり,直径30p程の素焼きの容器で焼くリ
ング状ののものと,円形の銅鍋で焼く生焼け状のものとがあります。わが国のカステラ
に近いのはリング状のものですが,しっとりさはありません。
 
△ぼうろ(ぼうる)
 ぼうろは小麦粉,卵,砂糖などを材料とした焼き菓子で,ポルトガル語の Bolo に由
来します。ポルトガルではボーロはケーキ全般のことを云います。
 わが国で最初にぼうろの名が見られるのはカステラと同じく『甫庵太閤記』です。ま
たわが国最初の図入り百科事典『和漢三才図会』(1713)の巻百五造醸部に見られます。
それには「捻頭ネントウ(今、保宇留ボウルという)・・・・・・保宇留は蛮語なり」と書かれてい
て南蛮渡来の菓子の一つであることが分かります。
 前出の『古今名物御前菓子秘伝抄』にあるぼうろの作り方は「小麦粉1升(約900g)
に白砂糖2合(約220g)を入れ、水でこねてから軟らかにもみ、饂飩ウドンをつくるとき
のように伸ノす。(中略)金物でいろいろの形に切り、銅の鍋にいれて金属の蓋をし、上
下に火を置いて焼く。ただし、下火は上火より強くする方がよい」(鈴木晋一訳)とあ
ります。要するに小麦粉と砂糖を使った焼き菓子で,カステラと同様上火を用いて作る
菓子です。
 現在わが国においては,佐賀の丸ぼうろ,京都の蕎麦ぼうろ,沖縄の花ぼうるなどが
有名です。
 一方,ポルトガルではわが国のぼうろによく似た落とし焼き風の菓子があります。ま
たパウンドケーキ風のものも多く,クリスマスによく食べる「ボーロレイ」と云うリン
グ状のフルーツケーキもあって,この中にメダルやコインなどを入れ,切り分けたとき
にそれが当たると翌年幸せが来ると云う言い伝えがあると聞きます。
 
△有平糖アルヘイトウ
 有平糖とは飴菓子の一種で,この飴に色を付けたり,2色,3色と合わせたりして筋
のある飴菓子を作ります。紅白にして眼鏡状にしたものは千代結びと云い,長崎や佐賀
では結婚式の引き出物にしたりします。昔,長崎ではあるへい細工が盛んで,雛の節句
には菱餅や桃の花,端午の節句には粽チマキ,また仏前用としては線香や蝋燭ロウソクの形も作
られました。
 『和漢三才図会』には「阿留平糖アルヘイトウ、かたちはまるくて胡桃のようで、筋が立っ
ている」と書かれています。
 わが国で有平糖が初めて見られるのは『甫庵太閤記』です。
 有平糖の主材料は砂糖です。当時砂糖はとても高価なものでしたから,有平糖も当然
高価な菓子であったのです。その頃砂糖は国内では生産されておらず,薬として輸入さ
れていた貴重品でした。高価ですから,江戸時代には極稀にしか用いられず,御奉行な
ど大事なお客の接待に使われていた記録があります。
 
 有平糖の語源はポルトガルのアルフェロア又はアルフェニン(何れも砂糖で作られた
菓子の意)で,その音に字を当てています。
 アルフェロアと云う菓子はポルトガルの中世(16世紀)の料理書『王女ドナ・マリア
の料理書』に見られますが,現在ではその名の菓子はありません。アルフェニンは,首
都リスボンから遠く離れたテルセイラ島で鳥や牛,果物などの形のものが,またサンミ
ゲル島でも有平糖の菓子が作られています。
 その昔,砂糖の産地であったポルトガルでも砂糖は高いもので,「マディラ島(ポル
トガル領)の1469年の記録にはアルフェニンとコンフェイトスはお金持ちしか食べられ
ない」(荒尾美代)とあるそうです。
 現在,わが国においては千代結びや季節の花,野菜などを象カタドった有平糖が見られ
ます。
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