手のひらの下の街
蒼穹。
風にふるえる樹木。立ちならぶ家並みと石畳の街路。
丘状に落ちこんでいく傾斜のはるかかなたに、無数につづく甍の波をこえて凪いだ海が青く、青くひろがっている。港には、いくつかの船影が、音もなくゆらめく。
瓦礫の山の上で、男は天を見はるかす。
底の知れぬ、どこまでも吸いこまれてしまいそうな深い青。そこに、今日にでも街をおしつつまんとしている巨大な憎悪の手のひらが暗黒の口をひらいているとは、とても考えることすらできぬほど、ただひたすら純粋に、澄んだ青空。
「おれは約束を果たせぬかもしれない」
男は、平坦な口調でそうつぶやいた。こたえる者などない。
わずかに身じろいだ男の尻の下で、砂利と化した瓦礫の一部がささやかな音をたてて崩落していく。かすかなほこり。
「それでも、おれはあきらめられない。約束を守ることのできない者は、人間として失格だ。そうだな、アレム」
つぶやきは、ただ青いばかりの無窮へと消えていくだけ。光を喪失した男の双眸が、歯車仕掛けの人形のようにうつろに、移動する。
街の、境界へと。
狂熱を背後にしたそこに、静寂がわだかまる。
男の瞳が熱を帯びる。ほんのわずかに。狂気の底に、諦念を重くよどませて。
「武器を帯びているか?」
と青年のひとりがいった。呪文のような口調だった。
「いいや」
「空身だな」
ふたつの肯定に、かぶさるようにもうひとり。
「そうでもない。ふところに短剣を呑んでるぜ」
セリフは、シェラの華奢な手のひらが、あわせ式の上着のふところにすべりこもうとした瞬間に発せられたものだ。少女の動作は凍結する。
アリユスは無言のまま、そのかたちのよい胸の下で手を組みあわせ、余裕たっぷりに自分たちを取り囲んだ五人の青年に、等分に注意を分散している。
「短剣か。怪我はしないようにしなくちゃな。今日一日だけなんだ」
「どうでもいいさ」
投げやりなセリフが、けだるげにひびいた。
そして、さらにべつの声。
「ふたりだけだ。街のことをよく知ってる人間なら、女ふたりだけでうろついてるはずがねえ」
「旅の途上ってわけだな。それにしても、女ふたりってのはぶっそうなんじゃねえか?」
「妙だな」
言葉に誘導されて、五人のあいだに芽吹いた不審が育ちあがる。
ひとりが、その正体に気づく。
「見ろよ、そいつらの胸」
意味が好色な興味からのものでないことは、すぐに判明した。
「……幻術使か、てめえら」
青年のひとりがいった。口調ががらりとかわっていた。その底には、凶猛な怒りと憎悪がどっしりといすわっている。
ほかの四人も、驚愕につづいて底知れないどすぐろいものを、視線の内から膨れあがらせた。
獰悪な凝視のさきにあるのは、ふたりの娘の胸元にさげられた首飾り。はっきりと素性を示すのは、それぞれの白と青の宝石よりも、それがはめこまれた台座のほうだ。似たような意匠の、秘めた力を具現するといわれる神聖文字・レトア語の刻まれた台座は、たしかに神秘力を駆使する幻術使たちが身につけるたぐいのものだ。が――
アリユスは眉根をよせる。
さっきまでの態度ならわからないこともない。若い女ふたりが供もつれずに歩いていれば、よからぬ興味を直截的にぶつけてくる不逞のやからなどどこにいってもかならずつきまとう。程度の差こそあれ、どう対処すればよいのかも把握しきっている。
だが、幻術使と知れたとたん――畏怖や尊敬、もしくは怯懦、忌避感ではなく――むきだしの憎悪を叩きつけられるという経験は、そうそうあるものではない。
「残念だったなあ」めらめらと燃えるものを言葉にのせて吐きだしながら、青年のひとりがずいと一歩をふみだした。「ただの娘だったらまだわからなかったが、幻術使となると街の人間は絶対にたすけの手なんざさしのべちゃくれねえ」
ぐい、とアリユスの手首をつかんで、ひきよせようとした。
ひょお、と一瞬風が鳴いたのに、何人が気づいたか。
「つ――」
のばされた手が、熱いものに触れたかのようにひっこめられる。
見ると、ひとすじの血の帯がその甲に刻まれていた。
かなり鋭利な刃物をすばやく走らせなければ、できないたぐいの傷だ。が、アリユスに刃物をふるったようすはない。なにより、はでやかとさえいっていいほどの美貌の女は、その両の手にいまだ、寸鉄ひとつ帯びてはいない。
「幻術か、やっぱり」
すっぱりと切り裂かれた傷口に舌をはわせながら青年はいった。
言葉を耳にしたとたん、取り囲んでいるうちのふたりの憎悪が増幅されたが――残り三人の顔にはあからさまなおびえが芽生えていた。
むろん、アリユスはそれを見逃さない。
「そう。幻術よ。いまのはほんのあいさつ程度。お望みなら、もっと深いところまで刻んであげてもいいわ。それとも、ほかの種類も試してみる?」
いって、にっこりと笑ってみせた。通常であれば、噴きだす蠱惑に射精すらしてしまいかねない微笑だが、この場合はその蠱惑すらもが五人の恐怖をかきたてた。
「ふざけるなよ」鼓舞するように威勢のいいセリフがとびだす。「幻術使ってのは、ふつうの人間に対して命にかかわるような術を使うことなんざできないはずだ。禁忌を破れば、“返り”があるってきいてるぜ」
「あら、よくごぞんじね」アリユスは余裕たっぷりの微笑で答える。「でも、それがこちらの命にかかわるような場合はべつよ。“返り”は相手の殺意に吸収されて、戻ってこないから。試してみる?」
歩をふみだし、もういちどにっこりと笑う。五人はひとしなみにあとずさった。
“返り”というのは放った幻術が術者に反射することをいう。害意のない人間に術をしかければ、その何割か、場合によっては術のすべてが戻ってくるのだ。
「わたしもシェラも、あんたたちみたいな相手に容赦はしないわ」
艶然とほほえみながらアリユスはさらにつづける。半分は嘘だ。アリユスはともかく、シェラは容赦なしと断言できるほど非情にはなり切れない。
さらには、こういう場合はたいてい、アリユスが媚術に幻像をのせて相手に催眠術をしかけ、実在しない自分たちの分身にどこへなりと先導させ、せいぜい川にでもつっこませるくらいが関の山の対応なのだ。
むろん――その程度で充分な相手なら、だが。
この場合は、ちょうど境界線上にある、とアリユスは判断した。だから、もう一押しする。
「意味はわからないけど、あなたたちさっき、今日一日だけとかいっていなかったかしら?」
効果はてきめんだった。重ねられた言葉に、五人はぎくりと目を見あわせる。
