16a 植物の世界「洋ラン栽培の"産業革命"」
〈増殖はなぜ可能か〉
では増殖そのものについて,その原理を説明したい。
完全な体の作りを持った緑色植物は,外部から各種の無機元素と太陽エネルギーを採
り入れるだけで生育を行うことが出来ます。一方,葉の一部とか芽だけを切り離した場
合には,通常はその部分は正沿い出来ません。それは,生育に必要な各種の無機物が吸
収出来ないためと,有機物を自分で合成出来なくなるためです。しかし,これらの生育
に必要な各種の栄養素が与えられますと,植物は体の一部分,更にはたった一つの細胞
からでも,完全な植物体を再生する能力があります。この能力は分化全能性(トチポテ
ンシー)と呼ばれます。この性質のお陰によって,植物は生殖によることなしに栄養繁
殖が可能であり,また別の遺伝子を細胞に導入して,その細胞から完全な植物体を再生
することも出来るのです。
ラン科植物の微細繁殖用の培地の成分は,無菌播種用のものと基本的には同じですが,
種或いは培養組織によってはビタミン類や植物ホルモン類の添加が必要です。これは,
植物体の一部分だけが分離された組織の状態では,種子に比べて従属栄養性の程度が高
いためと考えられます。
茎頂や花茎カケイ腋芽エキガなどを培養した場合,ラン科植物は芽として発達し,幼植物を
形成する場合と,プロトコルムに似た器官を形成する場合があります。後者の場合は,
種子から出来たプロトコルムと区別するため,プロトコルム様球体(PLB)と呼ばれま
す。植物ホルモンの含まれた培地においては,葉片や根端などを培養した場合にも,不
定芽的にPLBを形成する場合があります。
プロトコルムやPLBからの増殖は比較的簡単で,先端部の分裂組織を切除して移植しま
すと,基部から新たに数個のPLBを形成します。このように移植と切断を交互に繰り返す
ことによって,クローンを無限に増殖出来る訳です。
移植と切断を継続したり,液体培地において振盪培養や回転培養しますと,増殖にと
って無駄な根や葉などの生育を抑えることが出来るため,増殖速度を更に速めることが
出来ます。切断移植や液体培養を停止しますと,PLBは苗に分化して行きます。
これらの方法の増殖速度は飛躍的で,例えばシンビジウムにおいては,1個の茎頂組
織から1カ月で2〜4倍,1年で約4000倍から1700万倍に増殖出来ることを示していま
す。これによって苗の値段は,殆ど生産コストだけによって決まるようになります。
〈苗生産と販売〉
微細繁殖法による苗の生産は,1970年代前半まではフランス,アメリカなど主に海外
において行われていましたが,その後はわが国においても出来るようになり,洋ラン鉢
物の生産が盛んに行われるようになりました。
現在の苗の生産と販売は,苗販売業者が独自に育種・選抜して品種を開発し,増殖さ
せた苗を,生産者が購入し,それを更に生産する場合(シンビジウム,コチョウラン,
ファレノプシス系デンドロビウム)や,逆に生産者が育種・選抜した品種の増殖を苗販
売業者に委託し,自家供給用の苗とする場合(コチョウラン),茎伏クキブせによる苗の
自家供給による場合(ノビレ系デンドロビウム)などがあります。
栽培から出荷まで,同一の生産者が行うのが普通で,シンビジウム,ノビレ系デンド
ロビウム,ミルトニアなどは,現在においてもこの方式が主流です。しかし最近におい
ては,他の製造業の場合と同様に,コスト削減のためにタイ,台湾,中国など海外での
生産も盛んで,ファレノプシス系デンドロビウム,バンダ,コチョウランなどにおいて
は,海外において苗から株まで養成し,国内においては開花処理を行うだけと云う国際
的なリレー栽培も行われています。
苗の流通形態としては,培養容器に苗が入った状態で販売される場合(コチョウラン,
オンシジウム,ファレノプシス系デンドロビウム,ミルトニア,カトレア),フラスコ
から出して生育を再開した苗による場合(シンビジウム,コチョウラン),更に直ぐ開
花する株を購入する場合(ファレノプシス系デンドロビウム,コチョウラン,バンダ,
オンシジウム)などがあります。
〈バイオテクノロジーの限界〉
微細繁殖法は,かつてはどのような種でも簡単に増殖出来る万能の技術のように思わ
れ,もてはやされた時代もありました。遺伝子工学が急速に発展した現在においては,
最早微細繁殖法は「オールド・バイオテクノロジー」とも呼ばれ,次第に過去のものと
なりつつあります。しかし依然として増殖の出来ないものも多い。例えばアツモリソウ
属などにおいては,微細繁殖はおろか無菌播種も困難です。アツモリソウなど絶滅に瀕
した種の増殖の手段として試されてはいますが,未だ期待に応えるだけの成果は得られ
ていません。
培養によって変異が発生することも,微細繁殖法にとって深刻な問題となっています。
同一の形質を持った同じ植物をコピーするのが微細繁殖法の目的ですが,それでも培養
中に変異が発生してしまうことがあります。その発生の機構もかなり明らかになっては
いますが,残念ながら確実な防止法はありません。変異しない場合の方が多いことから,
必ず何らかの変異防止法がある筈ですが,花が咲いてみたら奇形があったと云うような,
生産の最終段階でしか発現しないような変異は実に厄介な問題です。
また微細繁殖法の普及は,原則として均一な形質の個体の栽培を可能にし,栽培管理
の効果をより有効なものとしましたが,逆に育種技術の進歩を遅らせる結果をもたらし
ました。現在のラン科植物の育種は,交配してから開花するまで数年を要し,しかも温
室において栽培しなければならず,品種改良は報いの少ない大変な仕事で,高いコスト
がかかります。
こうした現象から,遺伝子工学に対して期待が集まっています。植物をその目的に沿
って作り変えようとする遺伝子工学の手法は,一部の作物においては実用的な段階に達
しています。ラン科植物における遺伝子工学的研究も一部では行われていますが,未だ
実用品種が創り出される段階には至っていません。その理由としては,ランが遺伝子工
学的研究の対象としては決して有利な作物ではないこと,市場規模も限られたものであ
り,研究投資もあまりなされていないことなどが挙げられましょう。しかし他の植物で
実用化出来た技術が,ランにおいては出来ないと云うことは考えられず,今後の研究に
期待したいものです。
[次へ進む] [バック]