44a 植物の世界「国によって異なる花の好み」
 
○小輪を好む
 ツバキは大輪の品種になりますと,直径15pほどになる豪華な花があります。江戸椿
エドツバキの中にも,[明石潟アカシガタ]や[眉間尺ミケンジャク]のような大輪品種もあります
が,わが国においては一般にはあまり高く評価されません。中国原産のトウツバキは特
に大輪の花が咲きますので,欧米においては非常に喜ばれ,最近ではトウツバキの血を
引いた種間雑種が続々と育成されています。しかし,日本人にはなかなか馴染めません。
この原因も,日本人が野生の椿の花の大きさを既成概念として持っているため,それか
ら懸け離れた大きい花は異様に感じるたるかも知れません。
 日本人は,李御寧の『「縮み」志向の日本人』(1984年)の中においても指摘されて
いますように,小さいものを好むようで,日本人の発明や開発は小型化して成功したも
のが多い。トランジスタラジオ,折り畳み式傘や,また,団扇ウチワを改良して扇子センスに
したのも日本人,等々沢山の例が挙げられます。盆栽や造園の縮景も,この縮みの志向
の例です。ツバキにおいても,日本人は[侘助ワビスケ]のような小輪の花を好み,その可
憐さに魅力を感じるようです。
 
○満開より半開の花
 日本人は満開の花より,蕾ツボミや半開の花を愛する特別な審美眼を持っているようで
す。それに気付いたのは,もう30年程前,初めてオランダのアールスメール花市場を見
学したときです。キク,カーネーション,グラジオラス,ユリなど,出荷されている切
り花は全て満開でした。もしわが国において,こんなに咲き進んだ花を出荷しようもの
なら,二束三文に買い叩かれるでしょう。
 筆者は最初,日本人は貧乏性でみみっちいから,半開の花ですと長持ちして得だ,と
考えるのだと思っていました。ところがそれは,損得や経済的問題ではなく,日本人の
特別な審美眼によることに気付きました。この審美眼は,芸術の世界とも共通していま
す。日本人は長編の詩よりも,短い俳句や短歌を愛します。それは,読む人の頭の中に
イメージの世界を残し,余韻ヨインを楽しむことが出来るからです。
 また日本人は,油絵のような極彩色の絵より,色彩の世界を見る人の想像力に委ねた
モノクロームの水墨画に心を惹かれる人も多い。わが国の芸術は余白の芸術だ,と云わ
れますのもそのためです。全部を表現しないので,余白を残す訳です。花の世界におい
ても,目の前に満開に咲き誇る花よりは,今正にほころびんとする花や蕾に,美しく咲
いたときの花の姿を想像して観賞するのです。
 
 [侘助]と云う品種は,昔から茶道の世界においては,信仰に近い程愛着を持たれて
来ました。この花は筒咲きと称して,満開のときを迎えても平らには開かずに半開のま
まで終わってしまいます。ツバキ好きの欧米人は,「こんな貧相な花のどこがいいのか
」となかなか理解してくれません。しかし,わびやさびを大切にする茶道においては,
特に喜ばれています。
 一方,同じツバキでも肥後椿ヒゴツバキは,[侘助]とは逆の立場になっています。この
ツバキは,熊本県において古くから「花連ハナレン」と称する花の愛好家グループが門外不
出によって育てて来た梅芯咲きの品種群です。花形は一重の平咲きで,多数の雄蘂が基
部まで一本一本分離し,ウメの花のように放射状に散開しています。肥後椿は,1960年
頃から約40品種程の苗が市販されるようになりました。
 肥後椿は,一重咲きに関心の少ない米国人にも人気を博しました。しかしわが国にお
いては,思った程には人気が出ませんでした。どうやらそれは,肥後椿の平らに開く花
形が,半開の花を好む日本人には,親しみが持てなかったからでしょう。
 ところで,中国の明ミン代末期に出版された洪応明の語録『菜根譚サイコンタン』には,次の
ような一文があります。「花は半開を看ミ、酒は微酔ビスイに飲む、此の中に大いに佳趣カ
シュあり、若し爛漫ランマン毛(酉偏+毛)綯モウトウに至らば便スナワち悪境を成す」とあります。
 これは,半開の花とほろ酔いの酒を,満開の花と深酒とに対比して,深酒を戒めたも
のですが,中国にも,半開の花を愛でる審美眼があると思われます。
 
