05b 和菓子のあゆみ
 
〈街道の名物菓子今昔〉
 
 昔から旅を楽しむ人の多くは,神社・仏閣への参拝講や湯治場へ行く人が多かったの
ですが,何と云っても御蔭参りを理由に伊勢参りが王座を占めたようです。
 江戸時代には,東海道を始め五街道を旅人が行き交い,その各所には関所が設けられ,
往来手形や関所手形を必要としました。そのため,百文払って檀那寺や町役人に書いて
貰い,出発するのですが,この時代の旅は大仕事でした。
 伊勢には,その名がよく知られた菓子「赤福」があります。赤福は宝永ホウエイ年間の創
業で,その頃はどんな餅であったかは分かりませんが,多少日持ちするように餅にも砂
糖が調味されていたようです。明治の中頃までは,未だ形も大きく,白砂糖製と黒砂糖
製の2種に分かれていました。その後白餅・白砂糖餡となって形も平らになり,上部に
二つの指形のあるのが特色となりました。
 また,今はもうないようですが,宇治橋の畔に「三夫婦餅」と云って,餡の上に紅白
2種の餅が載っていたものがありました。これは,宇治橋の渡り初めをした三夫婦が記
念に店を出したものでした。
 
 このように,餅皮で餡が中に入っているもの,また餅が中に入った餡ころ餅の2種類
が,街道の菓子の主役でした。昔は宿場から宿場への途中,峠の茶店の見晴らしの良い
処や海辺の松林で,松風や波音を聞きながら風景の中に溶け込んで憩いを取り,空腹を
癒していました。其処で味わう菓子の味は,旅人にとっては最高であったでしょう。
 そして口こみによって,彼処の餅は美味しかったと云う具合に広まって,何時の間に
か名物餅となって行ったのです。これらは庶民の餅菓子とも云えましょう。
 また街道筋の宿場茶屋で売り出して評判になった名物菓子は,それに相応しい皿に盛
られていました。その店によっていろいろ違った彩りのものがありますが,丸型が普通
であったようです。
 東海道は昔から人々の往来の激しい街道筋だけに,種々様々なものの発達があり,人
擦れも早く,従って通行人相手の商売人もなかなか抜け目なく商いをしておりました。
其処にはまた当然のことですが,いろいろの名物菓子が生まれ,長い道中に疲れた旅人
の腹を喜ばせていたものでした。
 
 それが明治の文化になって,日本人の生活様式が変わり,大正・昭和と時代が移るに
つれて,菓子の種類は更に多くなります。都会と山村の交流も盛んになって,社会も工
業化して行きます。新しい時代と共に進出して来る店もあり,それぞれの土地の名菓も
増えて行きました。
 一方,明治以後には海外貿易も盛んになって,輸入砂糖が入手しやすくなりましたの
で,洋菓子が発達して行きました。新しくキャラメルなどが製造されるようになります。
 ところが第二次世界大戦後は暫く食糧難となり,昭和二十年代のわが国には菓子の姿
はなく,誰もが何とか食材を調達して,工夫して食べる時代でした。甘味もズルチンな
どの人工甘味料や闇物資の中に買い求められていました。そして,二十年代の終わり頃
になってやっと現在の菓子の近いものが現れて来ました。
 かつての宿場を一つ一つ越えて旅をしていた江戸時代の街道は,鉄道の開通と共に駅
から遠い処ほど寂れて行きました。従って街道沿いの菓子屋も鉄道の駅近くに移転する
など,昔の雅味がなくなって行く傾向は免れません。やがて東海道も,東名・名神高速
道路に替わりました。
 
 茲で昔懐かしい駄菓子について云いますと,例えば宮城県仙台は伊達政宗が支倉ハセクラ
常長をスペインに遣わした程の進んだ土地柄でしたが,近くの塩釜港に漂着した南蛮人
から南蛮糖などが発案されてカリントウ,粟ねじり,黒ばん,うさぎ玉,ダルマ飴,串
餅が作られ,今に伝わっているのです。
 懐かしいお菓子には原料も作り方も,昔ながらのものを守り続けると云う心意気が感
じられます。このようにして生まれた駄菓子は,幼い子供から老人まで親しまれて,受
け継がれて来たものでした。
 しかし現在は,日本人の食生活が段々洋風化するにしたがって,和菓子にも洋風を織
り込んだ菓子が多く出回るようになりました。工業化が進み,菓子製造も段々機械化に
よる大量生産が行われますと,手作りの菓子は次第に姿を消すようになってしまいまし
た。
 長い歴史を経て来た菓子には人の心が通っており,一つ一つの菓子に対する愛情があ
ったのです。街道の茶店,峠の茶屋の餡ころ餅には風土の香りがあったのですが,今日
では菓子の包装が無味乾燥で暖かさのない,全国共通なものが多くなっています。
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