05a 和菓子のあゆみ
 
〈京の菓子と江戸の菓子〉
 
 菓子の歴史の中に再び大きな変化が起こって来たのは,南蛮菓子の渡来でした。
 わが国が西欧に名を知られたのは,マルコ・ポーロの『東方見聞録』からで,初めて
ポルトガル人がわが国に来たのは,応永オウエイ19年(1412)でした。そして天文テンブン18年
(1549)フランシスコ・ザビエルが鹿児島県に遣って来ますと,キリスト教の布教を始
めました。元亀ゲンキ2年(1571)には,今度は貿易を目的として,深江と云う今の長崎
にオランダ船が遣って来て,此処の一港だけ貿易が許され,オランダ人に限って往復を
していたようです。そのオランダ人やイギリス人を紅毛人,ポルトガル人やスペイン人
を南蛮人などと呼んでいました。彼等はフィリピン諸島や東南アジアを経て渡来したも
のですから,一般に総称して南蛮人と呼び,また,彼等がもたらした文化文物を南蛮文
化と云っています。そして,このときもたらされた菓子を南蛮菓子と云うのです。
 その品々の中にはハルテ,ケジアト,カステラ,ボーロ,花ボール,コンペイト,ア
ルヘル,カルメル,ヒリョウス,タマゴソウメン,ビスカウト,パンなどの名がありま
した。これらの品は,甘党の饗応などに用いられたと『長崎夜話草』(1720)に記され
ています。
 南蛮菓子の輸入によって,甘党の少なかったわが国に,砂糖,卵など珍しい,新しい
ものが送り込まれて来ましたが,庶民の口にはまだまだ入るものではありませんでした。
 慶長ケイチョウ8年(1603)には徳川家康が江戸幕府を開き,政治の中心が江戸に移って行
きます。それから約90年後の元禄ゲンロク・享保キョウホウの頃になりますと,江戸文化は段々
と盛んになってきて,菓子についても江戸情趣のある独特のものが現れ,京菓子と江戸
の菓子が対立しながら発達して行きます。この二つの特徴は,世代が変わる明治・大正
・昭和,そして現在の平成へと,受け継がれて行くのです。
 
 とろこで京の都は,応仁の乱(1467〜77)によって町が焼土となって衰退したのです
が,それとは反対に菓子は趣味・趣向本位に作られるようになりました。有職故実を重
視して,鑑賞を尊び,優美典雅で,堂上風の意匠を凝らして,形や彩り,銘までも,和
歌,古典,花鳥風月に結び付けた菓子が作られました。松風,舞鶴,嵐山,州浜のよう
に主観的題材を基に,静寂,閑雅,幽玄などの日本趣味を代表した感傷的表現を用いた
ようです。
 京都の上菓子屋では,その有職故実に因んだ菓子を採り上げて「有職菓子」と名付け,
供饌用・献上用のものを作り上げて行きます。しかしこの頃から菓子と云っても,果物
や餅類も相当使われていたようです。現在,全国菓子博覧会などで人気を呼んでいる工
芸菓子も,古い時代から献上品として作られたもので,宮家などの御出入りの御用菓子
司が製作していました。
 
 菓子作りも盛んになりますと,粗製濫造の傾向が見られましたので,京都の上菓子司
は248軒に制限され,協定が結ばれました。その結果,京菓子の聞こえが高まって来たと
云われます。諸大名を始め多くの人々が京へ上って来るにつれて,菓子の本場は京都で
あると思われるようになったのです。その風は江戸にも移り,江戸の高級菓子司の看板
にも,京出店某の菓子司と掲げたところもありました。
 また江戸時代の菓子司の中には,大掾タイジョウとか国名を名乗っていたところもありま
した。大掾の官名は当時,正七位に相当するものでした。これは御所に菓子を献じたり,
御用を承るためには官位が必要であり,その官名が「掾」と云われるものでした。それ
を得ることを受領と云い,京都中御門家ナカミカドケ一門の支配に属していたものです。
 天和テンナ3年(1683)には,京菓子司として御所上納の家柄である桔梗屋が,今の東京
日本橋一丁目に店舗を構えました。其処では京菓子を主に作り,現在の菓子に似たもの
が見られるようになりました。「桔梗屋・河内大掾」として江戸幕府御用を仰せつかっ
ていますが,この頃ほかにも二,三の店があったようです。上菓子は,江戸においては
駄菓子に対しての名ですが,京都においては献上菓子の意味から生まれた言葉でした。
 
 上菓子が現代の菓子のようになるまでに,もう一つの難関がありました。それは甘味
でした。
 砂糖が未だない頃には,果実の含む自然の甘味のほかに,甘葛,飴,蜂蜜,柿の粉な
どを使っていました。その中で王座を占めていたいたものは甘葛煎アマズラセンです。甘葛は
深山に生える蔓草の一種で,それから採った液は蜜のような甘味料になり,喜ばれまし
た。『枕草子』にも「削氷ケヅリヒにあまづら入れて、新しき金鋺カナマリに入れたる・・・・・・」
などとあります。ほかに『今昔物語』『古今著聞集』にも,記述が見られます。
 江戸時代八代将軍吉宗は製糖に力を入れて,長崎在留の中国人に製法の教えを乞い,
琉球から苗木を取り寄せ,御浜御殿(江戸)や吹上御苑に移植しました。その結果,黒
糖が出来るようになり,その後各藩に甘蔗カンショ栽培を奨励したことから,全国で研究が
始まったのです。
 甘蔗は熱帯性なので多くは失敗に終わり,今の神奈川県や四国の高松の一部で成功し
ただけでした。しかし四国の気候も温暖ではありますが,栽培に十分な状態とは云えま
せんでした。そこで改良されて,現在名産とされている和三盆が作られるに至ったので
す。
 白砂糖は,当時薬用のみで使われていましたが,江戸の中期に香具屋と云われる,現
在の薬屋が出来,此処で売られていたようです。
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