04 植物の世界「日本のフロラ史」
 
            植物の世界「日本のフロラ史」
 
                      参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
 
 日本列島には南北に実に多様な植生,フロラ(植物相)が知られています。其処にお
いては,亜寒帯から亜熱帯に亘る気候に適応した植生が見られ,4500種以上の種子植物
やシダ植物が生活していると云われています。こうした植物は何時,何処において生ま
れ,日本列島においてどのように変化(分布や進化)して現在に至っているのでしょう
か。幸いなことに,わが国においては暁新世ギョウシンセイを除く,新生代シンセイダイの各時代の
植物(化石)群が知られています。これらの植物群が物語るフロラの変遷史を,わが国
を取り巻く広い地域の資料と共に見てみましょう。
 
〈かつては北極に森林〉
 わが国のフロラ史を考える上で,わが国から遠く離れた北極周辺において見付かった
植物化石群が,実は重要な意味を持っています。現在は氷雪に閉ざされたシベリア,ス
ピッツベルゲン諸島,グリーンランド,北アメリカ北部の大地がかつては緑滴る森林に
覆われていたことが,19世紀の北極探検によって明らかにされました。スイス人のヘー
ルによる著書『北極地中新世チュウシンセイ植物群』は,当時の代表的な研究です。ヘールの云
う中新世とは,実際には第三紀のいろいろな時代を指していました。
 後に植物分類の大家となったエングラーは,こうした化石の記録を採り入れ,1879年
に北半球の植物区系やフロラの歴史的発達を体系的に纏めています。北半球の温帯フロ
ラ成立の仮説として,第三紀の温暖な時代(暁新生〜始新世シシンセイ)に北極周辺において
分化した落葉広葉樹を中心とした植物群(北極地第三紀植物群)が,その後の気候寒冷
化に従って南下し,現在に至ったと云うシナリオは,エングラー以来有力でした。この
説に拠りますと,例えば,わが国と北アメリカ東部の温帯林のフロラが互いに似ている
と云う事実を,北極地第三紀植物群と云う共通な祖先を考えることで,一応の説明が出
来ます。
 
 しかし,最近の植物化石群の研究においてはそうした大きな傾向があることは認める
ものの,フロラの発達史は,それぞれの地域あるいは時代によって,従来考えられて来
た以上に複雑であったことが明らかにされています。例えば,現在の温帯フロラの構成
種には,ブナ属のように,より南の地域にあった亜熱帯的森林に生育していましたが,
その後の気候変動の中において,温帯環境に適応して分布した系統群も多数含まれてい
ることが分かって来ています。
 この時代の北極周辺のフロラは,スギ科の落葉針葉樹(スイショウ属,メタセコイア
属,ヌマスギ属)や多くの落葉広葉樹(ノグルミ,ハンノキ,ハシバミ,コナラ,ニレ,
カツラ,スズカケノキ,カエデの各属など)の森林が広がっていました。
 イチョウも当時の北極周辺においては普通の植物でした。カツラ属やヤマグルマ属は
現在においてはわが国や中国の特産属ですが,それらの祖先型は中生代チュウセイダイに出現
し,古第三紀の温暖期には北半球の北部に広く分布していました。現生種はその生き残
りです。
 
