13a 植物の世界「地球温暖化と日本の森林帯」
 
〈南限地域のブナ林の衰退と遺存〉
 温暖化によって九州,四国のブナ林がどのような経過を辿るのかは興味深い。個々の
種によって,温暖化の影響を最初に受けるのは,分布の南限に生育している個体群です。
現在,九州,四国のブナは,産地により異なりますが,標高1000〜1700mに生育していま
す。気候の温暖化に伴いブナ帯が上昇する以上に高い標高を持つ山岳においては,ブナ
帯は上方に移動するだけで保全されますが,山岳の標高が低く,ブナの適性生育域の下
限以下の場合には,ブナは上方に押し出されて消滅してしまいます。21世紀末に予想さ
れる平均気温3℃の上昇においては,九州の英彦ヒコ山(標高1200m)や阿蘇の菊池渓谷の
ブナ林は衰退して行くでしょう。
 その他,内陸部の標高1700m程度の山岳地帯においては,照葉樹林が標高の高い処まで
展開して来るため,ブナ林の成立は山頂部に限定されて来ます。山岳の山頂部は,特殊
気候が支配し,相対的に観て寒冷な植物が生育出来る環境が醸成されています。こうし
た環境の下においてブナは遺存します。これは南アルプスなどの南限地帯に生育するハ
イマツが,後氷期の温暖期に常識的には滅亡してしまうような山岳の山頂部において遺
存出来たのと同様の理由です。また,ブナは石灰質の土壌を特に好みますので,石灰岩
地においては特に優勢となります。このことから,温暖化の程度にもよりますが,四国
や九州の山岳の山頂部や石灰岩地は,ブナのフュージア(遺存種の溜タまり場)となるこ
とが予想されます。
 なお,6000年前にはブナ林帯は現在よりも300〜400m程高かったため,南限地帯のブナ
は温暖な気候を経験していることから,200m程度の森林帯の上昇では絶滅することはあ
りません。こうしたことから,温暖化の中において九州地方や四国山地の石灰岩地に生
育するブナは,おそらく21世紀末まで生存が可能で,石灰岩地遺存植物群となります。
 
 日本産のブナの中において,静岡県の天城アマギ山のブナは,殻斗カクトの形質が他のどの
地域のブナとも異なっています。これはフォッサマグナ地域において,比較的新しい時
代に獲得した形質でしょう。気温温暖化の中において,天城山のブナ林は上方に押し出
されてしまうことが予想されることから,今後,監視して行く必要があります。
 
〈北限のブナの種特性〉
 ブナが北限の北海道黒松内クロマツナイ低地帯の歌才ウタサイ地域に達したのは,いわゆる小氷
期が訪れた,今から約680年前です。北限地域のブナの著しい特徴は,生長が旺盛とな
り,かつ寿命が短くなることです。本州中部地方のブナの寿命は最高450年程度ですが,
北限のツバメの沢においては,ほぼ樹齢200年,幹の直径80〜90pになりますと枯死して
行き,北限に近い大平山においては,樹齢200年で幹の直径が1mに達する個体がありま
す。
 温暖化に伴い温度的最適域を北方にシフトさせた植物は,光条件に強い影響を受ける
ことになります。特に高緯度地域に分布の中心を持つ温帯・北方系樹種においては,日
長ニッチョウは生育期間・冬芽形成・開花時期など形態形成の主な決定要因となっており,温
度と日長の変化は,種が適応するのに重要な意味を持っています。
 
 人工気象室において,ブナの光や温度に対する生長反応を観ますと,ブナの適温域に
おいての限界日長は12〜13時間で,日長が長くなるにつれて伸長生長が増大します。ま
た,25℃で17時間以上の日長になりますと,産地に関係なく生長が持続します。自然界
において17時間の日長時間は,薄暮時間を40分加味しますと,北緯44度30分における夏
至の日長に相当します。もし温暖化によって気温が上昇しますと,夏至前後には北海道
北部において,ブナは連続生長する可能性があります。これらのことから,温暖化に伴
って,ブナの最適生育域が北海道の中・北部へシフトしますと,それらの地域において
は,確実にブナの伸長生長が高まります。このことは,北海道富良野フラノの東京大学演習
林において行った日本各地産の植栽実験においても確かめられました。
 
