29 植物の世界「日本文化の中の桜」
 
            植物の世界「日本文化の中の桜」
 
                      参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
 
 桜は国花であるとか,「大和心ヤマトゴコロ」を象徴するとか,日本人にとって桜は特別な
花であると,今日においても大多数の日本人が自覚しています。どうして「特別」なの
か,どのようにして「特別」になったのでしょうか。本稿においては,桜を日本人或い
はその文化のシンボルとして捉え,象徴人類学的視点から桜を追求することを通じて,
この問題を考えてみましょう。
 
 まず初めに指摘しておきたいことは,桜は木材として利用されはしますが,日本人の
シンボルとして問題にする場合には,桜は象徴的意味或いは観賞の対象としてだけ意味
を持つことです。この点が他の日本人の象徴と異なります。例えば,米や稲は同じく日
本人の象徴として代表的なものですが,そのシンボルとしての力は,一粒一粒の米が個
々の日本人の身体となり,そのメトニム(換喩カンユ)が土台となって,米が日本人全体の
メタファー(隠喩インユ)となるのです。端的に云いますと,米は腹応えのあるシンボルで
す。一方,桜は宗教的・美的感覚に訴え懸けるのです。それにも拘わらず,或いはそれ
だからこそ,桜は日本人と掛け替えのない強い絆キズナによって結ばれていると云えまし
ょう。
 
 日本人のシンボルとしての桜の最も重要な点は,それが漠然と日本人全体を象徴する
のではなく,上は天皇,公家クゲ,武士から農民,町人などの民衆に至るまで,また男も
女も,日本社会の社会集団のそれぞれが桜を自分等の花として楽しみ,人生の意味を考
えて来たことです。この点においては他に比類のないシンボルと云えると思います。本
稿においてはこの点に重点を置き,桜を「窓口」として日本文化,日本人の「情」と「
思考」を考えて行きたい。
 
〈農民と桜〉
 『古事記』『日本書紀』が成立する8世紀から1000年以上も遡る紀元前300年頃に日本
列島に導入された稲作文化の中に,既に桜の宗教的位置付けが観られます。
 折口オリグチ信夫シノブ氏(1887〜1953)は,『花の話』(1928)の中において「花と言ふ
語は、簡単に言ふと、ほ・うらと意の近いもので、前兆・先觸れと言ふ位の意味になる
らしい」と云っています。雪は「米の花の前兆」であり,雪を「稻の花」と呼んで,秋
の稲作を占ったように,古代人は山に生えている桜を,後には庭に植えた「家桜」を眺
めて「稻の實りを占った」。ですから「花が早く散ったら大變である」。こういう解釈
をした折口氏は,古代人の桜に対する態度を「実用的」と称し,奈良時代には桜の花を
賞した歌が無いことを指摘しています。
 
 和歌森ワカモリ太郎氏は,千葉県銚子市付近の花見歌の中に「春は花、秋は稲穂を待ちや
かねたる」とあることを指摘し,折口氏と同じように,花,中でも桜と稲との関係を重
視しています。田においての仕事が忙しくなる時期に丁度桜が盛りになりますので,農
民は桜をただ美しいものとして眺めるだけでなく,「前途を暗示するもの」と観て,「
桜の花そのものに、稲穀の霊さえ観念した」と和歌森氏は解釈します。
 和歌森氏は「サクラ」の語源として,「サ」は「サツキ(五月)」「サナエ(早苗)
」「サオトメ(早乙女)」のように,全て稲田の神霊を指すこと,また「クラ」は古語
で「神霊が依り鎮まる坐ザ」を意味したことと合わせて,「サクラ」とは「稲穀の神霊
の依る花」と云う意味であったと指摘しています。
 勿論農民が日本社会の「民衆」の全てではありませんが,桜が古くから上流社会だけ
のものではなかったと云うことからも,農耕思想の中においての桜の意味付けをしっか
りと認識しておくことは,日本人と桜を考えるときに重要であると思います。
 
〈貴族と桜〉
 さて,古代の日本人と桜の関わりを考えるときに何と云っても重要なのは,わが国の
「ハイ・カルチャー」を築いた天皇家,公家やその周辺の人々によって8世紀に編まれ
た『古事記』『日本書紀』『万葉集』です。
 まず記紀(『古事記』『日本書紀』のこと)ですが,両方共に地名か人名としてしか
桜が出て来ず,桜自体のことは書かれていないと云うのが定説です。ただし,地名や人
名になっていたことは,既にこの時代に桜が可成り意識されていた傍証と見なせますし,
桜が宮廷の遊宴と結び付いていることも,後述するように『日本書紀』巻12の「履中紀
」にはっきり表されています。
 多くの研究者が指摘しているように,『万葉集』に登場する166種類の植物中,最も頻
度高く詠まれているのは,平城京を囲む山野に自生していた萩ハギであり,141首です。
次が中国から渡来し,牡丹ボタンに次いで中国の花としては重要な梅で,118首です。桜は
第8位で44首(一説には42首)しかありません。この40首余りの作者には,有名な山部
赤人ヤマベノアカヒト,柿本人麻呂カキノモトノヒトマロ,大伴家持オオトモノヤカモチなども入っていますが,無
名歌人によるものや作者不詳の優れた歌が多い。
 
 和歌森氏の指摘のように,未だ中国文化の強い影響の下にあった上流の貴族・知識人
の間においては,中国の花である梅が観賞の的でしたが,中流の無名人や地方の人々の
間においては,桜の美しさが彼等の美的感覚を魅了していたに違いありません。これは
非常に重要にポイントで,前述のように桜と稲を結び付ける宗教的位置付けがあったこ
とを考えに入れますと,農民や地方の人々にとって,古代から桜が「聖木」であると共
に,美意識の中において中心を占めていたことになります。
 
 『古今和歌集』(913〜914年頃成立)は,桜と恋いの歌集とも云われ,桜は正しく王
座に着いています。素性ソセイ法師の「みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける
」はあまりにも有名であり,平安時代中期の宮廷生活を描いた『源氏物語』と共に,こ
れらの文学作品を観ますと,平安時代に上流階級の人々にとっても桜が重要になったこ
とは,疑いの余地がありません。そして,これらの作品を通じて,今日の日本人の心に
も,平安京の春に桜の咲き乱れるイメージが恰も自分自身が見たかのように焼き付いて
いるのです。
 
 「花見」と云いますと,今も昔も桜を眺めに行くことですが,これは野生の山桜の「
桜狩り」から始まりました。それが,段々と人間の空間に桜を持ち込むようになり,里
桜・家桜となります。平安時代には貴族が邸宅の庭園に桜を植え,毎春,豪華な花見の
宴を催しました。上流社会の桜宴は,和歌を作る場として「文」の最高に発達した行事
であると共に,政治的色彩が濃厚でした。花宴は王権のシンボル,貴族の富と権力のシ
ンボルでもあったのです。
 ただし,古代の花宴においてはあくまでも「文」の要素が決定的であったことは,豊
臣秀吉公が遥か後世に催した「醍醐ダイゴの花見」(1598年)によって実証されていま
す。足軽の子である秀吉公が天下を取ったことは下克上の時代のシンボルですが,その
秀吉公の生涯最後のスペクタクルが,この大がかりで壮麗な醍醐の花見でした。諸大名
が当時流行の南蛮人の服装をして集まったとか,諸々の要素がありますが,その中にお
いて一番重要視されたのが和歌でした。これは「武」で政治的権力を握った秀吉公も「
文」の克服なくしては真の「王権」を握ることが出来ないと感じたからではないでしょ
うか。
[次へ進んで下さい]