28 植物の世界「年輪は語る」
 
             植物の世界「年輪は語る」
 
                      参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
 
 樹木の年輪は,樹皮と前年に形成された年輪との間に,毎年1層ずつ形成されます。
その幅は,主に気候条件に左右され,広くなったり,狭くなったりします。20世紀初頭,
この年輪の変動パターンに着目し,それを歴史の研究に利用する方法を考え出したのが,
アメリカの天文学者ダグラス(1867〜1962)です。これは,ある年輪が今から何年前に
形成されたものかを過去に遡って確定して行くもので,「年輪年代法」と呼ばれます。
 更にこの年輪年代法から発展させたものに,年輪の幅や密度から,その年の気候がど
のようなものであったかを推定する「年輪気候法」があります。本稿においては前半で
年輪年代法,後半で年輪気候法について紹介します。
 
[年輪年代法によって歴史を解き明かす]
 
 ダグラスの研究は,発表当初からわが国においても知られていました。しかしその研
究フィールドが,単調な乾燥気候であるアメリカのアリゾナ州やニューメキシコ州であ
ったことから,湿潤温暖で,地勢も複雑であり,降水量も各地で大きく異なるわが国に
おいては適用出来ないと思われていました。それでも早くから,ダグラスの研究を導入
する試みが幾つかなされましたが,大きな成果を生み出すものはありませんでした。
 
 1970年代半ば頃,旧西ドイツにおいて年輪年代法が飛躍的に進展していることや,わ
が国の低湿地の遺跡調査が進み,これに伴って多量の木製品が出土したこと,更に歴史
的建造物の修理が各地において行われていたことなどから,奈良国立文化財研究所にお
いては,遺跡や木造建造物がどの時代のものかを正確に知る方法として年輪年代法を導
入することが検討され始めました。1980年,ヒノキ,スギ,コウヤマキに的を絞り,年
輪年代法の研究が始まりました。この3樹種が選ばれたのは,わが国において建造物に
木材の利用が始まった頃から,この3樹種が最もよく用いられ,更に現在まで継続的に
用いられて来たからです。
 研究を開始してから約3年で,これら3樹種の年輪パターンが,広い地域においても
同じように変動変化していることが確認されました。従来の年輪年代法に対する思い込
みは誤りであったのです。これにより,わが国においても年輪年代法の研究が本格化す
ることになりました。
 
 年輪年代法においては,年代を割り出す際に基準となる暦年の確定した標準パターン
(暦年標準パターン)を,過去に出来るだけ遡って作成することが最も重要です。これ
が出来てしまいますと,後はこれと,年代を知りたい木材の年輪パターン照合するだけ
でよい。これにより,これまで年代不明であった木材の年代が,考古学や地質学などの
相対的年代法によって求めたものに比べ,全く誤差がなく求められるようになりました。
 現在までに,ヒノキにおいては紀元前743年まで,スギでは紀元前651年まで,コウヤ
マキでは22〜741年の間の暦年標準パターンが作成されています。これらの年代範囲内で
あれば,年代の分からなかった木材の年輪が何時形成されたかを確定出来ます。これま
でに,東北地方から九州までの広い地域において,考古学,建築史学,美術史学,地形
学,地質学などに関連した木材の年代測定に威力を発揮して来ました。これよりその一
端を紹介しましょう。
 
〈偽物であった曲げ物容器〉
 京都のある寺院が所蔵していた木製容器の木材が,何時の時代のものかを年輪年代法
によって測定したことがあります。この容器はヒノキの薄い柾目マサメ板で作った曲げ物
で,全体に漆を塗って仕上げたものです。その底板の下面には「天福元年五月」と読め
る墨書ボクショ銘がありました。天福テンプク元年は鎌倉時代前期の1233年ですので,制作年
代の判明する工芸作品としては高い評価が与えられたものでした。
 しかし,この容器のヒノキ材を年輪年代法によって測定しますと,蓋フタ材,身材,底
材共に1233年よりずっと新しい材を使用していることが判明してしまいました。中でも
最も新しい年輪年代は,身材の1576年でした。この結果,身材の原木は少なくとも1576
年以降に伐採されたものであり,当然のことながらこの容器も,墨書銘にある1233年よ
りも343年以上も後に制作されていたものと云うことになります。これは恐らく,この容
器が儀式に使用する特別なものであることから,1576年以降のある年に何らかの原因に
よって壊れてしまい,仕方なくそっくり同じものを新たに製作し,昔の銘を写したもの
と考えられます。
 
