16 植物の世界「洋ラン栽培の"産業革命"」
 
          植物の世界「洋ラン栽培の"産業革命"」
 
                      参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
 
 1鉢が数万円を超え,高級鉢植えの代名詞であったコチョウランやパフィオペディル
ムなどの洋ランは,今日においては一般の家庭や飲食店などにおいても広く見られるよ
うになりました。こうした現象を引き起こした最も大きな原因は,洋ラン生産の著しい
増加にほかなりません。
 洋ラン生産が増加したのは,無菌培養と云う技術によって大量の苗の供給が出来るよ
うになったためです。この無菌培養には,以下に紹介する無菌播種ハシュ法と微細繁殖法と
云う二つの技術があり,これらは大きな役割を果たして来ました。
 
〈共生菌なしで培養可能〉
 一般的な植物の種子は,子葉の展開が完了するまでは光合成に行えませんが,水以外
の養分が外部から供給されなくても正常に発育します。これは,葉や根を生長させるの
に十分な養分が,胚乳などの形で種子の中に貯蔵されているためです。
 しかしラン科植物の場合は,種子が極めて小さく,1個の果実に胚乳のない種子を多
数形成します。種子には貯蔵養分が殆どありませんので,種子だけでは発芽出来ず,自
然状態においてはカビの一種であるリゾクトニア菌と共生し,この共生菌から養分の供
給を受けることによって,発芽し,生育します。こうした性質から,ラン科植物は,他
の植物のように土に普通に種子を播いて繁殖させることは出来ません。
 しかし,親株や他の種類のランの株元に種子を播き,其処に居る共生菌を利用します
と,発芽させることは可能です。かつてはこのような方法でラン科植物の繁殖が行われ
ましたが,発芽率があまりよくないため,産業として発達することはありませんでした。
 1922年,米国の植物生理学者ナドソン(1884〜1958)は,各種の栄養素を人工的に与
えてやりますと,共生菌がなくてもランの種子は発芽することを発見しました。これに
よって,熱帯に分布する種やその交配種の多くが,無菌状態で多量に種子繁殖出来るよ
うになりました。この種子繁殖法は無菌播種法と呼ばれます。
 この無菌播種法の成功と共に,種間に留まらず属間交雑も可能なラン科植物の特性も
あって,園芸的に優れた品種が多数作られ,ラン科植物栽培の産業化が始まりました。
 
 それでは,無菌播種法について,詳しくみてみましょう。
 前述のとおり,ラン科植物の種子は極めて小さく,子葉と幼根の未分化な卵形の胚ハイ
と,それを包む種皮シュヒだけからなり,胚乳など発芽に必要な養分を持っていません。こ
うした微細な種子が,1個の果実の中に,種によっては数千個から数百万個も含まれて
います。これらの種子は,自然条件下においては共生菌から,人工的には無菌培地から
養分の供給を受け,従属栄養的に発芽を開始します。
 発芽した胚は球状に肥大し,種皮を突き破って外部に飛び出します。この胚はプロト
コルム(原塊体ゲンカイタイ)と呼ばれます。プロトコルムは,まず分裂組織を形成し,その
部分がやがて茎頂となり,葉の分化が起こります。その後に根が分化します。普通の植
物においてはこの段階までは種子の中において完了していますが,ラン科植物において
は発芽した後に完了するのです。
 
 無菌播種を行う培地には,普通の独立栄養の場合と同じように,水や無機塩などの必
須元素類が含まれていますが,その他にも必ず含まれなければならないのがエネルギー
源となる炭水化物です。これにはシュークロースがよく用いられますが,トレハロース,
マンニトール,ソルビトールなどその他の糖類も利用可能です。このほかにも生育を速
めるために,ビタミン類,アミノ酸類,果汁など各種の天然有機物も加えられることが
多いが,必ずしも必須成分ではありません。これらが含まれた寒天培地は,栄養分が豊
富なので,カビなどの微生物が繁殖しやすく,注意を要します。
 
