20 植物の世界「カタクリの一生を追う」
 
           植物の世界「カタクリの一生を追う」
 
                      参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
 
 植物の生活史とは,「植物の一生の間に起こるあらゆる出来事」の記録です。つまり
幼植物である種子,発芽した芽生え,様々な大きさの発育の中間段階にある幼植物,そ
して成熟植物と,ある植物の種の生長,発育の全過程におけるあらゆる出来事の記録で
す。本稿においては,カタクリを採り上げて,少し具体的にその生活史について学んで
みることにしましょう。
 
〈生長と発育相の変化〉
 植物は元来,固着性でそれ自体が移動しませんので,その集団を調べるには「枠法ワク
ホウ」と呼ばれる手法が用いられます。カタクリによって一様に優占される集団において,
一定の枠サイズ,例えば単位面積(1m四方)当たりに出現する全てのカタクリの個体を
注意深く観察して見ます。そうしますと,その中には細長く糸状をした実生ミショウから,
狭長キョウチョウ楕円形,狭卵形,広卵形,そして卵円心形などの様々な大きさの葉を1枚だ
け付ける無性個体と,15〜25pの1本の花茎カケイの先端に,大型で反り返った紅紫色の花
被片カヒヘンを持った花を1個付け,先端が鋭く尖った卵状長楕円形の葉を2枚付ける有性
個体とが,様々な割合で混生していることに気付きます。
 しかしながら細長い糸状の実生以外は,大きさや形状の異なる無性個体や有性個体の
全てを,厳密にその絶対年齢と対応させることは難しい。そこで大きさの異なる様々な
個体を栽培し,翌年までにどの程度生長が進むかを調べたり,また自然集団の中に定置
枠を設けて,その中の全ての個体を標識し,次年度に認められる大きさの変化を記録す
るなどして,出来るだけ正確にその成長率を把握するよう努めます。勿論現実に生育地
の環境条件は,空間的に見ても決して一様ではありませんし,また年によって環境要因
の変動の幅も異なっています。従って,まずカタクリは,実生から何年程経年生長を繰
り返して成熟段階に至るのか,また一度成熟段階に達した個体が,その後どのような挙
動を繰り返すのかを調べる必要があります。
 
 これまでの観察から,どうやらカタクリは,自然条件下においては最低7年程経年生
長を繰り返して成熟段階に到達することが分かって来ました。しかし,一度成熟段階に
達してから後の個体の挙動はなかなか複雑です。標識された個体の経年的な変化を観察
して見ますと,連続して3年以上に亘り開花を続ける個体もあれば,開花した翌シーズ
ンには再び1枚葉の無性段階に逆戻りして物質生産を行い,貯蔵物質を鱗茎リンケイ内に貯
め込み,更にその翌シーズンには再び花茎を上げる個体もあります。このような個体の
経年的な変化の原因には,未だ不明の点が多い。何れにせよ,カタクリの場合も他の多
くの多年草と同様に,一定の個体の大きさに達しなければ有性繁殖器官である花茎や花
を形成することが出来ず,貯蔵物質の蓄積量の差異が繁殖器官の形成の可否に関わりが
あることは確かなようです。
 
〈個体群のサイズ構成〉
 野外においては,実生個体以外の無性及び有性個体の絶対的な年齢を正確に決定する
ことは出来ませんので,本稿においては葉面積に基づく個体の大きさを物差しにして,
その個体群構造を解析してみましょう。
 葉の大きさ(面積)によって16段階に区別されたクラス毎に,個体の乾物重と個々の
器官の占める割合を見ますと,個体重の増加に伴って植物体の各部分は増えて行きます。
各器官への配分率を計算してみますと,その割合は,サイズ構成で区分された様々な大
きさの個体のどれ一つを採って見ても,おおむね一定です
 
