双  身


 

 ふたつに別れていた。
 半身は、天使のように汚れなき純白の玉の肌。だがしかし、喉もはり裂けんばかりに泣き叫ぶ赤子の、もう一方の半身は――灼熱の炎で灼き焦がされたかのように、どすぐろくささくれだっているのだった。
「魔であろうの」
 占い師の老婆が、しわがれた声で告げた。
「そんな!」
「ちがいます!」
 ながいお産の苦痛を経たはずの母の声のほうが、さきにあがった父の悲鳴より大きく、そして恐怖にあふれていた。
 占い師の老婆はしわに埋もれた底からじろりと、下半身をむきだしにしたままの母に視線を投げかけ、
「魔がこの赤子をのっとろうとして、このようなむごたらしいことになってしまったのじゃ」
 今度は断定した。
「ちがう!」
 叫びながら弾かれたように身を起こす母を、医師がとりおさえる。
「呪われておるわ!」
 断ち割ったように、正中線を境に純白と暗黒とに染めわけられた赤子をながめ降ろしながら、老婆は吐き捨てた。
 ちがう、そんなことはない、これは何かのまちがいです、と半狂乱であばれる母親を、医師と夫とが必死になって抑えつける。
 赤子は、泣きつづけた。そして老婆は、情け容赦なく宣告する。
「忌み子じゃな」
 と。母の慟哭は受け入れられず、かくして赤子の命運は定められた。
 忌み子の名前は定まらない。ひとびとが憚ってその名を呼びたがらなかったから。村では、ロフ、とも、タラフィッツとも、またブログとも呼ばれた。順に“膿”“呪われた者”“暗闇”との意味だ。
 殺すべきか、あるいは追放すべきかはもちろん検討された。こういう場では、占い師の言葉がすべてだ。殺すべきでも追うべきでもない、と老婆はいった。慈悲憐憫のたぐいだったのかもしれない。ただ、おそらくはどこか別の土地へいくか、それともいっそ殺されていたほうが赤子にとっても、そしてほかの多くのひとびとにとっても幸いであっただろう。
 不幸なことに一家は、村と山との境界に位置する荒れ地に追いやられた。キゼの獣が夜通し不吉に遠吠え、明け方にはアハガラの鳥が、法、法、とものがなしく鳴きわたる土地だった。痩せ枯れた土地につくった貧しい畑から得られる不安定な収穫で親子は生きのび、倦み疲れていった。村の者からの施しもあったが、飢えに追いつきはしなかった。
 呪われた赤子は――否、ほんとうに呪われていたのかどうかなど、いまとなってはだれにもわかりはすまい。ともあれ赤子はそれでも成長し、そして育つにつれその醜悪さは際だっていった。半身は天使。左から見ればまこと汚れなき、都の一流の人形師の手になる美童そのものだったが、その半身が美しければ美しいほど、残る半身の醜さもまた強調される。
 村人らは忌み子に近づくことをひどくおそれ、その姿を目にすることさえきらった。とうぜんのごとく子どもらにも、荒れ地の鬼子には近づくべからず、と強くいいわたされていたが、いたずらざかりの者どもにとって禁令は、破ることの甘美さを付与するだけだ。
 ものごころつく遙か以前から、忌み子は蔑視と迫害にさらされつづけた。姿を見せただけで大人どもは唾を吐き悪態を罵り散らし、害虫をでも追うように、時には忌み子を打ちすえもした。それでもましなほうだった。大人たちの目を盗んで忌み子のもとへと訪れる子どもらは、純粋な残酷さを思うさま発揮してロフをいたぶり苛み、生死の境に陥らせるような所行すら一度や二度ではなかったらしい。
 もっとも、何より忌み子自身耐えがたかったのは、両親のいさかいと暴力だった。父は働きもせぬまま日がな一日どぶろくの劣悪な酔いに浸りきり、きさまさえいなければと忌み子を打ちすえるのが日課となっていた。母は泣きながらわが子をかばったが暴虐の嵐を防ぎきれるはずもなく、忌み子はその外見どおりに内面をも滅多打ちにされて歪ませていく。言葉少なく、一日じゅう何もしゃべらないことも珍しくはなかった。どれだけ暴力の洗礼を受けようと抗わず黙って受け入れ、泣くことすらしなくなった。生傷は絶えなかったが、あいかわらず半身だけは天使のように美しく、その美しさにつけられた無数の傷がなお狂った父の嗜虐心と母の過剰な憐憫とをあおる。