○葉や枝も花のうち
 わが国においては幾ら花が美しくとも,葉の形や色艶,枝振りなどがよくないと嫌わ
れます。わが国の生け花においては,枝や葉は花と不可分なものだからです。しかし,
洋風のフラワーデザインにおいては,別々の花と葉を平気で組み合わせて生けます。例
えば,チューリップの葉を全部むしり取って,アジアンタムやカスミソウと組み合わせ
たりします。その方が格好いいのです。昔は,チューリップは花の下の長いのはよくな
いと云われ,第3葉が上の方に付いた品種が好まれました。しかし現在においては,葉
を取って生ける場合が多いので,首の長い方が寧ろ喜ばれます。これも洋風のフラワー
アレンジメントの影響でしょう。
 わが国のツバキには,葉形の変わった金魚椿キンギョツバキや鋸歯椿ノコバツバキ,或いは葉に
斑の入った錦葉椿ニシキバツバキがあり,昔から関心が持たれて来ました。江戸時代末期に出
版された『草木ソウモク錦葉集キンヨウシュウ』(1829年)には,74種の錦葉椿が記載されており,
日本人の凝り性な一面が窺われます。
 
○嗅覚に弱い日本人
 日本語の「香り」とか「匂い」と云う言葉は,嗅覚シュウカクだけでなく,視覚も表現して
いるように思います。
 例えば,本居宣長モトオリノリナガの「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」と云う
歌は,朝日が照ったらヤマザクラが匂って来ると云うのではなく,朝日に照り映えると
云う意味です。「黄葉のにほひは繁し」(『万葉集』)とありますのは,黄葉の照り輝
く様です。また,女性の「まみの薫れる」(『源氏物語』「薄雲」)も,香料を付けて
よい薫りがすると云うのではなく,まみ(目元)の美しい可憐な女性を表現したのです。
 
 更に,香道の方においては,「香を聴く」と云います。こうなりますと,日本語の香
りや匂いは嗅覚だけでなく,視覚も聴覚をも表現する言葉であると云うことが分かりま
す。
 日本語には嗅覚の言葉として「香る,匂う,臭い」などの言葉がありますが,和英辞
典には,「aroma,flavor,perfume,smell,fragrance,odor,scent」など沢山の言葉
が出ていて,それが使い分けられています。語彙ゴイが豊富であると云うことは,それだ
け関心が強く,発達もしている訳です。その意味においても,日本人は嗅覚に弱いと云
わざるを得ません。
 
 花の香りについても,日本人はあまり関心を持たないようですが,欧米人は非常に関
心が強く,敏感です。香りのないツバキが,ヨーロッパにおいて流行するのに一役買っ
たのは,フランスの作家デュマの小説『椿姫』(1848年)です。ヒロインのマルグリッ
ト・ゴーテイエは,月のうち25日は白いツバキ,後の5日は紅アカいツバキの花を持ってパ
リの劇場に現れ,社交界の話題になりました。
 彼女がツバキの花を愛したのは,アレルギー体質で花の香りを嗅ぐと気分が悪くなる
からだと云います。この物語が書かれた19世紀中葉のヨーロッパは,いわゆるジャポニ
ズムが流行し,美術工芸の世界において日本文化が人々の関心を呼んだ時代です。デュ
マは,花の香りを大切にするヨーロッパ人に,どうしたら香りのないツバキがすんなり
受け入れられるか苦心して,このようなストーリーを考えたと思われます。
 「東洋のバラ」と歌われたツバキに香りがないのは,如何にも物足りないことです。
そこで米国においては,交配によって積極的に「香りツバキ」を育成しようと云う研究
が1960年代から始まりました。沖縄県原産の芳香を持ったヒメサザンカを交配親として,
品種改良が行われています。しかし,ヒメサザンカが花径2〜3pの小輪であるため,
その雑種も小輪になり,米国人好みの大輪で,香りも強い理想的な品種は,未だ出来て
いません。

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