 ここで,カタクリの子供が誕生してから死ぬまでの過程,即ち親植物上において成熟
した種子が地上に散布され,定着し,発芽・生長し,やがて成熟個体となって次世代を
残すための繁殖活動を行い,死亡するまでの全過程を,もう少し正確に知る必要があり
ましょう。
 落葉樹林の林床に比較的一様に個体が分布するカタクリの集団を選び,1m四方の方形
枠(区)60個をランダムに設定して,その中に生育する全てのカタクリ個体の葉面積を
測定(筆者河野昭一氏)したところ,7以上の階級,即ち経年生長を繰り返しながら,
種子の発芽から7年経過して開花段階に到達したクラスに有性個体が集中して出現して
いたことが分かりました。
 一方,個体数については,サイズの小さいクラスと,反対に大きいクラスに数の激減
が認められました。つまり,カタクリにおいては親植物の朔(草冠+朔)果サクカから種子
が弾けてこぼれ落ち,散布される過程において,幼植物である種子の損失率が非常に高
く,次いで大型有性個体の死亡率の高いことが分かりました。
 
〈個体数の年次変動〉
 ここでもう少し具体的にカタクリの野外集団において,個体数の年次変動のパターン
を追跡して見ることにしましょう。本州中部の日本海側に位置する富山県八尾ヤツオ町のコ
ナラ,イヌシデ,ホオノキなどからなる落葉樹林の林床に同じく9個の方形区を設定し
て,その消長の記録を辿ってみました。
 1979年から5年間の調査では,6調査区では明瞭な個体数の増加が認められ,他の3
調査区では個体総数はほぼ一定でした。5年間に亘る個体の生存率は62〜88%で,可成
りの高い割合を占めています。また,全個体の年平均死亡率は20〜36%で,したがって
閉鎖的で,安定した林内に存在するカタクリの野外集団内において,推定される個体の
完全な入れ替えは10.5〜32.5年と非常に遅く,ゆっくりとしたペースで進んでいること
が分かります。
 これらのデータから,実生を含む幼植物段階においての個体の死亡率が高いこと,更
に上級のサイズ・クラスに属する個体数の変動が少ないことが,まずはっきりとして来
ました。また集団全体として見た場合,外から特別の干渉が加えられない限り,カタク
リは実に安定した構造を,何年にも亘って維持していることが明らかとなって来たので
す。
 
〈虫媒花としての繁殖戦略〉
 カタクリは,キクザキイチゲやその他の春植物と共に,日本列島に春の訪れを告げる
使者でもあります。開花最盛期のカタクリ集団の中において,じっと耳を澄ましてみま
すと,屡々昆虫たちが活発に活動する羽音を聞くことが出来ます。
 カタクリの花を訪れる昆虫の中においては,何と云っても一番個体数の多いのがハナ
バチの仲間です。特に,クマバチ,マルハナバチなどの大型のハチが,頻繁にカタクリ
の花を訪れ,蜜を求めて飛び回っています。大きく,力の強い口吻コウフンを花被片と子房
との間に差し込んで吸蜜しますが,そのとき下垂する雄蘂と雌蘂を抱え込むようにしま
すので,体中,取り分け腹部は花粉まみれとなり,極めて効果的な花粉の運び屋である
ことが分かります。
 
 カタクリの花を見ますと,子房の基部の外花被と内花被との接着する部分に非常に大
きな蜜腺が発達しています。雄蘂の葯も大型で,極めて大量の花粉を生産しますので,
蜜を集めたり,花粉を集める昆虫にとっては真に格好の餌の提供者であると云えます。
その代償として,カタクリは昆虫に効果的に花粉を運搬して貰わなければなりません。
しかもカタクリは,昆虫が訪花しない場合は,殆ど自家受粉することのない典型的な他
家受粉型の虫媒花チュウバイカです。カタクリは昆虫,取り分け大型の膜翅マクシ目の昆虫を,
花に惹き付けるための特別の仕掛けを備えています。
 私共人間の目には,カタクリの花は非常に鮮やかな紅紫色の色彩に見え,反り返った
花被片の基部には,紫濃紫色で波形の斑紋があります。しかし,大変興味深いことに,
波長360ナノメートル付近の紫外線だけを透過させるフィルターを用いてカタクリの花を撮影し
てみますと,花被片だけでなく,雄蘂も雌蘂も皆,実によく紫外線を吸収していること
が分かります。これらの紫外線を吸収する部位には,ケンペロールやケルセチンを骨格
に持つ8種類のフラボンやフラボノールを含んでいることが分かって来ました。昆虫の
複眼,特にハナバチの仲間など膜翅目の昆虫の視覚器はこの紫外線の波長に感受性が高
く,カタクリの花全体が,このように昆虫を誘引するためのシグナルとなっているので
す。
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