しばし青年たちはたがいの顔を見ていたが、ひとりがたてた舌打ちを合図に、くるりと背をむけ歩き去った。
捨てゼリフすらない。少々拍子ぬけするあっけなさだ。残されたアリユスとシェラは眉根をよせあう。
「何かヘンね、アリユス」
シェラが口をひらいた。声に、かすかにふるえがにじんでいる。旅先で邪心を抱いた男たちの興味の的にされるのは日常茶飯事だが、凶悪なほどの情念をまともに噴きつけられることにはいまだに慣れずにいる。なんといっても、ようやく女らしさを身にまといはじめたばかりの生娘なのだ。
アリユスはシェラの肩を抱きよせながらうなずいた。
「そうね。どうも、この街自体が妙な気につつまれているわ」
いって、空を見あげる。
晴天が、底なしの井戸のように深く、青々とひろがっているだけ。
が――瞬時、アリユスはその青空のなかに何か、渦まくようなものを幻視したような気がした。
なにもかもが微妙に、奇妙な街だった。
眼下に港をひかえ、広大な丘陵地帯にへばりついたかたちをしている。遠目には雑多な建物が複雑に建ちならび、港にも多くの船が停泊しているし、繁栄した港湾都市、というように見えた。
街に足をふみいれて最初におぼえた違和感は――活気だった。
祭りであろう。街路にはいたるところにひとがあふれ返っていた。
豪奢に飾りたてられたいくつもの山車が、威勢のいいかけ声とともにあちこちをねり歩く。
――ふつうの祭りにしては、時期的に、奇妙にずれているにもかかわらず。
収穫祭のたぐいであれば、もうすこし早い時期に終了しているはずだ。冬を目前にしてこのたぐいの祝祭がもよおされている理由がまずのみこめない。
だがなによりも、街をねり歩くひとびとの顔つきが妙だった。
楽しんでいない、というわけではない。むしろ、あふれる活気にのめりこむように、笑い、さざめき、肉体を躍動させている。
狂ったように。
そう。異様なのめりこみようだったのだ。
祝祭というのはもともとが、熱気の発露であることはまちがいない。
だがときに暴力的にぶつかりあう山車と山車との模擬戦は、ほんものの戦よりもなお激烈だったし、尋常ではない怪我を負ったようすでころがる男たちの姿もすくなくはなかった。いやむしろ、道ばたのあちこちにそういった苦しみにうめく声音がみちあふれていた、といっていい。
ほうりだされているものもあれば、手あつい看護をうけているようすの者もまたいる。なかには、死体ではないかと思われる姿もいくつか見あたった。
そういった悲惨な肉体をいくつも吐きだしながら狂騒は奔馬のように移動していく。
さらに奇妙なのは、ねり歩くひとびとの大部分が、武器を携帯していることだ。小刀から長槍まで、武器の種類でいえば剣から棍棒、鉈や鍬などの道具類、包丁など、およそ雑多で統一感がない。祭りのいろどりのたぐいでは決してなさそうだ。
そして、山車のぶつかりあいとはべつの死体。
こちらははっきりと、死体だということが遠目にも見てとれた。血まみれで、攪拌器にでもかけられたように異様なかたちに肉体を変容させてたおれ伏しているからだ。どう見ても、集団によってたかって暴行された跡のようにしか思えない。
そういった死体の多くは、複数が固まってうち捨てられていた。
楽しげに踊り狂う争乱とはおよそ対極にありながら、奇妙に調和しているようにも見える光景だった。
何が起こっているのか、まるで想像すらつかない。
だがひとつだけ、状況を形容するにふさわしい言葉がアリユスの脳裏にうかんでいた。
自暴自棄。
それがその正体だ。
明日など存在しない――とでもいいたげな狂騒が、街全体をおおいつくしているのである。
街の一角に足をふみいれるまでは、そんな狂騒が存在することなどまるで気づかなかっただけに、異様な非現実感がアリユスとシェラをとらえていた。
状況を把握しようにも、おそるべき熱気につつまれたひとびとは溶解寸前の熱鉄のように触れることすら憚られた。女だけの一団でもいれば、それでもこれがどういう事態なのか問いかけることくらいはできたかもしれない。だがこれも奇妙なことに、はなやかに着飾る女たちのまわりには、かならず護衛のように屈強の男たちがまとわりついて、血走った眼を四囲に走らせているのだ。
さいわいにしてそういった視線がアリユスとシェラに注意をとめることはなかったものの、狂騒の原因はまるでわからない。
そうこうしているうちに、よどみのように静寂のわだかまった一角に、ふとふたりは迷いこんだ。
その矢先だった。五人の青年に囲まれたのは。
「とにかく、こんな場所にはいないほうがいいんじゃない、アリユス?」シェラはいった。「またさっきみたいなひとたちがきたらいやだわ」
「そうね」
答えつつアリユスは、そうだろうか、と自問した。
さいわいにしてここにたどりつくまではアリユスもシェラも、特に街のひとびとの注目をひくようなことはなかった。というよりは、かれらはまるでアリユスもシェラも目に入らないのだとでもいうように、みずからの狂騒につかりこんでいたのだ。
だから幻術使であることが憎悪の対象になり得る、と知らされたのはさっきが初めてだった。
青年たちはいっていた。幻術使であるとなれば、街のひとびとの助力はあてにできないだろう、と。
つまりこの街では幻術使は歓迎されない、ということなのか。あるいは――
「幻術使そのものが、ここでは憎悪の対象……?」
つぶやきがアリユスのくちびるを割り――
「そういうことだな」
べつの声が、答えた。
ふたりの女はぎくりと視線をやる。
廃墟とおぼしき、半壊した建物の瓦礫の上から、ひとりの男がこちらを見おろしていた。
ざんばらの髪と髭で容貌をうもれさせた男だった。年齢もさだかではない。服装がもうすこしうすよごれていれば浮浪者そのものだが、質素でも身なりはわるくはなかった。
シェラはおびえてアリユスの背中に身を隠し、アリユスはするどい視線を男に送りながら手もとにひそかに印を結ぶ。幻術に移行するための予備動作。
「だいじょうぶだ」男は抑揚を欠いた声音でそういった。「おれには、あんたたちへの害意はない。街で見かけてから、ずっとあとをつけてたんだ」
「あら。害意のない痴漢、というわけね? それはめずらしいわ」
笑いながらアリユスはいった。むろん緊張をといたわけではない。
対して男は――は、は、は、と声をたてて笑った。
かわいた声音の、奇妙にうつろな笑いだった。
