29a 植物の世界「スギからみた花粉症」
 
〈植え替えは100年がかり〉
 ただ,この方法にも問題はあります。単一の品種からなるスギ林は,病虫害や災害に
弱いため,何かをきっかけに全滅してしまう危険もあります。また,新たに植えられる
品種が,その地域に適したものかどうか分からないと云う不安もあります。そして最大
の問題は,仮令タトエこれらのハードルをクリアしたとしても,国土総面積の8分1を占め
ているスギ人工林を植え替えるには,少なくとも数十年,いや100年単位の時間が必要
で,現在花粉症に悩んでいる人々にはあまり期待出来ないと云うことにもなります。
 また,薬剤を幹に注入したり,散布するなどして,スギの開花を抑える方法もありま
す。実際,実験段階においては,植物ホルモンの合成を阻害して雄花が作られるのを抑
制したり,一旦作られた雄花を落とすなど,比較的効果のあることが分かっています。
一本一本の木に注入するのは手間がかかり,ヘリコプターなどによって上空から散布す
る方法は環境汚染の恐れがあるため,実用化するのは困難です。
 
 一方,これらの方法については,「スギが花を咲かせ,花粉を作るのは,植物として
の正常な生殖活動に過ぎません。それを人間の都合だけでコントロールしようと云うの
は,『生の尊厳』を侵す行為ではないか」と云う批判もあることを付け加えておきたい。
勿論,「長年に亘って人間が手を加えて来た人工林をコントロールする訳で,天然林と
は話が違う」と云う意見もあるでしょう。
 それでは,何か対策はないのか。そこで注目されていますのが,花粉予報をより精緻
セイチ化することです。
 
〈飛散開始日の予測で予防を〉
 第一に,スギ花粉の飛散開始日の予測です。花粉症患者に,飛散が始まる2週間程前
から抗アレルギー剤を投与しますと,症状が出ないか,出ても軽くて済むことが多い。
花粉症の場合,インフルエンザなどとは異なり,(新たに発症する人は別にして)症状
の出る人は決まっていますので,予防的治療の効果は大きい。ただ,花粉が飛散し,症
状が出てから投与しても効きませんので,飛散開始日を事前に(直前では遅い)出来る
だけ正確に予測することが重要です。
 
 飛散開始日は1月に入ってからの気温に左右されることが分かっていて,1月の最高
気温の積算値から,飛散開始日を予測する数式が立てられています。1996年の場合,東
京都内の飛散開始日は2月13〜15日と予測され,実際には14日でした。誤差は普通3日
位ですが,開花直前に強い冷え込みがあったりしますと,1週間位遅れることもありま
す。勿論,気象条件だけでなく,スギ林においての生育状態調査も不可欠です。
 現在,飛散開始日は「一定の採集器によって,1u当たり1個以上の花粉が2日以上
続いて採集された日」と定義されています。ただ,現在普及している採集器は旧式のも
のが多く,飛散開始日には,花粉症の人の10%以上に症状が出ていることもあって,よ
り高性能の採集器への更新が望ましい。
 
〈細かい予報で発症を抑える〉
 第二に,現在出されています花粉予報を,地域毎,時間毎など,より肌理キメ細かいも
のにして行く方法があります。狭い地域において数時間単位での予報が可能になります
と,花粉症の人は飛散量の多い時間帯は外出を控えることによって,発症を抑えること
が出来るからです。そのためには,スギ林で作られた花粉がどのようなルートを辿って
市街地にやって来ているかを解明する必要があります。
 佐橋紀男氏(東邦大学)に拠りますと,東京都の場合,周囲をスギ林に包囲された形
になっていますので,どの風向きでも花粉がやって来ます。最大の通路は東京湾なので,
遮るものはありません。ヘリコプターでの調査によりますと,東京湾上空には,花粉の
「溜まり場」のような空間があるらしい。
 しかも,都市などの場合,「一度飛んで来たらおしまい」と云う訳ではありません。
土の上に落ちればそれっきりですが,コンクリートなどの上では,風で再び舞い上がり
ます。今度は遠くへは飛ばない上,都市特有の「ビル風」も加わって,花粉自体が壊れ
るまで人間の生活空間を飛び続けることになります。スギ林から都市へと云う「一次飛
散」に対し,これを花粉の「二次飛散」と呼んでいます。都市は,上からの一次飛散と
下からの二次飛散に挟まれて,文字通り「花粉地獄」化しているのです。
 
 村山貢司(日本気象協会)氏に拠りますと,スギ林において飛散した花粉は都市にや
って来て落下し,気温の上昇と共に上空に舞い上がって,日没後になると再び落下しま
すので,昼頃と日没後は特に影響が大きい。更に,花粉が郊外から都市に通勤する人々
の衣服や車に付いて運ばれると云う問題もあります。より肌理細かい予報を出すために
は,様々なケースを想定した研究が必要でしょう。
 
〈急な伐採は洪水の恐れも〉
 最後に,最近高まっている「スギなんか伐ってしまえ」と云う意見について考えてみ
ましょう。伐採が花粉量を減らすのに最も手っ取り早い方法であることは間違いなく,
林野庁も1990年,雄花の数の多い木を優先的に間伐するよう各都道府県などに指示して
います。ですが,国土総面積の8分の1を占めているスギ人工林による緑化や治水の効
果は頗スコブる大きく,急な伐採は,環境を悪化させると共に,洪水を引き起こし兼ねま
せん。仮に,他の木に植え替えるとしても,それには100年単位の時間が必要です。更
に,抑も人間の都合から多量に植えて来たスギを,都合が悪くなったら伐ってしまえと
云うのは身勝手と云われても仕方ありません。辻誠一郎氏(国立歴史民俗博物館)も「
スギと人間の関わりは凄スゴく深いのに,その歴史を一時にして断とうと云うのは無責任
ではないか」と批判しています。
 締め括りに,佐橋紀男・斎藤洋三両氏の「スギの独り言」(『医薬の本』1990年)の
内容を要約して紹介しましょう。
 
 日本列島のスギの祖先は,200万年以上も前に出現し,気候の変化によって多くの植物
が絶滅して行った中において,奇跡的に今日まで生き長らえて来ました。10万年ほど前
に現れた「日本人の祖先は,何処にでも繁茂していたスギの特徴を知り尽くして利用し,
スギと共存していた」に違いなく,「スギは少なくとも極最近まではこよなく大切にさ
れ,老木は神のように敬われて来た筈でした」。
 ですが,第二次世界大戦後になりますと,日本人はスギをぎっしりと植林するかと思
えば,安価な外材が大量に入って来ますと,「労力とコストがかかる」と云って見放し
ました。「何の手入れもされなかった多くのスギ林が息も絶え絶えになりながら,最後
の力を振り絞って大量の花粉を子孫維持のため飛散させていると観ることも出来ます」。
わが国の木材輸入は熱帯の環境破壊に繋がるとして批判されていますが,「スギを有効
利用しますと,わが国において使用される外材を十分補うだけの価値があります」と云
う試算もあります。
 わが国は「スギの故郷」です。「美酒を作る酒樽も,雨の多いわが国の国土を守るの
も,豊かな美しい河川も,スギあってのものであることを忘れてはいないでしょうか。
広い世界の中の,狭い日本に200万年も生き続けて来たスギをもう一度,豊かな美林に回
復させるような施策を心から願う」。

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