〈茎頂組織の培養法〉
 ラン科植物は無菌播種法の発見によって,他の植物のように種子によって多数の個体
を短期間に増殖出来るようになりました。しかし種子による繁殖の場合,枝変わりの品
種や交配種では,新しい個体における性質の変異などの問題がありました。
 チューリップなどに見られる球根繁殖や,樹木などに見られる挿し木などによる栄養
繁殖においては,こうした問題は起こりにくい。しかしラン科植物の場合はこうした方
法では繁殖出来ず,性質の固定化が不安定なため,優れた新品種が育種されても,その
値段は未だ極めて高価なものでした。
 例えばコチョウランなど仮軸カジク分枝ブンシではなく単軸分枝のものでは,極端な場合
は一生1株のままであり,幾ら素晴らしい個体でも,それを増やすことは出来ませんで
した。シンビジウムなど仮軸分枝のものは,株分けによって栄養繁殖させることは可能
ですが,年に2倍程度の増殖率しかなく,生産・販売を前提とした繁殖法としては極め
て不十分なものでした。そこで注目されたのが,茎頂組織の培養法でした。
 
 この方法は,ウイルスに感染した植物からウイルスのない植物(ウイルス・フリー)を
得る研究の過程において発見されました。植物は一旦ウイルスに感染しますと,動物の
ように自然に回復することはありません。栄養繁殖によって増殖された植物は,どのよ
うに予防しても,ウイルスに感染してしまう確率が高い。
 例えばシンビジウムは株分けによって増殖されていましたが,その優良個体の多くは
ウイルスに感染していました。現在の優良個体の殆どがその血を受け継いでいる[アレ
キサンデリー]の「ウエストンバート」と云う個体も,存在する全ての株がウイルスに
感染しており,深刻な問題となっていました。
 
 1960年,フランスの植物病理学者モレルは,この個体のウイルスを持たない株を得る
ため,茎頂組織の培養を試みました。すると茎頂はプロトコルム状の球体を形成し,増
殖することが分かりました。これによってウイルスを持たない株を得ることに成功しま
した。
 更に,茎頂組織を培養したシンビジウムが培養中に数倍に増殖すると云う現象が確認
され,優良個体の増殖法として注目されました。1963年,米国の園芸学者ウィンバーは,
この茎頂組織培養法を増殖法として研究し,シンビジウムを液体培地において振盪シントウ
培養することによって,更に能率的に増殖出来ることを明らかにしました。翌年,モレ
ルは他のラン科植物においても同様な現象が見られることを発見し,茎頂組織による培
養法はラン科植物の増殖法として大きく発展することになりました。
 こうした技術は,ラン科植物において一早く実用化されました。その理由としては,
この茎頂組織培養法が,それまで行われて来た無菌播種法と技術的に共通性が高かった
ことがまず挙げられます。またラン科植物は元々1株の単価が高かったため,先進的な
技術を利用して苗代が高くなっても需要があったことも幸いしました。1960年代の後半
には,わが国においても他の植物に先駆けて,ラン科植物の茎頂組織培養による増殖の
研究が始まりました。
 
 この方法は,初期には茎頂からの増殖が主であったため,茎頂組織培養法,成長点培
養法,或いは茎頂分裂組織を意味する「メリステム」と,同じ遺伝子型を持つ個体を意
味する「クローン」と云う二つの用語を組み合わせた「メリクローン法」などと呼ばれ
ていました。しかし現在においては,茎頂以外の組織からも増殖が行われることから「
微細繁殖法(ミクロプロパケーション)」と呼ばれるようになり,ほぼ定着しています。
 この微細繁殖法によって,それまで希少価値を持っていたラン科植物の様々な品種や
個体が,ほぼ無限に近い増殖率で生産かることが出来るようになり,1株当たりの価格
は大幅に下落することになりました。こうして洋ラン栽培は,極少数のマニアのものか
ら,広く一般家庭などに広まって行きました。
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