「そうじゃない。おれは幻術使に用があるんだ」
「ここのひとたちは幻術使をきらってるんじゃなかったかしら」
「ああ。大部分の連中はな。おれはちがう」
いって、男は立ちあがった。
瓦礫をふみわけながら、ゆっくりとおりてくる。動作が不安定なのは足場がわるいからだけではなかった。男は片足をひきずっていた。もういっぽうの足も不自由らしく、動作が人形のようにからくりじみている。
ながい時間をかけてふたりの前におりてきた男は、さらにしばらくのあいだ切れた息を整えることについやした。
「……たいへんですね」
アリユスの背後から顔をのぞかせて、シェラがつぶやくようにそういった。
ひとをばかにしていると取られ兼ねないセリフだが、シェラの本心であることをアリユスは知っていた。
男はにやりと笑った。
「なに。街の連中よりはましさ」
アリユスとシェラは顔を見あわせた。
「説明してやるよ。だがそのまえに、防御魔術は使えるか?」
「どういったたぐいの?」
「なんでもいい。おれたち三人に暴行が加えられずにすむような術だ」
「暴行というのがどういう種類のものかによるけれど、そうね、たとえば強い害意に反応する“壁”のたぐいならできないこともないわ」
「それでいい。歩きながらそれを維持できるか?」
「むつかしい注文ね」
アリユスは苦笑した。
それから、目をとじた。
ゆたかな胸の前で印を結んだまましばしのあいだ呪文らしきものを口中でつむぐ。
「精霊を召還しているんです」とシェラが解説する。「アリユスは風使いです。風のなかにすむ精霊とは親しいの。かれらに、悪意をもってわたしたちに近づこうとする者を阻むように頼んでいるんです」
「それはいい」
男はいって、にんまりと笑った。
さらにしばらくの間をおいて、ふいにアリユスが両の目をひらく。
「いいわ」
「よかろう」
男はいって、ふところにさし入れた手をつきだした。
手のひらの上には、宝石がのっていた。
小粒だが、紫の輝きは高貴な色あいを帯びている。正当な値段で売れれば、一年は遊んで暮らせる程度の値打ちはあるだろう。
それが? とアリユスは視線で問いかける。
「これで、おれを街の外につれだしてくれ」
男はいった。
「意味がわからないわ」芝居がかったしぐさで、アリユスは首をかしげた。「あなたは街のひとにねらわれているのかしら。それでわたしたちの防御魔術で、街から脱出したいということ?」
「いいや。防御魔術は、あんたたち自身を街の連中から護るために必要なだけさ。おれもやつらに憎まれていることはいるが、殺されるってほどじゃない」
「まあこわい。それじゃわたしたちは殺されてもふしぎはないのね?」
「まあそうだな。それとも、祭壇にささげられるか。いずれにしろ、この街に今いるよそものはあんたたちくらいのものじゃあないのかな。二、三日前だったら、よそものってだけでぶじにはすんじゃいないさ。その上、幻術使とくればな。迷いこんだのが今日だったのは、むしろ運がいいのかもしれん。街のやつらめ、最後の時間をすごすことに夢中になって、ひとのことなど目に入らなくなってるからなあ。あんたたち、南の山のほうからきたんだろう」
「ええ」
「だろうな。ほかの街道からなら、ここにくる途中でとめられるからな。いまの時期にこの街に幻術使が入ろうなんざ、自殺行為だ。南から山をこえてきたんなら、山むこうの村よりこっちはひとがいねえ。とめるやつもいなかったろうさ」
「説明してくれるっていったわね」
アリユスの問いに、男は顔をあげて空を見あげた。
陽光は中天をすぎて西にかたむきはじめている。陽暮れのはやい季節だ。数刻もすれば夜の闇が山のむこうがわに指をかけるだろう。
「時間がない」男はいった。「歩きながら話そう」
「いいわ。でもとりあえずそれはひっこめて。あなたの依頼を受けるかどうか、話をきかないうちはわからないもの」
アリユスの言葉に、男はすなおに宝石をふところにしまいこんだ。そしていった。
「おれの名はライルだ」
男の先導にしたがって、ふたたび喧噪の街区に足をふみ入れる。
奔放に荒れ狂う狂騒は、さっきよりもいっそう激しさを増していた。
ぶつけるように交わされる笑い声の渦のなかに、心なしか泣き声もまじっているようにきこえる。
気をつけて見まわしてみると、街路の陰になった部分などあちこちで、人目もはばからず抱き合い、たがいをむさぼりあっている男女の姿も目についた。楽しげにとびはねる子どもらが目立つ一方で、火のついたように泣きわめく幼子の姿もめずらしくはない。
そして、放心したようにたたずみ、あるいは腰をおろすひとびとの姿もまた、そこかしこに見られた。
かれらのうちの多くが、何かをおそれてでもいるかのように頭上に凝視を投げかけている。
アリユスもシェラも、つられて天をふりあおいでみるのだが、青々とひろがる午後の虚空が目につくばかりだ。ただかすかに、アリユスには奇妙な、渦まくようなものが上空にひろがっているような気がするだけだった。
と、男がふいに口をひらいた。
「隠匿魔術がほどこされてるらしいな。ユール・イーリアの秘術とかいうやつだ。だからあんたたちも気づかずにこんなところまで入りこんできちまったんだろうさ」
隠匿魔術――憐憫の女神ユール・イーリアへの神通を利用しておこなう幻術のことである。おのれをひとめにつかぬようにしたり、ひとびとの目から特定の物体(たとえば宝石など)を隠匿したり、あるいは幻術による罠をしかけてその痕跡を秘匿する場合などにも用いられる。
そういうわけ、とひとりごちながら、アリユスは印を結び、呪文をとなえた。
しばしの間をおいて――街にほどこされた、いつわりの仮面がはぎとられた。
晴れわたっていたと見えた空は、異様な色彩がどろどろと渦まく雲でおおいつくされていた。
泥濘のようにうねり、さかまきながら曇天は、ゆっくりと、だが目に見える速度で、降下しつつあるのがはっきりと見てとれる。
四囲からいくつもの悲鳴がまきおこった。
一瞬おくれて――その悲鳴をかきけそうとでもするかのように、いっそう激しさを増した笑い声や祭りの叫声。
陽気を装ってわめきたてられていた歌声がその調べをいちだんと強くし、それにあわせて打ちつけられる律動もまた狂的に走りはじめる。
「落ちてくるわ」
ぼうぜんとシェラがつぶやいた。
まさに、天がなだれ落ちてこようとしていた。
「あれはなに? ライル」
アリユスの問いに男は答える。
「ガフティリウの手だ」
