02 天麩羅の歴史
天麩羅の歴史
参考:旭屋出版発行「天ぷら・うなぎ」
「天麩羅テンプラ」の語源は何でしょうか。
有名な説として,江戸期の戯作者山東京伝
の『蜘蛛の糸巻き』の中で「天竺(インドの
こと)からふらりとやって来て揚げた」とし
て,天麩羅と命名したと云うものです。
この他では,スペイン語が訛ったと云う説
や,ある精進料理屋の看板の「天麩羅阿希アブ
ラアゲ」から出たと云う説もあります。しかし
「天麩羅」自体が他の食べ物を指す言葉であ
った形跡もあり,はっきりしたことは分かっ
ていないようです。
本稿は,自称「天麩羅通」になりきって記
述しました。 SYSOP
〈天麩羅テンプラの歴史〉
揚げ物の歴史は古く,過去三度の機会を経てわが国に上陸しました。
最初は奈良・平安の頃(8〜9世紀)で,中国の唐から伝えられ,宮中で広まった唐
菓子が挙げられます。このときは,米の粉などを練って油で揚げたものなどです。
二度目は,鎌倉期(13世紀)に上陸した禅宗の精進料理です。動物性食材を使わない
精進料理では,蛋白質が摂取できる料理として揚げ物が紹介され,味を付けた植物性の
食材を衣揚げしたもので,「付け揚げ」と呼ばれました。
三度目は16〜17世紀で,長崎に渡来した中国人や南蛮人を通して,卓袱シッポク料理の長
崎天麩羅など,西洋料理のフリッター(魚菜などを小麦粉などで包んだ揚げ物)に近い揚げ物
も登場するようになりました。
何れの場合も,揚げ物は日本国内で誕生した調理法ではなく,国外から流入した調理
法でした。このことはわが国では,油が主に灯火用として利用されたことと関係が深い
と考えられます。貴重品である油を大量に使う揚げ物は,庶民の口には入らない特別な
料理であったようです。
〈17世紀に江戸魚河岸周辺で「ごま揚げ」に人気〉
元和二年(1616年)駿河において徳川家康公が「タイの天麩羅」を食べた話は有名で
すが,これは上方において流行していた料理で,天麩羅のような衣揚げではありません。
しかし,揚げ物が広く食べられるようになったことの例と観ることができます。
この頃,江戸では魚河岸が作られ,その脇で安く仕入れた魚介を衣揚げにする立ち食
いの店が出始めます。その頃から,大衆向けの手軽な食べ物としての揚げ物料理が出回
って来たようです。
ただしこの頃は,「天麩羅」ではなく,江戸では「ごま揚げ」と呼ばれていました。
この頃の江戸では,ごま油で揚げていたようです。因みに上方では,明治の頃まで「付
け揚げ」と呼んでいました。
関西地方では菜種油を始めとして油が大量に生産され,アッサリ嗜好の関西では軽い菜種
油が全盛となります。油は江戸にも運ばれたが,殊コト揚げ物に関しては,ごま油の濃い
香りと酷コクが尊ばれました。
〈江戸中期に「天麩羅」登場。気軽な屋台店が大評判に〉
魚介類の衣揚げが「天麩羅」と呼ばれるのは,安永年間(1772〜1780年)で,この頃
には人通りの多い町中にも常設の天麩羅屋が増え始めました。
屋台では当初,天麩羅は串に刺して揚げたものが皿に載せて売られており,その脇に
は,天汁テンツユの入った大きな丼と,大根卸しを盛った器がありました。お客は立ったま
ま,好みの串を選んでそのまま丼の汁ツユに付け,大根卸しで食べるのです。後には串に
は刺さなくなり,各々が用意された箸で勝手に取って小皿に載せて食べるようになりま
す。
食欲を誘う香ばしい匂いと,立ち食いの気安さが男社会の江戸の気風に受け,天麩羅
は大盛況を呈するようになります。
〈お座敷,贅沢素材・・・・。天麩羅が高級料理として脚光を〉
庶民に人気の天麩羅は,江戸末期に変化が訪れます。天麩羅は立ち食いの安価な食べ
物で,身分の高い層の人には「下手な食べ物」と敬遠されてきました。しかしこうした
人等にも,粋を凝らした贅沢な天麩羅が人気を集め始めます。
まずは嘉永年間(1846〜1852年)に登場する「金ぷら」です。当時贅沢品の卵や油を
使って黄金色に揚げたところから,その名が付いたと云います。また金ぷらに対し,卵