〈亜熱帯林のような植生〉
 わが国においても始新世中期から後期の植物群は,北海道や西日本の炭田地域から多
数知られています。山口県宇部市の石炭層中の植物群には,多種多様なブナ科やクスノ
キ科(共に常緑樹種が多い),マメ科植物やミミモチシダ,シロヤマゼンマイ,ヤマモ
モ,ツバキ,アカテツ,カキバチシャノキの各属などの植物化石が発見されています。
現在の八重山列島や台湾の亜熱帯林に比較出来るような常緑広葉樹林の内容を,宇部市
の始新世植物群は示しているのです。同じような内容の植物群は,長崎県の高島タカシマな
どからも知られています。
 宇部市や高島の植物化石群と同時代の植物群は,北海道の石炭層からも多数知られて
いますが,西日本のものとは明らかに異なります。北海道の植物群にも,ヤシ科の植物
のほかに,バショウやハス,コモチシダの各属,常緑のカシ類,ツヅラフジ科,トウダ
イグサ科,クロタキカズラ科,アオギリ科などの温暖系植物が含まれています。ヤシ科
やバショウ属化石の存在は,亜熱帯的な古気候を連想しますが,一緒に出て来る化石は
常緑広葉樹の割合が低く,明らかに落葉広葉樹が主体となります。ハコヤナギ,ハンノ
キ,ニレ,カツラの各属や,落葉のスギ科の植物(メタセコイア属,スイショウ属など
),イチョウの化石がよく見付かっています。北海道の始新世植物群は,西日本の植物
群に比べて温帯要素の植物をより多く含む特徴が見られ,温暖ですが落葉広葉樹が主体
と云う奇妙なフロラ組成を示しています。
 
 同時代のヨーロッパや北アメリカの植物群と比較して見ても,北海道の始新世植物群
は常緑広葉樹林が異様と思える程に少ない。この理由ははっきりとは分かっていません
が,ロシアのコマーロフ研究所のブダンチェフが,最近次のような興味深い指摘をして
います。即ち,白亜紀後期以来,ユーラシア大陸東北部は落葉広葉樹が優勢で,北アメ
リカ東部やヨーロッパとは別の植物区系にあり,その特徴は古第三紀まで引き継がれた
と云うことです。北海道の始新世植物群に見られる奇妙なフロラ組成は,ユーラシア大
陸東北部の同一のものであったと思われます。何故,ユーラシア大陸東北部のフロラが
北アメリカ東部やヨーロッパと可成り異なっているのかは,現在においてもはっきりし
ていません。しかし,これから述べる海峡の存在は,これと密接な関係があるのではな
いかと推定されています。
 
〈始新世末の大変化〉
 白亜紀後期から古第三紀始新世には,ユーラシア大陸を東西に二分し,当時のテチス
海と北極海を繋ぐツルガイ海峡と云う浅海が存在しました。名前はカザフスタンのアラ
ル海の北,約400qのところにあるツルガイと云う町の名前に因んでいます。ツルガイ海
峡は,陸上の動植物の移動には障壁として機能しました。ユーラシア大陸東北部とヨー
ロッパや北アメリカ東部のフロラが違う大きな理由の一つが,このツルガイ海峡の存在
であったのではないでしょうか。
 ツルガイ海峡が消滅する始新世末期から漸新世ゼンシンセイの時代には,大きな気候変動が
ありました。南極大陸がこの頃,オーストラリアや南アメリカから分離・形成され,南
極はより寒冷化し,氷床も発達するようになります。そして南極周辺において冷やされ
た"重い"水が深層海流によって運ばれた結果,地球規模の寒冷化が進みました。大気の
循環もこの頃から活発になったようです。更に,漸新世中期をピークとする海水準の低
下(陸地の増大)もあって,始新世の温室的な世界は,現在の気候環境に近い世界へと
変化しました。
 こうした気候変化に伴って,落葉広葉樹林が中緯度地域に広く発達するようになりま
す。同時にフロラの内容も一新され,現代的な種類が著しく多くなります。始新世から
漸新世にかけての時代は,新生代を通じて最大のフロラ変革期と云うことが出来ます。
わが国のフロラ史においても例外ではありません。
 
 ツルガイの周辺には,始新世の温暖で幾分乾燥したフロラから漸新世の温帯的な湿潤
フロラに移り変わったことを示す植物群(ツルガイ植物群)が,多数知られています。
 特に漸新世植物化石群は興味深い。化石種のファグス・アンティポッフィを始めとし
て,ヤナギ科,クルミ科,カバノキ科,ブナ科,カツラ科,カエデ科など,わが国の中
新世植物化石群に近縁な組成をこの植物化石群は示しているからです。現在のわが国の
温帯フロラの一つの原型を,この地域の漸新世植物群に見ることが出来るのです。
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