ガフティリウ、とシェラがくりかえしながら周囲に視線を走らせる。
たしかに、狂ったようにふりまわされるいくつもの巨大な山車やのぼりに、その名が刻まれていることはアリユスも気づいていた。
「ガフティリウというのは、なんなの?」
「神の名さ。ここらあたりの地をおさめていた神の名だ。この街がこうして繁栄したのも、ガフティリウを祀っていたおかげだって話でな」
「それが、なぜあんなことを?」
アリユスは頭上を見あげながらきいた。
「呪いだよ」
男は簡潔に答える。
くわしく話をきこうと、アリユスが視線を落とした瞬間のことだった。
「幻術使だ!」
声が、ふりそそいだ。
見ると、凝視が三人を取り囲んでいた。
憎悪に煮えたぎった凝視。
「幻術使……」
「幻術使」
「幻術使!」
口々に、赤い息が見えてきそうな声音でそう吐きかける。
手にした武器を、いちように握りしめていた。
じり、と輪がせばまる。
「だいじょうぶなのか」
男が問いかけた。
「さしあたりはね」
アリユスが答える。
それが合図ででもあったように、街人たちはいっせいに襲いかかってきた。
同時に――
弾き返される。
何が起こったのか、正確に把握している者はアリユスとシェラ以外には存在しなかっただろう。
武器を手にしたひとびとが三人に殺到しようとする、まさにその瞬間――目に見えない壁か何かに、押し返されてしまうのだ。
天眼をよくするものが見れば、三人の周囲を奇怪な動物姿の精霊が壁となって経めぐり、武器をもって近づくものをつきとばす光景が見えたはずだ。
「幻術……」
「幻術使め!」
とまどいは憎悪にぬりこめられたが、手をだすこともかなわぬと知ったか、それ以上突進をくりかえそうとする者はなかった。
男がつぶやく。
「たいしたものだ」
「残念だけど、憎悪の数が多すぎるし力も強すぎるわ」無表情にアリユスはいった。「このまま膠着状態がつづけばまだしも、かれらの憎悪と怒りがこれ以上膨張するようなら、精霊たちには防ぎきれないかもしれない」
「なら急ごう」
男はいって、歩きはじめた。
群衆を割るようにして前進し、商店のわきにとめられた馬車に乗り込む。
そのあいだも、三人の移動にあわせて無数の憎悪の視線は突き刺さりつづける。
頭上に渦まく泥濘が、降下速度をあげはじめたような気がした。
男は不自由な足を器用に駆使して御者席におさまり、乗獣に鞭をくれた。
ためらうような一瞬の沈黙をおいて、馬車が動きはじめる。
「逃げる……」
「逃げるぞ、幻術使が……!」
「……逃がすな、追え!」
「馬車をぶちこわせ!」
「火をかけろ、燃やしてしまえ!」
怒号がとびかった。
猛悪な怒りが動きはじめた馬車を追いはじめ、男は鞭をふるう腕に力をこめる。
乗獣がいななき、馬車は狂ったように疾走を開始する。
追って、黒山となった群衆が口々に怒りの炎を発しながら移動しはじめる。
「くそ、もっと強い精霊とかは、いないのか」
懸命に鞭をふるいながら男が叫んだ。
「いないわ」
アリユスは答えた。うそだった。先に護衛魔術で駆使した精霊たちとはくらべものにならぬほど凶暴で力にみちた“風の獣”を、アリユスは喚びだすことができる。だが、制御がきかないのだ。追ってくる暴徒はもとより、御者席の男も、へたをすればシェラまでも、“風の獣”たちは容赦なく蹂躙してしまうだろう。
「待って、幻術をしかけてみる」
叫び、アリユスはシェラに手をかして、と呼びかける。
そろって幻像をつむぎだす呪文を口にした。
追っ手はつぎつぎにその数を増していき、いまや膨大な人数に膨れあがっていた。通常であれば、これだけの人間に幻像を見させることなど不可能だ。
ただし、この群衆は盲目的な怒りにかられた暴徒にほかならない。かれらの目的はただひとつ、憎悪すべき幻術使をなぶり殺しにすることだけ。その一点に意識が集中している以上、それをうまく誘導することさえできれば意外にたやすく状況は好転させられる。
だが獰猛ないきおいに後押しされた巨大な憎悪を御するのはなみたいていの難事ではないこともたしかだった。
力技だけではどうしようもない。細心の手練をも要する困難きわまる施術を要求される状況なのだ。シェラは修行中の身だった。簡単な幻術ならひとりでも駆使できないことはないが、この場合は施術に加わらせるわけにはいかない。うちに秘めた力をアリユスに同期させ、助力となすくらいが関の山だった。
アリユスはシェラから幻力をひきだし、それを受けて自分の力と混交させ、そして微妙な制御を加えて送りだす。
いまやひとつの怪物となりかわった群衆の憎悪の鼻先に、幻像を解き放った。
そして、そのゆくさきを限定するかのごとく、馬車が交差路にさしかかった瞬間に指をさし示した。
その方角に、放たれた幻像がそれた。つづいて、波濤のようにうねる怒りに支配された群衆もまた、わき道になだれこんでいく。
その最後尾が街区のむこうに完全に消えてしまうまで、三人は声もなくその光景を見守った。馬車はとめられている。
「いいわ。いきましょう、ライル」
やがてかけられた声に、男は眠りから叩き起こされたような顔をしたが、すぐに鞭をふるい直した。馬車はゆっくりと走りはじめる。
「ガフティリウというのは、二百年前にある幻術使が喚びだした異界の神の名だ」
御者席で鞭をふるいながら男は話しはじめた。
「それより以前は、ここらあたりはひどく地味のうすい寒村にすぎなかったらしい。田や畑をおこしても収穫は不安定で細く、潮のせいか漁獲もふるわない、いつも飢餓ととなりあわせの貧しい村だったってことだ。そもそも村のおこりが罪人の追放地であったという話まで伝わっている場所でな。そこへ幻術使がとおりがかり、村のあまりの窮状をあわれに思ったか、ある方策を村人たちに申し出た――そうとも、ありそうにない話さ。ただの民話だろう」
男が自嘲的にそうつけ加えたのは、当の幻術使であるアリユスが妙な顔をしてみせたからだ。
ありそうにないのは、幻術使が村の窮状を見かねて救いの手をさしのべる、という部分だった。
基本的に、幻術使がひとつの土地の抱えこんでいる命運にかかわる事態というのはそうそうある話ではない。命運とは縁だ。地やそこに住むひとびとと密接にからみあっている。飢餓がつきまとっているのは、もともとその地が力弱く汚れた場所であるからだろう。それをくつがえすには、膨大な労力や、ときにはおそるべき犠牲さえもが要される。むろん、それを手がける幻術使自身にもおおきな対価が要求される。場合によっては、地の縁を変えようとして術士が命を落としただけで、状況はいっそう悪化する、というようなことにもなりかねない。