 ブナ北限地帯において,ブナの北進の様子を観ますと,傾斜度30〜40度(ときに60度
)の崩壊地に最初に侵入しています。この理由は,貯食のためカケスやホシガラスが堅
果ケンカの埋め込みを行い,更にブナの稚樹期における共生菌キョウセイキンが関わっているもの
と考えられます。稚樹の共生菌であるシノコッカム・グラニフォルメ菌は,土地が撹乱さ
れた状態でブナと共生出来ます。また,埼玉県秩父地方の冷温帯ミズナラ二次林におい
ては,林床にブナが更新しており,ブナ林に遷移して行くのに対し,札幌市郊外にある
ブナ人工林の林床においては,ブナよりもミズナラの芽生えが圧倒的に多く,将来ミズ
ナラ林に変わることが予測されます。
 このように北方のブナは生長が早く,寿命は短く,裸地に更新し,本州におけるブナ
のイメージと異なった先駆樹種としての姿となります。緯度の違いによりブナとミズナ
ラの特性が変わった結果,森林の維持機構も大きく変わったのです。
 
〈北方針葉樹林の衰退〉
 氷期から後氷期にかけて,森林帯は垂直分布にして約1400m上昇しています。この時代
の北海道の森林は,約1000年の間にエゾマツからカバノキ林に変わり,更にミズナラ林
へと移り変わっています。
 温暖化に伴う北海道の針葉樹林の消長は,一つには日本海流の流量が増大して豪雪が
もたらされるか否かにあります。エゾマツの急速な衰退は積雪量に関係します。寡雪の
状態においての温暖化は,虫害が発生して大量の被害をもたらしても,更新機構が健全
であれば中央高地などの亜高山帯のエゾマツ林は再生されましょう。これに対し,温暖
化と豪雪化が同時に進行しますと,暗色雪腐ユキグサレ病菌やファシジューム雪腐病菌によ
る菌害が発生し,エゾマツの更新機構は破綻ハタンし,北海道の亜高山帯のエゾマツは衰退
しましょう。後退した北方針葉樹林の跡地は,カンバ類,ミズナラ,チシマザサが取っ
て代わるものと予測され,高地はダケカンバ林,亜高山帯はミズナラ,トドマツなどの
針広混交林となります。
 
〈ブナ北進の条件〉
 北限地域にあって,ブナと競争関係にある林冠層構成種は,水平環境においてはトド
マツ,ミズナラなど,垂直環境においてはダケカンバです。これらの林冠層構成種の森
林からブナ林に推移するのには,ブナにとって好ましく,競争種にとって不利な環境と
なり,また,ブナの芽生えが定着出来る条件が整わなければなりません。こうした環境
とは,暴風雨を伴う多雨・多雪時代の到来でしょう。
 亜高山帯針葉樹林やナラ林においては根倒れ,山崩れが頻発して,多くの撹乱地が生
まれます。この土壌が露出した撹乱跡地においては,カケス類,ホシガラス,小型哺乳
ホニュウ類がブナの堅果を土中に埋め込む条件が整います。ブナはホシガラス,ミヤマカケ
スなどによって北方山地の裸地へと不連続的に散布されます。北海道中央部の標高600m
程度までは,現在,ブナの生育出来る環境です。もし温暖化によって,標高1000m程度ま
でが冷温帯域になりますと,確実にブナの適応領域は拡大します。
 現在の森林環境と後氷期のそれとで著しく異なる点は,チシマザサが林床に繁茂し,
ブナの更新機構が旨く機能していないことです。後氷期の機構変動は,適潤気候から湿
潤気候への気候変動であったため,多くの林床においては豪雪湿潤気候を最適生育地と
するチシマザサが欠落していたものと推定され,ブナが更新出来る条件は整っていまし
た。しかし,現時点の温暖化は湿潤気候下の条件です。チシマザサが繁茂して,ブナの
北進は妨げられています。
 
 以上記述しました様々な理由から,ブナが北進出来る条件は,温暖化に伴う気候変動
がどのような形において表れるかにあると云ってよい。北海道のニセコ,羊蹄ヨウテイ山,
有珠ウスの山地は,新規火山によって撹乱が起こりやすい。もし,温暖化と同時並行して
暴風雨などが発生し森林の撹乱を伴うとしますと,ブナの種子が定着出来る条件が整い,
ブナの分布域は北方に拡大されましょう。
 温暖化は人類の文明が招いた結果として発生しています。私共は予測される森林の急
速な変貌を冷静に見つめなければなりません。温暖化と森林環境に関する因果関係を予
測し,自然環境にとって好ましい対策を講じて,美しい自然を次の世代に遺し伝えて行
く責務があります。

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