05 植物の世界「日本の森の変遷 − 6万年」
植物の世界「日本の森の変遷 − 6万年」
参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
地球表層部の自然環境の変化には,数年から十年の単位で起こっているものと,百年,
千年,万年或いはそれ以上の単位で起こっているものとがあります。後者を人間の一生
の間に認知することはなかなか容易ではありません。そこで人は,百年以上の単位で起
こる変化を遡って理解しようとしますが,現在からのアナロジー(類推)においては理
解出来ないことがあまりに多い。歴史的な事実は今に向かって,そして将来に向かって
積み上げられて行きます。ですから,地球史の一側面である植生史も,変化の方向に沿
って見てみる必要があります。そうしますと,現在の植物群や植生は今も変化しつつあ
る実体であると気付くに違いありません。
〈植物遺体から森林を復元する〉
わが国には南に照葉樹林,北にブナ林やエゾマツ林など,気候的極相林キョクソウリンと呼ば
れる森林植生が広大な面積を占有しています。そのため,こうした林は森林植生のスタ
ー格の扱いを受けています。一度,森林が辿って来た道程ミチノリを歴史的に紐解いて観ま
すと,クリやコナラ,エノキやムクノキ,それにチョウセンゴヨウやヒメバラモミと云
った植物群が広い面積を占め,今日とは大きく異なった植生が成立していたことが分か
ります。そればかりか,今では開き尽くされた平野一帯をスギやハンノキの大森林が覆
っていた時代さえあります。わが国の植生史に観られる変化とは,植生帯そのものの垂
直移動においても南北移動ではありません。時代によって森の主役は入れ替わり,正に
下克上のようなことが繰り返されて来たのです。
ここでは,最終氷期以降の植生史を見てみましょう。過去50万年間,同じような周期
で氷期と間氷期カンピョウキが繰り返されて来ましたので,最も新しい氷期と現間氷期(後氷
期)を通して,わが国の植生の変化様式を浮き彫りにすることが出来るでしょう。
植物群や植生の歴史的な変化と,環境移動や人類活動との関わり方の歴史を,私共は
植生史と呼んでいます。植生史を紐解くにはまず,植物化石とそれを含む地層が造られ
た時代を年代測定や地層の対比によって明らかにしなければなりません。また,地層が
どのような地理空間の中において堆積したのかについても調査の手を広げ,化石がどの
ような場所にどのようにして集積し,残り得たのか,その過程を綿密に調べ上げなけれ
ばなりません。
植物化石と云っても様々なです。大きなものには木材や,当時の生々しい生育の状態
が保存された埋没林マイボツリンがあります。小さなものには種子,果実,葉と云った植物の
いろいろな器官から,花粉,胞子,主にイネ科の葉の細胞内に出来るガラスのような植
物珪酸体ケイサンタイと云った顕微鏡或いは細胞レベルのものまであります。こうした化石は
何時もバラバラに産出しますので,生育していた当時の状態を復元するには,現地性の高
い埋没林や泥炭・腐植土壌を出来るだけ調査の対象にするのが普通です。幸いにもわが
国には,その手の材料は豊富です。突発的な洪水や火山噴火が多く,生育したままの状
態が残りやすいのです。火山噴火の産物である火山灰(「テフラ」と呼ぶことが多い)
が地層に多数挟まれていますので,地層の編年がしやすく,火山灰に覆われた同時代の
植物群や植生の空間分布を復元することも出来ます。そのため,わが国の植生史には,
ヨーロッパや北アメリカにはない精緻セイチで生々しい情報が多数盛り込まれています。
〈今の稀少種も氷期には主役〉
およそ6万年前から1万年前までの5万年間,日本列島は乾燥気候に見舞われていま