それほどの危険を犯すには、まちがいなく幻術使に相応の謝礼が払われなければならないのだ。飢餓につきまとわれた寒村にそのようなものを用意する余裕などなかっただろう。
となれば、考えられる可能性はすくない。
異界の神、と男はいった。もともとこの地は、異界に近しい場所であったのかもしれない。そういう場所はこの世界にすくなからず存在する。異界からの恩恵を受けるめぐまれた土地であることもすくなくはないが、異界からの悪縁を引き受ける忌地であることもまた往々にしてあり得ることだ。ここはそういう場所だったのかもしれない。
異界とは、この世とは相を異にした場である。水の流れをかえるように、相の段差を入れ替えることが可能なら、忌地を福地にかえることも可能な場合はたしかに存在する。
だがたとえそうであるにしても、相をかえる、というそれだけで大きなゆがみがこの世にもたらされることにちがいはない。
「幻術使が喚びだした神はたしかに、この地に福をもたらした。おそろしい地震がおこって地勢ががらりとかわり、孤立していたこの地がひらけた場所にかわってしまったのだ。ほどもなくここは交通の要地となり、交易都市として生まれかわった」
つづいて語られた男の言葉が、アリユスの想像をうらづける。おそろしい地震でこの地におおきな被害がでたかどうかはともかく、孤地が交易都市にかわるほどの天変地異がほんとうに起こったのなら、おそろしい災害が一帯をおおいつくしたことだろう。それでこの街が繁栄を手に入れたのだとしたら、それはほかの地から吸い上げた血のあがないによることになる。
「だがいいことばかりではなかったらしい。繁栄をもたらすかわりに、喚びだされた異界の神はべつのことを要求してきた」
「生け贄、ですか?」
シェラの問いに、男はうなずく。
「そうだ。若い処女をひとり。毎年かならず捧げなければならなかったと伝説には語られている。あらぶる神を鎮めるために幻術使はおのれ自身の、神との融合をはかったというが、それはうまくいかなかったらしい」
あるいは、とアリユスは考えた。幻術使は最初から異界の神の力を己がものとしたいがために、地縁に手をだしたのかもしれない。となれば、融合がうまくいかなかったのかどうかもわからなくなる。
「そうして百年ほどは、贄をさしだしつづけてきたんだそうだ。だが街がうるおい、世代がかわっていくにつれ、おそるべき神に対する信仰はうすれ、かわりに忌避が街をおおうようになった。だが贄をださなければ神は荒れ、災いがおとずれる。だからべつの幻術使をつかって、封印することにした。そのころはまだ、ほかの場所ではともかくこの街にとって幻術使とは、福をもたらす存在だったのさ」
嘲る口調で男はいう。
「異界の神はおそるべき力をもっていたから、何人もの幻術使が返りうちにあってあえなく命を落としたってことだ」
これも伝説に脚色された部分だろう、とアリユスは想像した。祀られている神がどの程度の力をもっているのか、おおよそのところは幻術をきちんと身につけた者ならば推測できる。返りうちにあって命を落とすほどの力の差があれば、まともな幻術使なら最初から闘いを挑みはしない。命を落としたのは幻術使の身分を騙って街から大金をせしめようとした、想像力のたりない三流詐欺師のたぐいにちがいあるまい。
だが、いつかは真に力もつ者がおとずれる。――アリユスのように。
「そのうちに、ウリアとかいう名前の幻術使がおとずれてな。伝説によっちゃ、そのウリアってのは幻術使でなく賢者ともいわれてるんだが。まあとにかく、そのウリアはよ。ファロイスの月がみちてから欠けるまでのあいだ、ガフティリウと死闘をくりひろげたあげく、どうにか邪神を封じこめることに成功した。自分の命とひきかえにな」
「なら、賢者かもね」
アリユスはつぶやく。
賢者は幻術使の域をこえ、神仙の境界にたどりついたたぐいのものをさす。幻術使は人間的な生理や欲望に支配された地上のものだが、賢者は天界に属する存在であるといわれる。したがって大所高所からの見地でもってその行動を律しているとされ、世界の安定のためにその秘術を駆使する。見返りは求めないか、あるいは常人には想像もつかない見返りを想定して行動するため、ひとびとにとって無私の善行と思える行為もたびたびなされるという。もっとも、賢者と呼ぶべき存在そのものが太古のむかしから数えるほどしかあらわれていない、ともいわれているため、現実に目にする機会などまずあり得ない。
いずれにせよ、自分の命とひきかえに邪神を封じるような行為をなすのは幻術使ではない、というのが一般的な認識だ。もっとも、表にはあらわれない卑賤な目的が隠されている場合も往々にしてあるため、いちがいにそうだともいえないのも確かだった。
「どうだかな」と男はくちびるの端をゆがめていった。「邪神は封じられたが、完全に、とはいかなかったんだ」
「でしょうね」
うなずき、アリユスは頭上を見あげる。渦まく巨大な邪念は、どすぐろくどろどろと攪拌されながらいましも落ちてきそうにそちこちに、重く粘る泥濘の触手を下界にむけてのばしはじめていた。
「封印を受けてガフティリウの苦悶の声は街全体をおおいつくし、三日三晩ひとびとの頭蓋内で荒れ狂った。大部分のやつらが一時的に発狂したくらいにな。そのまま狂っていられれば、かえって幸せだったかもしれない。だが一部のやつらをのぞいて、正気をとり戻した。おそるべき記憶を保持したままな」
「おそるべき記憶、ですか?」
不思議そうにシェラがききかえし、かぶせるようにアリユスが、
「呪言、かしら」
と問うた。男はうなずく。
「ガフティリウが封印されたのは天空だ。賢者だか幻術使だかがなんでそんなところに邪神を封じたのかはわからない。異界へとつづく穴がそこにあったんだって話だ。だが、完全に異界に閉じこめてそこに蓋をするわけにはいかなかった。邪神がこの世界に強く執着しちまったからだそうだ。ガフティリウは街の頭上に閉じこめられたが、その爪と牙の一端がこの世界にくらいついた。で、狂気の荒れ狂う街に神の声が呪いの言葉をふりそそがせた。かならず戻ってくる、とな。全身全霊をかけて封印をうちこわし、悪夢となって街にふりそそぐ、とな。そのときに自分の命運もつきるが、むろん街をも道づれにする、とな。めいわくな話だぜ。そうじゃないか? おまけに、そのときに街に封印をかけ返したらしいんだ。その瞬間に街の内部にいた人間は、絶対に境界を越えることができないようにな。結界、て、幻術使はいうらしいな? その結界で、街をおしつつんじまったのよ。以来、街の人間がそこをこえようとしても見えない壁に阻まれてこえることがどうしてもできねえ。それから、二十五年だ」
