05a 植物の世界「菊と日本人」
〈「菊水伝説」のわが国への定着〉
中でも,平安朝の貴族が格別に愛好したのは,次に述べる「菊水伝説」でした。
前述の『芸文類聚』の「菊」という項目の冒頭には,河南の麗(麗+邑オオザト)レキ県地
方に伝わる菊水の故事伝説が収録されています。
その地方を流れる川の上流には菊の花が多く,菊花の雫が落ちる谷川の水を汲んで飲
んでいる三十余軒の住民には百歳を越える長寿者が多い。名付けて大夭タイヨウと呼ぶが,
これは菊の花が人々の心身に生気を与えるからであり,また麗(麗+邑オオザト)レキ県の菊
水を実際に飲んで宿痾シュクア(長患い)を治して百歳近くまで生きた武官がいたことから,
都においても菊の種を播くようになった。
と云うのです。
この理想郷物語は,東晋の陶潜トウセン(淵明エンメイ)(365〜427)の詩文『桃花源記トウカゲ
ンキ』と同類の思想で,古代の中国神話の思考を基にしています。そう云えば,陶潜にも
キクに纏マツわる故事が残っていて,同じく『芸文類聚』に収録されています。これは,
九月九日,重陽の節供に酒好きの陶潜が酒を切らして自宅近くの菊の群落の中に座っ
ていたところ,白衣を着た不思議な人物が現れて酒をご馳走してくれ,詩人はすっかり
酩酊して帰宅した。
と云う話です。この陶潜のキク物語は,平安王朝の知識人の憧れの的となり,早速和歌
の主題に詠み替えられて,屏風絵の画題にも選ばれました。
きくの花のもとにて、人の、ひとまてるかたをよめる 紀友則
花みつゝ人まつ時は白妙の袖かとのみぞあやまたれける(『古今和歌集』卷五)
「待つ人の白い袖かとばかり、菊の花が見違えられることだ」と云うこの歌は,明ら
かに陶潜の故事を踏まえています。また,詞書コトバガキに「ひとまてるかた」とあります
ので,そのような情景を描いた屏風の障子がどこかの貴族の邸宅に実在したのでしょう。
中国のキク伝説を踏まえて詠まれた歌と屏風がセットで登場する好例が,『拾遺シュウイ
和歌集』(11世紀前半成立)にも収録されています。
我が宿の菊の白露けふごとにいく代積もりて淵となるらん
これは冷泉レイゼイ天皇の中宮昌子シヨウシの裳着モギ(女子の成人式)の祝いに当たって,
清原元輔モトスケが屏風の画題に合わせて詠んだ歌であることが,詞書から分かります。歌
の意味は「わが家の菊の白露は、これから毎年九月九日ごとに、一体幾代積もり溜まっ
て、淵となるのだろうか」です。従って,この裳着の祝いに用いられた屏風には,菊伝
説に関わる絵が描かれていたことになります。同じく脚注に拠りますと,この歌の「菊
の白露」は,先に触れました河南麗(麗+邑オオザト)レキ県地方の菊水伝説などを踏まえて
いると云います。
〈和歌,屏風絵と漢詩〉
そこで,どうしても考えなければならないことは,これまで「日本美の粋スイ」のよう
に云い習わされてきた『古今和歌集』(905又は914年頃成立)にしても,正しくは,中
国崇拝(唐風模倣)の枠組みなしには生み出されようもなかった,と云う点です。
例えば,「『漢詩』の考え方に従って,公式的に割り切って当て嵌ハメなければ安心出
来ないので,当然和歌は漢詩の枠に嵌ハメ込むことが要請された」との指摘もあります。
また,「白菊や霜や星にたとえると云った常識的な詩の比喩は,やがて一種の『文学上
の規約』として,歌人の誰でも承知するようになる。彼等は,このような承知の事実を
踏まえた上で,どのように歌全体に及ぼすか,表現されたその結果如何で歌の優劣を判
定したのである」との指摘もされています。これらに拠りますと,和歌の善し悪しは,
下敷きにした漢詩如何によって,またその漢詩の踏まえ方如何によって,決められたの
です。
話を屏風絵に戻しますと,平安時代に最も多かった屏風絵の形式は四季絵シキエ,月次絵
ツキナミエと呼ばれるもので,一年十二カ月の自然と人事や風俗を描き,一帖ジョウ六扇セン(六