〈紫香楽宮の所在地も特定〉
 710年から,都は奈良の平城京にありました。記録によりますと聖武ショウム天皇は,740
年から目まぐるしく都を移動させています。まず740年12月,都を平城京から,今の京都
府加茂カモ町にあったとされます恭仁クニ京に移しました。約2年後の742年8月には,紫香
楽宮シガラキノミヤの建設を開始し,翌年の743年にはその地において大仏の造営を発願ハツガン
して甲賀寺コウガデラの建立を開始しました。745年1月には,僅か5年で恭仁京を棄てて
紫香楽宮に移しました。ところが同年5月,再び平城京に都を戻してしまいました。
 現在,紫香楽宮として国が史跡に指定している場所は,滋賀県甲賀コウガ郡信楽シガラキ町
にあります。地名の甲賀郡と記録の甲賀寺,信楽町と紫香楽宮など如何にも尤もらしい
が,この遺跡にある基壇キダンや礎石ソセキの並び方からしますと,寺院跡である可能性が高
く,宮殿の跡とは考えにくかった。しかしこれ位の根拠では,此処が紫香楽宮ではない
と断定することも出来ませんでした。
 
 実は紫香楽宮跡の候補地は,もう一つありました。国の史跡指定地から北に約1.5qの
処にある宮町ミヤマチ地区です。今から約20年前の1975年に,この地区において田圃の圃場
ホジョウ整備が行われ,直径約40pの柱根チュウコン(腐らないで残った掘立柱の地中部分)が
3本発見されました。しかし当時は,この柱根が後の大発見に繋がるものとは露知らず,
地元の老人が盆栽の台として使っていました。その後,この柱根は信楽町教育委員会が
譲り受けていました。
 1985年になって漸く年代測定が行われました。調査の結果,3本共樹種はヒノキで,
この柱根の年輪年代はそれぞれ743年,562年,530年と判明しました。そのうち743年の
ものは幸運にも樹皮が一部残っていました。と云いますのは,樹皮が残っていますと,
その樹皮に最も近い処にある最終形成年輪の中において,春から夏に作られる早材や,
夏から秋に作られる晩材の形成状況を顕微鏡によって観察しますと,伐採されたのがど
の季節かを特定出来る場合があるからです。この柱根においては,晩材部分の仮道管
カドウカンが完全に形成されていませんでしたので,伐採時期は743年の夏の終わりから秋の
始め頃と推定出来ました。
 
 この宮町の遺跡が紫香楽宮跡かどうか確証を得られていませんでしたが,柱根の年輪
年代から見ますと,正に都を造っていた時期と重なったため,宮町地区が一躍脚光を浴
びる存在となりました。
 この年輪年代の結果を踏まえ,1988年と1989年に発掘調査が行われました。その結果,
11本もの柱根が新たに発見されました。このうち樹皮の残っているものが3本あり,そ
のうち2本の年輪年代が以前あったものと同じ743年,残りの1本は742年でした。この
742年のものは,樹皮直下の年輪(最外年輪)の材構造から,初秋に伐採されたもので,
これは『続ショク日本紀ニホンギ』に記載されている紫香楽宮の造営開始年とぴったり一致し
ます。
 
 更に1994年11年30日,この宮町遺跡において「造大殿所」と書かれた木簡モッカン片ヘンが
発見されました。大殿オオトノとは天皇の殿舎など宮の中心的な建物を指す言葉であり,造
大殿所ゾウオオトノショとはその大殿を造営する役所を意味することから,これが宮町地区に存
在していたことを示しています。これが決定打となって,紫香楽宮調査委員会は,この
遺跡が紫香楽宮の中心部であると断定しました。田圃の圃場整備において偶然に発見さ
れた柱根の年輪年代が判明してから,実に9年後のことです。
 以上,年輪年代法による応用事例を紹介しましたが,今後も,各種の木質古文化財の
年代決定に威力を発揮することは間違いありません。また弥生ヤヨイ,古墳時代の年代観が
なかなか定まらないことが,考古学において大きな問題となっていますが,ヒノキやス
ギの暦年標準パターンが縄文晩期まで到達していることから,この解明にも年輪年代法
は大きな役割を果たすでしょう。
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