「それが約束のとき?」
「ああ」
「なるほど」アリユスはひとりうなずく。「そのときに生きていたひとびとの多くが、寿命つきずにいられる程度の時間だわ。恐怖は一日ごとに増幅していく」
「そのとおりさ」
「街の人間以外なら、自由に出入りすることができるのね?」
「ああ」
「だいたいわかったわ。で、あなたのことなんだけど」
問いに、男はふいにだまりこんだ。
馬車が音をたてて停止する。
いななく乗獣にむちをあてておちつかせると、男は静かにふりかえった。
「街の境界だ」
皮肉に唇の端をゆがめて、笑んでいた。
さし示した手のひらのさきに、手に手に武器をにぎりしめてたたずむ無数のひとびと。
みな、無言だった。しわぶきひとつない。
ただだまりこんだまま、炎熱がただよってきそうなほど憎悪にみちた視線で、馬車を、ライルを、そしてふたりの幻術使をにらみつけていた。
「術が解けたのかしら……」
つぶやいたシェラの口調が、ふるえていた。
「追いついたんだと思うわ」無表情に、アリユスがこたえる。「わたしが放った幻影に、またたくまに追いついて殺到した。まちがえて、あるいはいきおいのままに、仲間を何人かまとめて袋だたきにでもしたかもしれない。とうぜん、わたしたちの死体はそこにはないから」
「怒りを増幅させて、ここにきた、というわけだな」ライルがあとをひきとった。「それにしてもすばやいぜ。たしかにやつらを捲く目的でまわり道をしたことはしたが、途中まではおなじ道すじをとっていたんだ。なのに、もうさきまわりしてやがる」
街路が入り組んでいるせいだろう。海浜の街だった。丘陵にへばりつくように形成された街区は、馬車では通りぬけできないような裏道であふれかえっている。
「襲われたらどうなる?」
ライルの問いに、
「ひとたまりもないわ」簡潔にアリユスはこたえた。「この人数。爆発寸前の怒気。制御不能よ」
「“壁”は?」
「いちおう。でも、いっせいにおしよせてこられたら、ものの役には立たないでしょうね」
け、と男は吐きすてる。
「じゃ、襲ってこないのは単に、ためらってるからってだけだな」
「あの、あまりそういうことは口になさらないほうがよろしいんじゃ……」
声を低めてシェラがいう。
ライルは笑った。声をたてて。
そしていった。
「あんたたちにしてほしいことは単純だ。おれを結界からだしてほしい」
「邪神の呪いを解け、と?」
「力の強い術使なら、ひとりやふたりは解放できないこともない、ときいた」
「力の強いひとならね」アリユスは笑った。「たぶん、バレエスじゅうさがしても三人とはいないと思うわ。しかも、何ヶ月もかけてようやくどうにかできる、という程度」そして、空を見あげた。「いまふってきても、おかしくないわね」
「日没が刻限だ」あっさりと男はいった。「あといくらもねえ」
「そんな……」
シェラがつぶやく。むりな依頼に対するいきどおりではなく、男の――そして街の命運への悲憤を感じての言葉だった。
「あきらめるしかないわ」
淡々とアリユスはいった。
「二十五年間、そのことだけを思いつづけてきた。あきらめきれない」
静かに、男はいった。
静かだが、底しれない力が、その言葉にはこめられていた。
そしてつづけた。
「ひとつだけ、有利な条件がある。おれは呪いがかけられた瞬間、街の境界にいた。ちょうどどまんなかだったらしいな。皮肉なことによ。あと一歩踏みだしていれば、おれは呪いとは無縁でいられたんだ。女房とおなじように」
「逃げる途中だったわけね」
「ああ。だから、からだはんぶんだけなら、街の外にでられたんだ。だから、二十五年かけてあがきつづけた。指一本ぶんでもいい。すこしでもよぶんに、外にでられるようにってな。そうして、左の足首を残して、どうにかあがきでることができるようになれたんだ。結界ってやつからな」
「虚仮の一念だわ」
アリユスは苦笑した。
ユール・イーリアの幻惑がとかれたいま、街の境界によどむ結界の全貌はアリユスの幻視にもはっきりと視えている。とても、秘界のことわりを知らぬ人間が破ることのできるような性質の壁ではない。力のある術使でも、丹念に切り崩していかなければどうにもならないだろう。それを、執念だけでやってのけたのだ。
「おれひとりじゃ、時間がなさすぎるんだ……」男は、つぶやくようにそういった。「街から逃げようとしていたとき、女房は身重だった。おれは結界につかまっちまったが、どうにか女房はその圏外にでられたんで、外にださせたんだ。おれは、街がこんなことになる前には貿易商をやっていてな。それなりに蓄えもあったから、身重な女ひとりでもどうにかできるだけの財産はもたせてやることができた。幸い女房のほうは街への出入りは自由だったからな。すこしずつ金をもたせては送りだすのをくりかえした。そうして、娘が産まれた。アレムと名前をつけたよ」
「アレム……いい名前ですね」
シェラがいった。ライルは笑った。その笑顔だけには、一点のくもりもなかった。
「名前どおりの、いい娘さ。時間を見つけては、女房といっしょにおれを訪ねてきてくれた。ふたりが訪ねてきてるときだけは、おれはふつうの家族のなかにいられたんだ。だから、約束した。いつかかならずこの呪われた街をでて、外でおまえたちを抱くんだってな。娘と指切りをしたんだ」
「その娘さんも、いまはずいぶんおおきくなられたんでしょうね」笑いながらシェラがきく。「わたしよりも年上だわ。ご結婚なさってるのかしら」
男はこたえなかった。かすかに、顔がゆがんだだけだった。
頭上に邪神の呪詛。
周囲には、おなじ境遇におとされた者たちの憎悪と怒り。
ながい沈黙は、それらに負けないだけの哀しみを内包しているように、アリユスには思われた。
やがて男がいった。
「約束したんだ。果たすことなどできねえって、おれ自身思っていた。それでも、おれは訪ねてくる娘に教えたんだ。約束を守ることのできないやつは、人間として失格だってな」
「わかったわ」
