29a 植物の世界「日本文化の中の桜」
 
〈江戸町人と花見〉
 こうしたわが国社会のエリートの花宴と並行して,民衆の間においても花見は重要な,
しかもカーニバル的要素を含んだ春のクライマックスとも云える行事でした。古代から
山桜は各地において楽しまれていましたが,諸地方を巡る吉野の修験者が日本中の聖地
霊場に桜を植えたことも桜の普及に貢献しました。
 しかし,何と云っても桜が庶民の花となり,花見が彼等の重要な行事になるのは江戸
時代です。江戸っ子は,自分等の気性を桜の花に準えて,そのシンボルにしました。散
り際がさっぱりしていること,また何時満開になるか前もって予測出来ないところが,
魅力でした。さあ満開だ,今日こそはチャンスだと仲間の間で決めますと,筵ムシロを抱
え,酒と肴を携えて花の名所にどっと繰り出しました。このときは仮装姿で,落後の「
長屋の花見」そのままの光景でした。
 この江戸っ子の花見は,町人文化の粋を究めた浮世絵などに表され,次第に「伝統化
」して行きます。それと共に,安藤広重ヒロシゲの『名所江戸百景』に描かれた「玉川堤乃
花」とか「上野清水堂不忍池」だけでなく,全国的にも桜の名所が決まって来ました。
どんな桜が何処で何時頃咲くかと云う,今日の花見ガイドや「桜前線」のような情報が
庶民の間に浸透して行きました。つまり,古代以来,庶民の中において育まれて来た花
見が,江戸時代に江戸っ子によって「満開」となり,王朝の花宴に劣らぬ一大文化活動
となったのです。
 
 こうした花見の二つの伝統 − 皇室を含めたわが国社会のエリートの花宴と庶民の花
見 − は江戸時代以降も受け継がれ,第二次世界大戦後は前者の花宴は極限られたもの
になりましたが,庶民の花見は今日まで続いています。その間,桜の移植・栽培が盛ん
に行われたことも一因です。例えば,明治維新頃に江戸染井ソメイの植木屋が,移植・栽培
が容易で生長の早い染井吉野ソメイヨシノと云う品種を各地に普及させました。洪水を防ぐた
めに,川の堤防に桜,または桜と松を交互に植えることも,全国的に普及しました。
 
 以上,簡略にしか紹介出来ませんでしたが,桜は古代からわが国の庶民に親しまれて
来た花であり,それが上流社会にも入り込み,わが国社会の諸々の階層において,それ
ぞれ独自の文化として,長い間育まれて来ました。それ故,桜は日本人の花,日本人に
は特別の花として,今日まで根強く受け継がれて来たと思われるのです。
 
〈人と人,生と死を繋ぐ〉
 日本人は,得てして外国の真似が好きであると云われます。中国原産の梅が古代のエ
リート等に人気があったことは前述しましたが,そのほか,現在ではバラや洋ランなど
も人気が高い。にも拘わらず桜は何時までも,日本人にとっては特別な花として親しま
れて行くと思われます。
 では,どうして日本人には桜がこれ程大切なのでしょうか。その答えはなかなか難し
い。何故なら,桜については時代時代によって異なる種々の意味付けがなされて来たか
らです。
 時代を辿って行きますと,『万葉集』『古今和歌集』においては,桜は「恋」のメタ
ファーです。具体的には,男が女を桜と見て,恋心を歌にする訳ですので,それだけで
は桜は女のメタファーとは云えません。と云うのは,女と桜を連ねる男の恋なくしては,
意味がないからです。
 「My love is like a red rose」と歌われたイギリスのバラのように,古代・中世の
わが国においては桜が,人と人を結び付ける感情としては最も強いものの一つである恋
のメタファーです。これが王権のシンボルなどとしてよりも,もっと重要な桜の意味で
はなかったかと思います。
 
 その上,桜は「生」と「死」の両方のメタファーでもあります。春に咲く桜は,大地
の命の蘇る春,命の,生のシンボルです。
 ところが桜の意味の中においても一番現代の日本人に知られているのは,桜の散るこ
とと潔イサギヨい死との隠喩的関係です。これは後述するように,非常に近年の意味付けで
はありますが,恋の中においては女のメタファーの桜が,此処のおいては武士即ち男の
死のメタファーになるのです。
 ただし,桜と死との関係は昔から民間信仰にもあり,柳田国男氏は,枝垂れ桜が死者
の埋められた処の標示として,信州(長野県)において用いられていることを指摘して
います。これは,神霊も人間の魂魄コンバクも,祭られるときには,柳や枝垂れ桜のような
地に枝が垂れる木を伝わって天空から降りて来ると考えたのではないか,と柳田氏は解
釈しています。
 無論,昔の日本人の考えにおいては,生と死は必ずしも対立する概念ではなく,死者
の魂は蘇ると信じていましたので,男女を結び付けるのと同じように,桜は生と死の連
なりのメタファーであったかも知れません。
 