曲)に三つから六つ位の画題が配置されていました。また,歌枕ウタマクラなどで知られた各
地の名所を描いた名所絵もありました。そして,「名所絵と四季絵とを組み合わせ儀式
的に整備したものとして,歴代の大嘗絵ダイジョウエの際,悠紀ユキ・主基スキの節会セチエの場に
立てる大嘗会屏風と呼ばれるものが,10世紀以降その時期の代表的な歌人・書家・画家
を動員して作られていた」との報告もあります。
しかも,このような屏風絵における四季描写の底に流れる季節感や風景観は,「根元
的に漢詩から,現実的には和歌によって養われた文芸的内容を置き換えた」ものである
とし,「画があって歌が生まれたように受け取られるが,実はその逆である。(中略)
成立上においては歌人が詠じた和歌を題材にして画家が描き,更にその和歌を能書家が
屏風に書いて完結しているのが月次屏風絵なのである」また「宋代には,宮殿壁画の画
家などの選考に当たって詩が出題され,その内容を巧みに描いた者が選ばれた」との説
明もされています。平安時代の月次絵に見られる和歌と絵との関係は,このような宋の
例に着想を得たのではないか,と云うのです。
〈キクと「大和魂」と〉
丁度この時期(平安中期)に,紫式部ムラサキシキブは自力で「やまとだましい」と云う概
念を創出し,開発することに成功していました。『源氏物語』乙女卷オトメノマキに,
「猶、才ザエを本モトとしてこそ、大和魂の世に用ひらるゝ方カタも、強う侍ハベらめ」
とありますように,漢学(才)が根本に据えられてこそ,日本的な処世術も実際に生か
すことが出来る,と式部は説いています。式部は誰よりも正確に倭歌ヤマトウタ・倭絵の本質
を捉えていたからこそ,大和魂,即ち日本的な知恵を誰にも先駆けて発見し得たのでし
た。『紫式部日記』に,単なる中国詩文の受け売りではない,キクに関する優れた描写
や和歌が記載されているのも,宜ムベなるかなです。
例えば九月九日の出来事として,次のような話が記されています。
重陽の節供の日に,藤原道長の北の方である倫子リンシから,菊花の香りを移した綿が紫
式部に届けられた。その綿で体を拭くと,老いを取り去ることが出来るとされていたの
である。紫式部は,頂戴した菊の露には,ほんの若やぐ程度に触れるにとどめ,それで
拭ヌグえば千代に延びると云う寿命の方は花の主にお譲りしましょう,と云う意味の歌「
菊の露わかゆばかりに袖ぬれて花のあるじに千代はゆずらむ」を添えて,その綿を返そ
うとした。ところが倫子が帰ったことが分かったため,返礼を見合わせた。
と云うのです。
この短い記事は,寛弘カンコウ五年(1008)九月九日,重陽節の日に菊花の呪術が宮廷に
おいて実修された証拠にもなるでしょう。
〈"日本的なるもの"〉
既述のように,キクは平安時代の初め(8世紀末)頃に中国から輸入されたと推定さ
れます。しかもそれは,当時の支配階級であった貴族等が,中国の政治や文化,ひいて
は自然観までも模倣する過程において行われたのです。
巨大なユーラシア大陸の最東端に接する島国日本は,絶好の地理的条件を生かしつつ,
「廂ヒサシを借りて母屋を取る」式の貪欲さで,波状的に次々に浸透して来る外来文化を,
その都度受け入れ,摂取しては思いのままに利用する,と云った活力こそ,正に"日本的
なるもの"の正体なのではないでしょうか。
キクに即して云いますと,元々中国原産の花でありながら,長い時間を経て行き渡っ
ていくうちに,どんどんと変化や進化を遂げ,遂にわが国を代表する「国花」にまでな
りました。ここに至るまでの過程こそ,そのまま,歴史的時間を生き抜き,生き続けた
日本文化の本質を正しく照らし出していると云えます。今日では,キクは「世界の花」
の位置にあります。
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