短く、アリユスがいった。
男のほうが、むしろ驚愕の表情でふりかえるほどあっさりとした口調で。
不審と不安と、わずかに芽生えた希望が潰えることへの恐怖をひそめた狂おしい凝視を真正面から受けとめながら、アリユスはうなずいてみせる。
「やってみるわ。あなたはご家族と会いたい、その気持ちだけを思えばいい。それが、力になる」
しわにうもれはじめた男の目じりに、にじむものがあった。
それを流すかわりに、男は無言でうなずき、ふところから宝石をさしだした。
軽く受けとり、アリユスは決然という。
「時間がないわ。囲まれている。境界はかれらのうしろね?」
男がうなずく。
「つっこむしかないだろうな」
「馬車はぬけられるの?」
「馬もな。人間だけだ。呪いの影響を受けているのは」
「そうすると」シェラが口をひらく。「御者席にいるあなたは境界に投げだされてしまいませんか?」
「たぶんそうなる。へたすりゃ、車輪にひきつぶされるだろう。そうならないためには、とびでるしかない」
「いたいたしいわね」
アリユスはいって、かすかに笑った。
男も笑いかえす。
「この街での二十五年間にくらべりゃ、なにほどのこともないな」
ぺろりと、唇をなめた。
「いくぜ」
低く宣言する。背後のふたりがうなずくのを待って正面に向き直り、中腰に立ちあがった。
「どかねえとひき殺すぞ! おれは娘に会いにいくんだ。だれにも邪魔させねえ!」
腹の底から、吠えた。
瞬時、憎悪一色に色彩られていた街のひとびとのあいだに、とまどいが走りぬけた。
それが行動に反映するのを待たずに、男は乗獣に鞭をくれた。
獣はいななき、疾走を開始した。
巨大な質量の突進に、人垣が左右に割れる。
男はとんだ。
外へとむかって。
土けむりを蹴立てて馬車は走りぬけ――
男から手綱を受け取ったアリユスが乗獣に制止をかける。
急激な停止に慣性が乗物をおおきくきしませ、弧を描きながら馬車は横だおしになった。
投げだされる前にアリユスはシェラの手をひいてみずから地にころがる。
痛撃。
それでも、子どものころから旅の道にあったアリユスは、身を守るすべを本能的に覚えていた。受け身をとり、うけるダメージを最小に抑える。シェラもまるくなってころがった。王族に生まれた娘だ。武技のひととおりは身につけていた。
打撲と傷を全身にうけ、ほこりまみれになって、それでもふたりは中腰で姿勢をととのえた。
視線をおくる。
街の境界に。
ライルが、たおれていた。
手をのばしたかたちで。
左足だけが、異様なかたちで後方にのびていた。
脱臼か、あるいは骨折しているかもしれない。左足だけをつかまれたかたちで、急激な速度で投げだされたのだ。無事ではすまないだろう。
それでもその両の目は、苦痛よりも渇望に燃えたっていた。
「シェラ、共感魔術!」アリユスが叫んだ。「かれの、アレムに会いたい気持ちを力にかえる。増幅するのよ!」
シェラはアリユスを見かえした。
すでに幻術使は印を結び、施術の体勢をととのえている。
瞬時のためらいののち、シェラはうなずくまも惜しんで印を結び、目をとじた。
共感魔術。被術者の精神に同調し、その望みを増幅して力にかえる幻術である。通常、他者に呪詛をほどこすときにもっとも多く用いられる術だが、この場合のように渇望をほかの術の原動力にかえるケースもある。
シェラはもともとは王族の娘だった。幻術には無縁だ。事情があってアリユスと旅をするようになってから、望んで幻術使に弟子入りしいくつかの簡単な術は覚えたものの、こういう場合に役にたつ技術を身につけるにはいたっていない。
そんなシェラが唯一、役立つ以上の力を発揮することができるのがこの共感魔術だった。
もとより、他者に対してやさしすぎるほどの娘である。それが力になっているのだ。呪詛の場合にはまるで役にたたなくとも、娘に会いたい一心の父の渇望には、じゅうぶん以上にのめりこめるはずだった。
アリユスは呪文を口にする。
歯をくいしばり、ライルはそんな女たちの姿を凝視する。
その背後で――
ぼうぜんとたたずんでいた街のひとびとの顔に、ふたたび血色の憎悪が噴出した。
殺到する。
思いがたりない! 狂おしくアリユスは心中叫んだ。
シェラの共感は、効力を発揮していた。アリユスが予想していた以上に。ライルの足を結界からひきぬくなど、さしたる難事でもないほどに。
たりないのは――ライル自身の思いだった。
なにがなんでも結界をぬけたい――その思いが、決定的に殺がれていたのだ。
ためらいに。
怯懦、といいかえてもいいかもしれない。
ライルの顔貌には、たしかに怯懦がうかびあがっていた。ぬぐいがたく。
その対象がなんだったのかは、アリユスにはわからない。
だが、街のひとびとが残された左足に殺到するのをとめる間はなかった。
くちびるをかみしめ――アリユスは呪文をかえる。
「風の刃!」
叫びとともに、疾風が空を走った。
血しぶきが舞いあがり――
ライルのからだが、前方にまろびでた。
――左足だけを残して。
境界面が、鋭利な刃物に打ち落とされたかのように、すっぱりと切り裂かれていた。
男はぼうぜんと視線をあげる。
そして――ふたりの女が目を瞠っている姿にいきあたり――
背後をふりむく。
溶けた熱鉄のような暗黒が、あふれかえっていた。
はみだした無数のひとびとの顔に、純粋な苦痛が膨れあがる。血の涙。声なき絶叫。
つきだされた手のひらはなにをつかむでもなくむなしくふるえ――
一瞬後には溶け落ちた。
骨だけになり、それもまた溶かした飴のようにどろりと崩れ落ち――
蒼穹。
風にふるえる樹木。立ちならぶ家並みと石畳の街路。
丘状に落ちこんでいく傾斜のはるかかなたに、無数につづく甍の波をこえて凪いだ海が青く、青くひろがっている。港には、いくつかの船影が、音もなくゆらめいていた。
すべてがもとの姿に復していた。――ただ一点をのぞいて。
人影が、ぬぐい去られていた。
狂おしく息づいていたすべての街人の姿が、一掃されていたのだ。
静寂だけが、しらじらしく街路を吹きすぎた。
「……そんな……」
ぼうぜんと、シェラがつぶやく。アリユスも、ライルも気づいていた。
風が吹きすぎる街路に、かすかに――人型の影が刻印されていることに。
ぶちまけられた煤を風が払ったあとのように、かすかに、無数の影が石畳の上にはりついているのだった。
りんかくすらさだかならぬおぼろなその姿は、苦痛にもがいているとも、あるいは希求する安楽を手にした歓喜に踊っているとも見えた。
