05 和菓子のあゆみ
 
               和菓子のあゆみ
 
                     参考:新潮社発行「和菓子の楽しみ方」
 
〈菓子のルーツは果物・木の実〉
 
 わが国は瑞穂の国と云われるように,古代の人は農耕の民で,糯米,粳ウルチ米,粟,麦
などを作り,食べて来ました。また,山や野で鳥獣を捕らえ,海や川では魚や貝を漁っ
て食し,腹が空きますと野生の「古能美」(木の実)や「久多毛能」(果物)を採って
間食としました。これが菓子の出現となるのです。
 木の実や草の実は,山野に自生する自然の草木類の中から毒のないものを採って食べ
ていました。その後,楊梅子ヤマモモ,栗,柿,桃,梅の果実が,インドや中国,朝鮮など
から伝わって栽培され,種類も増えますと,果実に対する好みも次第に発達して行きま
す。
 最も古い漢和辞書『倭名類聚抄ワミョウルイジュウショウ』の中に,初期の天然果物「菓子」のこ
とが,菓瓜ラ(草冠に瓜+瓜)類と記されています。「菓」は木の実,「瓜ラ(草冠に瓜
+瓜」は草の実のことで,間食の意味もあります。古い頃は饗応の料理に「御菓子」と
名付けて,膳部などに果実を添える風習がありました。やがて平安朝頃から,果実の中
に今の菓子が仲間入りして,果物と菓子のことが混同して来るのです。
 
 その果実のうち,橘を菓子の起源とする,田道間守命タジマモリノミコトの伝説があります。
『古事記』や『日本書紀』に拠りますと,垂仁天皇の御代,天皇は不老長寿の霊薬と云
われた「非時香果トキジクノカグノコノミ」を求めるようにと,田道間守命を常世の国(今の中国
南部からインド方面と云われます)に遣わしました。9年後,田道間守命が香果八矛ホコ
・八縵カゲを持ち帰ったのですが,天皇は既に崩御された後であったと云われます。
 霊薬とは「登岐士玖能迦玖能木実トキジクノカグノコノミ」と云われ,今の橘と云われるもので
す。実,花,葉が長く木に保たれていると云うところから「非時香果」と名付けられた
らしく,やがて橘はわが国に伝わって栽培され,蜜柑の原種となり,多くの種類になっ
たと云われます。
 
 仏教伝来と共に大陸文化が入って来るようになりますと,遣隋使・遣唐使は,多くの
犠牲を払って中国に渡り,唐文化を持ち帰ります。それらがわが国の文物典礼の全てを
風靡して行きます。その影響によって律令の施行などが行われるようになり,食制にも
大膳職や主膳職,また内膳職などが登場します。また造酒司,主菓餅司と云った呼び名
まで中国風を倣うなど,唐文化が流行して行きました。
 当然,伝来ものの菓子は「唐菓子カラクダモノ」と名付けられました。その「唐菓子」には
8種の唐菓子(梅子バイシ,桃枝トウシ,曷カツ(食+曷)餬コ,桂心ケイシン,黏臍テンセイ,畢ヒチ(
食+畢)羅ラ(食+羅),追ツイ(食+追)子シ,団喜ダンキ)と,14種の果餅(ふフ(食+立
+口)主ト(食+主),(米+還(シンニュウノナイ「カン」))餅マガリ,結果カクナワ,捻頭ムキカタ,索餅サク
ヘイ,粉熟フズク,昆コン(食+昆)飩トン,餅ヘイ炎タン(月+炎),専ホウ(食+専)飩トン,魚形
ギョケイ,椿餅ツバイモチ,餅餉ヘイコウ,巨コ(米+巨)女メ(米+女),煎餅イリモチ)が伝えられて
います。その品々は今ではよく分かりませんが,現在奈良の春日大社や京都の八坂・上
賀茂・下鴨などの各神社に,神饌菓子シンセンガシとして供えられているものです。神饌菓子
とは,酒食と共に神前に供える菓子のことですが,唐菓子が伝えられた時代は仏教の伝
来とも重なっていたため,供饌菓子グセンガシとして仏前の祈祷用の菓子としても用いられ
ました。
 