 もう一つ桜のシンボリズムにおいて欠かせないのは,夜桜のことです。今日において
も夜桜は,昼間の花見と同じように人気があります。ところが,青空を背景にして見る
桜と,夜桜は随分異なります。夜桜の美しさは,闇の恐ろしさを背景に,その恐ろしさ
の故に生まれて来る美であり,例えば歌舞伎『積恋雪関扉ツモルコイユキノセキノト』の桜の木の精
である遊女墨染スミゾメのような美妓ビギの艶やかさなのです。それ故,江戸時代には吉原
仲之町の夜桜が有名でしたし,中世の寺院の稚児チゴが桜花に準えられたことにも,これ
と通じる要素があるのかも知れません。こうした夜桜の描き出す桜の意味は,他の桜の
意味と正反対のようでいて,矢張り『万葉集』や『古今和歌集』の「恋」と同じく,人
間を結び付ける絆のメタファーなのです。
 
〈軍国主義と桜〉
 こうしてわが国社会の中の種々の人々のシンボルとなり,多様な意味を持った桜は,
江戸時代にはすっかり日本人の心の中に根を下ろしていました。それだけに,後に軍国
主義が発展して行くとき,桜は利用されるようになったのです。その経過を辿りますと,
如何に(桜と云う)シンボルが人々を動かす強い力を持っているかが分かります。
 まず,その出発点は,「花は桜木,人は武士」と云う諺コトワザではないでしょうか。こ
の諺が人口ジンコウに膾炙カイシャするようになったのは,江戸時代中期の歌舞伎『仮名手本カナ
デホン忠臣蔵チュウシングラ』に用いられてからです。それが1935(昭和10)年頃から,桜の花
のように潔く散ることこそ武士道に一致するものとされ,軍国主義者等に利用されるこ
ととなりました。
 同じく,本居宣長モトオリノリナガの有名な和歌「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜
花」も,「桜花と同じように日本精神もうるわしい」と云う意味であったのに,大和心
=武士道とされた,と云います。
 
 1933(昭和8)年には小学校一年生の国語教科書が「ハナ ハト マメ マス」から
「サイタ サイタ サクラガサイタ」に替わり,1944年の代表的軍歌は「万朶バンダのサ
クラか衿エリの色/花は吉野に嵐吹く」とか,「大和男子と生まれなば散兵戦の花と散れ
」でした。陸軍歩兵が軍服の立襟タチエリに付けていた濃い桃色のバッジを,満開の桜に見
立て,第一線の歩兵の隊形である散兵戦において,陸軍のため,わが国のために潔く死
ね,と云う意味なのである。
 
〈考え方,感じ方のシンボル〉
 わが国社会の種々の階層を問わず,また男も女も楽しんで来た桜,単に思考構造の中
においてのメタファーであるに留まらず,「情」のメタファーであった桜,それも,生
と死,恋,江戸っ子の気質と,いろいろの意味において日本人の心の中に深く浸透して
来た桜です。
 履中天皇が,船遊び中に酒杯にひらひらと舞落ちてきた桜の花弁ハナビラを見て,花が沢
山咲いている木を想像したと云う逸話(『日本書紀』卷12「履中紀」)があるように,
桜は一枚の花弁の美しさが満開の桜の木の美しさを代表します。この捉え方は,「人間
」は人と人との関係の中でしか考えられない存在であると云う,西洋とは異なった日本
人の考え方にも通じているのではないでしょうか。
 その上桜はデカルト的二元世界のシンボルでなく,「過程」とか「関係」のシンボル
であると云う意味において,日本人考え方,感じ方の根本原理を表しているのではない
でしようか。「サクラ」の語源が,人間世界において神の宿る「坐」にあることは,聖
と俗が絶対的なアンチテーゼではなく,俗の中にある聖と云うわが国の民間信仰の一番
大切な原理を象徴しています。更に,桜が女のシンボルと云うよりは,男の心の中の女
として歌われたことは,桜が人間関係の象徴であることを意味しています。
 
 人と人との横の関係が土台となっている縦社会日本のシンボルとしての桜は,時代が
変わっても,その時代時代の基本的人間関係の絆の中に現れます。現代のわが国におい
て,勤め先の男女の同僚と花見をするのが盛んなことも,その一環なのです。
 美しく,それでいてシンボルとしても豊かな意味を持つ桜のことを,松尾芭蕉は300年
以上も前に見事に表現しています。
 
 さまざまの事おもひ出す桜かな
 
 「おもひ出す」とは,単に思考行動を意味するのではなく,そのときの悲しみ,喜び,
ペーソスなどの情が心に甦ることであり,理性と情が何時も紙の両面にように切り離せ
ない関係にあることを意識している日本人の「思い」を,この芭蕉の「桜」に端的に表
しているのではないでしょうか。

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