いずれにせよ――邪神の呪詛は成就したのだ。
隣村でほどこされた手当ての甲斐あってか、男の足は順調に回復しはじめていた。むろん、旅なれたアリユスの応急処置が効力を発揮していたことはいうまでもあるまい。
高熱にうなされて三日三晩生死の境をさまよっていたこともまるでうそのように、男はおだやかな寝息を立てていた。
「もうわたしたちにできることはないわ」
男の枕辺で、アリユスはつぶやく。目に涙をためて、シェラは無言のままだった。
「報酬は受けとったわ。そろそろいきましょう。つぎの街へ」
アリユスはいい、それでもシェラは身じろぎひとつできずにいた。
うなずくだけでも、涙があふれそうだったからだ。
はりつめていたものがいちどきに切れたせいか、街の滅ぶ姿を目にした直後に男は意識を喪った。うなされながらこんこんと眠りつづける男を交互に背負い、隣村にたどりついたふたりは、男の知人だと名乗る村長の屋敷に招じ入れられ、そこで看病を家人にまかせて当主の歓待を受けることとなる。
そこで、すべてを知らされた。
男に妻と娘がいたことはほんとうだった。その妻と娘が、ひまを見つけては男を訪ねていたということも。
だが、それも娘が五歳になるまでのことだったらしい。妻はその年に再婚し、もう男を訪ねることはできないと手紙をしたためたのだという。その手紙を届けたのが、当の村長だった。
最初は娘は父親を恋しがったが、それも新しい父に慣れるまでのこと。弟ができ、新しい家族と良好な関係を構築できていくにつれ、娘の記憶からも前の父親の影はうすれていき、やがて口にしなくなった。それでも一、二度は街に会いにでかけていった形跡もあるらしいが、それだけのことだった。
数年前にはその娘も旅芸人の一座の若者と恋におち、かけおち同然で旅立っていった。それ以来音信不通だという。
以前の妻とその夫子も、新しい事業をはじめるために土地をうつり、いまどうしているかはわからない。
そして、男はそのことを知っていた。
村長と同郷のものが街の人間に口さがないうわさとしてその話を流し、それはまたたくまに男のもとへも伝わっていったのだ。からだ半分であろうと呪詛から自由である、という、そんなちいさなことすら、街のひとびとの羨望と憎悪の対象だったのだろう。残酷な真実を堰き止めるだけの思いやりは、すでに呪われた街からは失われていた。
男が、それを信じたのかどうかはわからない。男がはぶりのいい時期には、村長もいろいろと世話になっていた縁で幾度か男を訪ねたのだが、すっかり無口になった男は家族のことは話したがらず、ただ外にでる日が近づいていると呪文のようにくりかえしていたのだそうだ。
外にでようとする狂的な努力は、むしろそのころにはじまったらしい。はたで見ていてもうすら寒くなるような執念で男は日夜、街の境界にでかけては結界の見えない壁を相手にもがきまわり、そしてついに左足を残して外にでられるほどに至ったのだという。
それが、ひとつきほども前のこと。
そこまで至って、男の努力がふいにぷつりととぎれた。それまでの執着を抱きつづけていれば、期限までにはまちがいなく街の外にでられただろう。もちろん、嫉妬に狂った街人たちが無事にそれを見逃すはずはない、という危惧はあったものの、それでも努力をつづけることはできたはずだ。
だが、うかされていた熱から醒めたように男の執着はとぎれ、かつてはそれなりの威容をほこっていた屋敷の近くにある瓦礫の山でぼうぜんと空を見上げるだけの日々が幾日もつづいたのだという。
そして、アリユスとシェラが街をおとずれたのだ。
なにが男の気をかえたのかはわからない。少なくともアリユスとシェラには見当もつかなかったし、男のことをよく知る村長にしても、シェラの容貌が娘の成長した姿を思わせたからではないのか、とありきたりな推測を口にするくらいが関の山だった。村長自身がそれを信じていない口ぶりだったし、シェラとアレムとは容貌も雰囲気もまるでちがっている上、アレムを思わせる年頃の娘なら街にも何人もいたはずなのだ。
ともあれ、男は望みどおり街をぬけだし、片足をなくしはしたものの、果たされぬかもしれぬ約束を果たすことのできる自由を、手に入れることができたのだ。
うなされつづけた最後の夜、ふと正気をとり戻した男が枕辺にアリユスとシェラを呼んだ。高熱はつづいていたものの、苦鳴は影をひそめていた。ふたりを横にして男は、ながいあいだ無言のままでいた。目をとじていたので、ふたりがくるのを待てずにふたたび眠りこんでしまったのかとさえ思われたのだが、やがてひとことだけ、なにかを口にした。
つぶやくような、口のなかだけで発された言葉だったから、さだかには判別しがたかった。
シェラはそれが「ありがとう」だったといってゆずらなかった。アリユスは、そうだったかもしれないわね、といってあいまいに笑ってみせただけだった。
それから急激に男は回復にむかい、いまは平熱に近く寝息もおちついている。
ふたりの幻術使は貧しい村なりにあたたかいもてなしを受けて今日までをすごしてきたが、その滞在が負担になっているらしいことをおぼろげに察して、辞去する旨をついさっき伝えてきたところだった。ひとのよい村長は、せめて男が正気づくまで待てと強くすすめたがアリユスがそれを固持し、身じたくをととのえて最後のわかれを告げにきたところだ。
寝入ったまま目をひらく気配すら見せない男を、シェラはながいあいだあかず見つめつづけた。
「わたしたちにできることは、もうないわ」そんなシェラにアリユスは、もういちどくりかえした。「あとは旅立つだけよ」
その言葉をきいてはじめてシェラは、もしかしたら男はもう目覚めているのかもしれない、ということに思いあたった。
さし染めた陽光は徐々に天へともちあがり、すでに昼近くにまで至ろうとしている。村は静かに横たわり、子どもたちの遊びさわぐ声が遠くからかすかにひびいていた。男は寝息をたてつづける。
ふいにシェラは涙をあふれさせ、声を抑えて泣きながら男の手をとって握りしめた。
おとうさん、と口にしようとして、思いとどまる。なんの意味もない言葉だ。
ふりもぐように手を離し、アリユスの手と肩をとってなだれるように部屋をでた。
「いくわ、アリユス」
うわごとのように泣きながらそうくりかえし、言葉とは裏腹に部屋の外にたたずんでシェラは、ながいあいだ、ただ泣きつづけた。