 これらは何れも,その後の和菓子の基本として考案されています。大部分が,江戸時
代の随筆集『嬉遊笑覧キユウショウラン』(1830)にも「油物とは油にて揚げたる菓子・・・・・・か
らくだものなり」とあるように油物で,今でも中国菓子として伝わっています。これが
菜食の日本人の味覚に適するまでには,様々に変遷が見られるのです。
 唐菓子はまた,中国の寒具カングから学んだものでした。寒具とは寒食とも云い,中国
においては冬至から百五日目を三日節,又は清明節と云って,この日に火を焚かないこ
とが例となっています。その前日からいろいろの干菓子を調え置いて食べるのですが,
これの冷えてしまったものを寒食と云ったのです。寒食はお供えの食物で,この菓子は
やがて干菓子の仲間として変遷するのです。
 
〈茶の伝来と菓子の発達〉
 
 和菓子も上代から移り変わって時代が下りますと,わが国において作る菓子が生まれ
るようになり,神饌・供饌の菓子も,故事によって作られます。
 其処へお茶が遣唐使などによって伝えられ,聖武天皇の天平テンピョウ元年(729)には,
百人の僧侶を内裏に召されて般若経を講じさせ,碾ヒき茶の節会が行われたとあります。
また高僧行基が全国にお堂を建て,四十九カ所にお茶の木を植えたことが『東大寺要録
』の中に由来書きとしてあります。その頃お茶は,薬として用いられていました。伝教
大師も平安朝の初めに持ち帰り,喫茶・抹茶として伝えました。
 建久ケンキュウ2年(1191)栄西禅師は帰朝後に,肥前(九州佐賀)の背振山霊仙寺にお茶
の種子を蒔き,更に京都栂尾や宇治にも明恵上人が分栽したと云われます。
 
 お茶が伝わってから茶の湯が行われるようになり,茶に対するお菓子が生まれて来る
のは当然のことでした。初め禅僧はその菓子のことを「点心テンジン」と云って「定食と定
食の間の小食」を意味しました。点心は心に一点を加える程度の間食であり,「茶の子
」とも云われた「お八つ」でした。
 その点心には,主として羹アツものが多く使われました。。羹ものとは中国から伝わっ
て来たもので『包丁聞書』には「惣じて羹ものは四十八わんの拵様有といえども多くは
その形によりて名ありといへり」と書かれていて,形によっていろいろの名が付いてい
ます。二,三採り上げますと,鼈羹,羊羹,猪羹,竹葉羹,海老羹などがあり,羹の形
が動植物から魚介類に至るまでリアルで,自然の形を執っており,新粉細工のように作
られていたようです。
 中国においては羹ものの材料に,魚獣そのものを用いたようですが,わが国において
はそれが植物性に変わって来て,現代の料理でも羹ものとしてその流れを見ることが出
来ます。
 
 天正テンショウの頃(1573〜92)になりますと,茶の湯が発達して菓子を作ることも進んで
来るのですが,この頃になると上流階級においては,饗応に出る食膳には料理と共に菓
子が使われるようになりました。この菓子は,未だ中国の風習を基本としたものが多い
ようでした。
 茶の点心においては,茶に合ったものが菓子に出され,茶の情緒を一層引き立たせる
ようになりました。しかし,秀吉の茶会においては「御菓子折シキニ、打クリ、センヘ
イ、イリカヤ」などと書かれ,センヘイなどの姿も見られます。センヘイ即ち煎餅は「
いりもち」と云って「油で小麦麺を煎ったものである」と記録されています。
 また,幻の菓子とも云われるものに「青ざし」があります。『枕草子』にも出てきま
すが,『大和故事』の中に「青麦を煎って、臼にて碾キシれば、よりたる糸の如し、よっ
て青ざしといふ」とあります。
 
 千利休が「百会の茶会」において多く用いられた「ふのやき」も今は伝わっていませ
んが,現在のお好み焼きのように小麦粉を延ばし,山椒味噌を包んだもので,姿はいろ
いろあったようです。「北野大茶会」の折も「茶がなければ焦がしでも苦しくない」と
高札に記される程(焦がしとは麦焦がしのことで香煎のようにしたもの),茶の菓子は
未だこの頃では定まらず,未完成でした。
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