31 日本名庭100選〈庭園の歴史とその見方〉
 
        日本名庭100選〈庭園の歴史とその見方〉
 
                    秋田書店「日本名庭100選」を参考にさ
                   せていただきました。
                    日本の庭園は,思想面ことに宗教的な背景
                   をぬかしては語れません。単に構成美や局部
                   的な技法を論じても日本の庭の神髄は決して
                   理解できるものではなく,作意を求め「この
                   庭は何をいわんとするか」を見極めることが,
                   鑑賞にとって最も大事にことなのです。
                    また,日本の庭は,自然界の凝縮であって,
                   自然そのものではなく,人間による創造物で
                   あることも忘れてはなりません。つまり,超
                   自然としての芸術品が庭であるわけで,その
                   素材を自然界に求め,人間によって,観念的
                   宇宙や現世,来世を具限した作品ともいえま
                   す。
                    と選者の西ケ谷恭弘氏が述べております。
                                     SYSOP
 
〈庭の発祥〉
 △神籬ヒモロギ・磐境イワサカなど
 人間の生存・生活の根源は,大自然の営みです。それは,人間ばかりでなく,万物の
源でもあります。原始の時代でも現代でも,人間の力ではどうにもならない自然への畏
敬の念は変わることはありません。ましてや,原始の人々にとっての自然観は,そこに
神を見,無である自然神(対象物が全くない)を祀ることを考え出すのは当然です。
 すなわち,目に見えない自然を支配する神が宿るところとして”神籬ヒモロギ”をつく
りました。大和三山(奈良)などの自然崇拝と神籬の関係を考えますと一目瞭然です。
神籬には小石又は白砂を敷しつめ,縄を張りめぐらした一区画をつくることからはじま
り,後にその上に建物を伴うようになって,神社となっていきます。また,自然敬虔の
念は絶対性 =不変= に結びついて,石を信仰の対象にするようになりました。石を組
み合わせたり,巨大な自然石を立てて,崇厳な景観をつくり,祈りを捧げるのです。こ
れを磐境イワサカ・磐座イワクラといい,原始宗教に求めることができます。
 前者の小石敷及び白砂敷は今日でも伊勢神宮,出雲大社をはじめとした古神道の神社
の本殿の敷地区画に見られます。白砂敷のもつ清潔さを全面に大きく打ち出したものに
上賀茂神社本殿前の砂敷と砂盛があります。さらに御所に見られる前庭の白砂敷は,神
籬の形式を発達させた庭園的な要素が強いものといえるでしょう。
 一方,後者の石を信仰対象とした磐境・磐座は阿知神社石組(岡山県倉敷市鶴形山),
保久良神社天津磐境(神戸市東灘区北畑),高諸神社磐境(広島県福山市今津町)の巨
石がこれです。
 
〈古代王宮の庭〉
 △須弥山の登場
 大和朝廷の成立から,文化,政治面で大きな存在を占めたのは朝鮮半島からの帰化人
です。庭園は大陸的な仏教思想がその作意の源となります。「六国史」などに断片的に
記載される朝廷や貴族の邸宅の構えの中にしばしば,苑池,築山などの存在を伝える記
載が見えます。ことに推古天皇20年(612),皇居の南庭に須弥山と呉橋(石段のこと
か)が,朝鮮の百済からの帰化人によってつくられたことが,「日本書紀」に見える話
は有名です。須弥山とは,仏教でいう宇宙を支配する帝釈天の居所で,宇宙の中心であ
る高い山(エベレスト・ヒマヤラ山塊を意味するという)のことで,これを囲んで四天
王がいて,高さは八万由旬ユジュン(1由旬は40里か)にのぼります。中国から日本にこ
の思想が伝わり,妙高(妙光)山ともいいました。後世,須弥山の思想は作庭に大きく
影響し,主景にあたるところに石組をなし須弥山石組,須弥山石とかいいました。また
さらに斉明天皇の代に石造美術ともいうべき須弥山石の立造が飛鳥寺の西や,甘檮アマカシ
の丘東側の河原にも造られたことが見えています。その形態は,後世の形状よりずっと
彫刻的であったようで,東京国立博物館前庭にあるようなものだったらしいです。
 △蘇我馬子の庭
 古代の本格的な庭園を伝える初見は,推古朝34年の蘇我馬子の邸に作庭された「日本
書紀」の記事です。この庭は飛鳥川の傍にあって,池泉を掘って,島を浮かべたもので,
世に馬子のことを「島の大臣」といったのは,この庭の島から由来し,その後「島の宮
」となりました。また「万葉集」などでは庭のことを「島」と書き表すほどです。昭和
49年1月,この馬子の邸地跡である島の宮を発掘調査して,広さ40m四方の「勾りの池」
を発掘,池底には玉石を敷きつめ,汀線も「磯の浦回」「荒磯」などと詠まれたように
造られていました。
 △池汀の曲線と曲水(遣水・筧)
 平城京の発掘調査が進むにつれて,王宮をとりまく庭園の形が明らかになりつつあり
ます。すでに,池泉には美しいカーブをもった淵がめぐり,洲浜や荒磯を示す小石敷の
汀線が確認されています。そして,特筆すべきことは,古代王朝よりはじまった曲水宴
と呼ばれる,庭園の中を流れる屈曲した沢流れに盃を浮かべて流し,詩歌を詠じ,盃を
とってこれを飲む,君臣一体の宴です。このための曲水が苑路に添ってつくられ,平城
京でも出土を見ました。上賀茂神社や,岡山後楽園に流店としての宴席が伝わります。
 △神泉苑と離宮庭
 京都では「お池」通りが中央を横切ります。これは,かつて平安京を営んだ折りに禁
裏につづく大庭園「神泉苑」の遺構,「お池」に由来します。今日,二条城の南に小さ
な池がありますが,それが残存部分の池泉です。遊びを主眼とする作庭で,中島を浮か
べ東西2丁,南北4丁に亘る大池泉苑です。同じ平安時代に嵯峨天皇による嵯峨院大沢
池の作庭(大覚寺参照),源融の六条河原院(渉成園参照),皇孫寛朝僧正の広沢山荘
(現 広沢池),鳥羽離宮など,広大な池泉を持ち,竜頭鷁首ゲキシュの船を浮かべて,
遊興に用いられた庭が築かれ,雅ミヤビやかな宮廷文化の中心となりました。
 △「作庭記」などの出現
 王朝や貴族にとって,その邸内に庭園を持つことは必要不可欠のものとなり,平面プ
ランや,立石法,石組法,築山構築又は細部の技法の研究が進み,その手法は秘伝とさ
れました。今日,わが国最古の作庭秘伝書として「作庭記」があります。関白橘俊綱が,
10世紀後半に記述したもので,「前栽秘抄」「園池秘抄」ともいわれ,国指定重要文化
財に指定されています。遣水ヤリミズ =筧カケヒ= のつくり方,枯山水の意や立石法などの
内容はすぐれ,作庭心得を書き記すことは興味深いです。
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