の白身を使った「銀ぷら」も考案されました。こうした天麩羅は屋台ではなく,お座敷
で食べられました。
お座敷での天麩羅の欠点は,揚げたてが食べられないことです。それを解決したのが
文久の頃(1861〜1863年)に登場した出張天麩羅です。油,衣,材料,それに天麩羅鍋
を持ってお座敷まで行き,其処で揚げるのです。出張天麩羅の始祖は,「鮮ぷらの出揚
げ」を名乗った福井扇夫とされています。これは非常に人気が高かったため,「大名天
麩羅」と讃えられたと云います。
こうして高級天麩羅は,江戸末期から明治にかけて隆盛を築いて行きます。一方では
屋台の天麩羅も庶民や食通に愛され,江戸が東京に替わっても,味で名高い名物屋台は
何軒もありました。
〈関東大震災を機に東西の味が交流し,天麩羅新時代に〉
天麩羅の一大転換期は大正12年の関東大震災です。この震災で東京の天麩羅屋台が閉
店を余儀なくされ,職を失った職人等が各地に移って行き,江戸前の天麩羅が関西や他
の地域に広がりました。そしてその後東京の復興に従って,関西の料理店が東京に進出
して来ます。
震災を契機に関西では色の付いたごま油を使う店が登場し,東京では関西の影響を受
けてアツサリと揚げる天麩羅店や,魚介類だけでなく野菜を揚げる店が多くなります。また
アッサリ味の天麩羅に合わせ,塩で食べさせる店も増えて行きました。
店構えでは,多くは以前の気楽な天麩羅店で,玄関脇に台を備えた常設屋台でしたが,
震災後は屋台店は減り,豪華な「天麩羅店」が登場します。
復興後の東京でも,天麩羅は人気を集めます。日本人だけでなく,油で揚げた天麩羅
が食習慣に合うのか,日本食に興味を持つ外国人も天麩羅を食べるようになりました。
天麩羅は,鋤焼きスキヤキと並んで日本を代表する食事として認められるようになって行き
ました。
〈昭和初期に統制色が強まる中,天麩羅への人気は続く〉
昭和初期の戦時色が強くなる頃には,小麦粉や油の入手が難しくなり,天麩羅店の営
業を圧迫し始めます。東京では,天麩羅店が集まって食材業者と交渉し,共同仕入れに
より食材を何とか確保していました。
戦争が始まると,油は統制品となり,大豆油・ごま油は家庭向け,菜種油は小口工業
用の配給品に指定されます。
食材や油は,高級店では伝ツテを頼って確保に奔走しましたが,個人店では闇ヤミで仕入
れて商う店も多く,騙されて受け取った油がヒマシ油(下剤などの原料)で,それで揚げた
天麩羅を食べたお客が下痢を起こす事件も屡々あったと云われています。
統制外の未利用資源とされた牛蒡ゴボウ,大根,人参,南瓜カボチャ,西瓜,辛子菜など
の種を絞った油も売られ,こうした油で天麩羅を揚げた店もありました。油には,元の
種子の風味が残留しているので,人参や牛蒡は臭く,辛子菜は辛くて,本来の天麩羅に
は向きませんでしたが,こうした油で揚げたものでも売れる程,天麩羅の人気が高いも
のでした。このことは,人々が天麩羅をどれ程渇望していたかを感じさせます。
〈戦後処理にも天麩羅が活躍。ヘルシー感覚で現在も人気が〉
大戦後,焼け残った東京において占領軍に喜ばれたのも天麩羅でした。GHQ高官の
接待に際して,当時の外相吉田茂氏の要請で,東京銀座の「天一」が天麩羅を揚げたの
は有名は話です。天一は,吉田私邸や外相官邸など,戦後処理の交渉の場にもよく呼ば
れて天麩羅を揚げました。あるときは,天麩羅鍋の間に政府密書を挟んで運んだことも
あったと云われています。
油で揚げた香ばしい天麩羅には,殆どのGHQ高官が接待され,舌鼓を打ったと云い
ます。こうした経緯もあって,欧米人の間には,天麩羅は日本を代表する料理として広
まって行きました。
高度成長期以後,油の精製技術の進歩や冷凍技術の発達によって,大衆的にも,かつ
ての「下手な食べ物」としての天麩羅は姿を消し,他の飲食店や各家庭にも広まって行
きます。健康志向が高まる現在,栄養バランスが良く,ヘルシーな揚げたての天麩羅は,益々人
気を集めて行くでしょう。
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