した。5万年前と2万年前は気候が著しく寒冷になり,シベリア,サハリン,北海道は
地続きとなって日本列島は大陸から垂れ下がった半島のようでした。現在により近い2
万年前には,海面は今よりも約100m下がっており,「北の陸橋」が矢張り開かれていま
した。津軽海峡は氷によって繋がる「津軽氷橋ヒョウキョウ」,瀬戸内海は大湿地の広がる「
瀬戸内盆地」でした。更に日本海には暖流は流れ込まず,黒潮も遥か沖合をかすめるだ
けでしたので,植生は今とは大きく異なっていた筈です。
この15年位の間に,最終氷期の最盛期とされる2万年前頃の植生が急速に分かって来
ました。2万4000年前の姶良アイラカルデラ(現在の鹿児島湾北部)の巨大噴火が日本のほ
ぼ全域に大量の火山灰を降らせたことが明らかとなり,これを鍵に年代が決めやすくな
ったからです。
当時の森林を構成する主要な植物の分布をトレースしてみますと,氷期にどのような
植生帯が成立していたかがよく分かります。現在と比べて特異だと思われますのは,針
葉樹の優占がわが国のほぼ全域に及んでいたことです。今では北方四島・サハリン以北
に分布するグイマツや北海道に普通なエゾマツ,アカエゾマツが東北地方中部にまで,
中部山岳地帯以北のいわゆる高山帯をなすハイマツが中部地方の盆地から東北地方以北
の平野にまで,また,中部山岳地帯に稀に生えるカラマツ,チョウセンゴヨウやヒメバ
ラモミ,ヤツガタケソウなどトウヒ属ハイマツ節が東北地方北部から九州に至るまで,
各々広大な面積を占めていました。関東地方以西においてはゴヨウマツや落葉広葉樹の
コナラも主要素となり,房総半島,東海地方,四国と九州南部にはスギ,コウヤマキ,
それにクリなどの落葉広葉樹が分布していました。今日のスターたち,即ちブナやカシ
の仲間は目立つことがなく,南端部若しくは局所的なレフュージア(逃避地)において
生き延びました。
このように当時のわが国は著しく針葉樹林化を遂げていたと云えます。しかも,針葉
樹の多くが,今ではあまり目立たないか,稀な種でした。どうしてこのような植生が成
立していたのでしょうか。それは矢張り,大陸から垂れ下がった半島に象徴されるよう
な気候と風土によっていたと解されます。
寒気団の南限を示す北極前線は当時,現在位置する北海道中央部より遥か南の,東京
と大阪を結ぶ線の前後まで張り出し,梅雨や秋霖シュウリンなど雨の多い季節がはっきりしま
せんでした。台風は太平洋岸をかすめる程度だったかも知れません。湿潤な気候を好む
ブナやカシの仲間,それに針葉樹の中でもモミ属は,集団の縮小や南下を余儀なくされ
ました。その代わり,乾燥を好み,温帯から亜寒帯まで温度に対する広汎コウハンな適応範
囲を持つ針葉樹種の独壇場となったのです。気候が寒冷化したからと云って,いま冷温
帯落葉広葉樹とか亜寒帯針葉樹林とか呼ばれているものがそのまま分布を広げた訳では
なく,主要樹種の構成が現在とは可成り異なっていました。従って景観の趣も異なり,
しかも南北に,或いは垂直方向に大きな幅のある森林植生帯が成立していたと考えられ
ます。
森林植生がこのようであったので,草本類にも大きな違いがあったでしょうと容易に
想像されます。事実,湿った処においてはカヤツリグサ科の植物が圧倒し,ミズバショ
ウ,ミツガシワ,ナガボノシロワレモコウ,ミヤマハナシノブ,イブキトラノオの仲間
などが中部地方以西においても普通に見られました。また,寒帯の植物であるシダ類の
コケスギランも中部地方の盆地まで広がっていたのです。夏にもなりますと,湿原や沼
沢地にこのような湿原植物の花が咲き誇り,あちこちにお花畑が見られたことでしょう。
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