現代の若者は、汚れるきつい登山は敬遠しがと思っていましたが、参加した若者を間近に接し、
この若者達が、きっと未来の「日本の自然を守る」事を真剣に考えてくれる人間になってくれるんだ。
また営利を目的とした「俄仕込みの登山指導者」が多いなか、君達こそ中高年の登山ブームの中、

ひのくに新世紀総体

第三弾 登山男子縦走で熊本高校初優勝 おめでとう!

熊本高校隊員 右より米村和紘主将 村田裕人君 和田慎太郎  山田竜太君

  「以下熊日新聞より抜粋」
 6月の県総体(男子団体)で熊本北に遅れをとり、今回は第二代表として縦走に回った熊本高でしたが、本番では見事に全国の頂点を極めました。体力、知識両面でバランスよく得点できたことが最大の勝因でした。縦走は4人パーティーによる3泊4日の山行。所々で審判員が待ち受け、体力の有無や装備の的確さなど13項目を採点します。

 熊本は、ペーパーテストや天気図作成など7つの「知識」項目のうち、6つが満点。設営・撤収、炊事など生活技術も完璧で、一番点数配分の大きい「体力」もトップ0.2点差の3位タイにつけました。全員が2年生。入部して以来、インターハイを想定して月に一度は阿蘇山系に足を運んだ。県総体は「土日はほとんど山の中。休みなんてなかったと」米村主将。「あれだけ登った゛阿蘇″で負ける負ける訳にはいかなかった」と。

     熊本県選手の成績
熊本高校は百点満点で91.1点をマーク。2位下館工(茨城)とは0.7点差。
男子団体の熊本北は87.8点で13位。
女子同の熊本北女子は80.9点で25位。

この先様々な経験を積んで機会あれば、よき指導者として自信をもって携わり指導してほしいと思いました。
登山愛好者の中でも、若いから山に親しんだ人は特に「自然を見る目は敬虔で純粋」だからです。

       私の懐かしいおもいで「阿蘇高岳北面の岩場」〜鷲ヶ峰〜

 久しぶりに現役時代の私を思い起こさせてくれ登山競技でした。かって何故こんな登山に魅せられ入部したのかを考えると、動機は単純でした。「友達から誘われて」だったと思います。

 一年目の夏休み、内大臣より九州山脈(市房山まで)を縦走した時、河原に沿った道で、アブの大群にみまわれ、タオルで払うと言うより、自分の顔を叩きながら、また足下にしたたり落ちる額からの汗を見つめ、のどの渇きに耐えながら歩く姿に「俺はバカだった。こんなところで何をやってるんだ。ジュースのプールを作ってくれ〜 飛び込みた〜い」と心でブツブツ叫びながらも、一年間山の四季を体験したものでした。
 2年目になると、私を誘った友達はトレーニングの立田山階段駆け登りに悲鳴を上げ「目の前が黄色くなった〜っ」の迷セリフを残して辞めていきました。

「阿蘇高岳北面鷲ヶ峰」は溶岩と固結度が低い凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)の互層で、きわめてもろい岩と言われています。総体の縦走コースになていた仙酔尾根を登ると、左手に見応えのある鷲ヶ峰、虎ヶ峰の峻険な北尾根が見えます。この仙酔尾根とて同じで、崩れやすく、今回総体出場の京都の女子高生が、下見中に足下の岩が崩れて数十m滑落する事故がありましたが、怪我もなく元気に本番に参加したと聞きました。幸いなことでした。

 この鷲ヶ峰に挑んだのは1年生の秋でした。今まで一般ルートだけで慣らされた鷲ヶ峰も、「ホールドは引っ張るな。押さえつけて握れ」の基本を頭に、2年目にして北稜ルートにアタックしました。この時一本のザイルに命を託したメンバーのトップが、現OB会会長の伊津野さん、セカンドが私で、ラストが平塚君でした。アップザイレンの途中に3人が一緒に休める岩棚があります。

 身体全体に冷や汗をかき、オーバーハングの岩から滴り落ちる岩清水をなめながら、まるで高層ビルの窓際に腰掛けているような感覚で、澄み切った阿蘇谷を見下ろしたものです。最後の「ナイフエッジ」は軽やかな足取りで通過したものですが、この時の感激が忘れられず、ますますのめり込みました。今そこを歩けと言われてたら想像しただけでもゾ〜っとします。

 昭和33年7月22日当時熊本県山岳連盟会長の北田正三さんが、国体の下見に鷲ヶ峰に登られ、東面で墜死されました。
すかさず単身赴任の父から、岩登りはくれぐれも注意するようにと手紙が届きました。注意するよりも「山岳部はやめろ」だったように記憶しています。
しかしあいも変わらず登攀。翌年鷲ケ峰の頂上で、熊本で開かれてる国体の開会式をラジオで聴きながら、大先輩に黙祷したのを覚えています。

2〜3年生の頃、まだ根子岳の西峯の崩壊が今みたいにひどくない頃でしたので、秋は休みのたびに根子岳に張り付いていたものです。「見晴新道」も(記憶では阿蘇高校の山岳部で切り開いたルートと記憶しています)造られてすぐの頃で、私はこのルートが好きで何度か利用しました。残念ながら崩壊で通行止めになって久しいですね。

(今年の5月、この通行止めルートで滑落死亡事故が起こりましたし、6月には、天狗岩と東峰の間で転落。こちらは重傷で済みましたが、いずれも50代半ばの女性でした。指導者は同行していなかったのでしょうか)
 この頃、現役時代で熊本高校山岳部顧問をされていた山内浩先生からは、「高校生はロッククライミングはまだ早い」と冷ややかな目で睨まれながら、ザイルでの火傷にもめげず、毎週土曜日の午後からは島崎町の「石神山」で密かに岩登りの基礎訓練を続けていたものでしたが、このゲレンデも今では、石材切り出しのため跡形もなく無くなっています。

井上靖の「氷壁」で、何故ナイロンザイルは切れたか。岳界で話題になってた頃で、魚津と小坂を我に置き換え、ロマンを胸にむさぼり読んだものです。

ちなみに私たちはまだ麻のザイルを使っていました。