 忌み子が少女と出会ったときには、九つの歳を数えていた。
 森の奥によどむ底なし沼は古来より多くの犠牲者をのみこみつづけてきた。その背後にはかつて地下へと追放された呪われた一族が崇拝していた悪鬼の神殿が擁されていると噂されてもいた。もっとも、沼の背後には崖がそびえ立っているだけで、神殿らしきものなどどこにも見あたらなかったが。ともあれ一帯は禁地として封せられ、近づく者はなかった。だからこそ忌み子の、唯一のくつろぎの場であった。
 一日のうちのほとんどの時間を、よどんだ、重い暗闇の底にたゆたう陰気きわまりない場所だったが、唯一、太陽が中天をよぎるほんの数分のあいだだけ、沼の周囲は陽光にみたされた。そのときばかりは、いつもはタールのようにどんよりと重くよどむばかりの水面がきらきらと輝きわたり、色あせた小さな花の群生がにわかに彩られて風にゆらぎ、そして静けさが安らぎへと変わる――すべてほんの数分のあいだだけのことだったが、少年にはその時間が奇跡のように感じられた。
 酒くさい息にのせて障気を発する父をおきざり、疲れたからだに鞭うって畑をたがやす母の目を盗んで忌み子は沼へと出かけ、雲がでただけで崩壊してしまう脆弱でささやかな楽園の時間を過ごしてはふたたび安らかならぬわが家へとくびすを返すのが日課だった。
 ある日、いつものように丈高い下生えをぬって沼のほとりを訪れた少年は、そこに光を発見した。
 少女だった。
 歳のころは十二、三。少年にとっては遙かに年上の、手のとどかない存在だった。ほんのわずかな恵みの時刻、陽光は燦々とふりそそいで少女の白い素肌を黄金のようにきらめかせ、そのほかのすべての光景が色あせる。
 楽園を色あせさせた光輝は、それでも、否、それゆえか、少年の耳目を奪い、いっときだけは至福をもたらした。
 その至福も、すぐに破壊された。
 少女が、少年の気配に気づいてふりむいたのだ。
 女神のごとき美貌が、びっくりしたように目を見ひらいて自分を見つめる光景に、少年は瞬時硬直した。そしてつぎの瞬間、自分が忌み子である事実を思い出す。他者と迫害とは、少年にとって同じ意味だった。反射的に、背を向けかけた。
 奇跡はなおもつづく。
 少女が、微笑んだのだ。
 少年に向かって。
 その微笑みは、忌み子にとって火山の噴火にも匹敵する衝撃だった。その表情の意味するものをどう受けとめていいのかわからず、勢いのまま忌み子は少女に背を向け、一目散にかけだした。
 つぎの日は、朝から雨がふっていた。雨の日には、沼に楽園は降りてこない。のみならず、増水してやわらかくなった地盤に足をとられ、おぼれる危険すらあったから、さすがに忌み子も雨のときだけは日参をあきらめていた。
 だが、その日はおちつかなかった。あり得るはずもないのに、少女が沼のほとりに、きのうと同じようにたたずんでたゆたう水面を静かに見つめているのではないか、という夢想が頭にこびりついて離れない。
 親の目を盗んで出かける。むろん、沼には少女の姿などない。ゆるんだ地面に足をすべらせ泥だらけになって少年は帰還し、父の憂さ晴らしの道具となる。
 つぎの晴天には、大きな期待を抱いて沼へでかけた。もっとも、少年には期待と不安との区別がつなかった。胸の動悸が忌避感のそれとどう違うのかも理解できぬまま、これほど苦しいのになぜ自分はあの少女が沼のほとりにたたずんでいることを期待しているのだろうと自問自答した。答えなどむろんない。
 そして沼には失望が待っていた。少女の姿などどこにもなかった。それが当たり前のことのはずなのに、少年はひどく落胆した。おのれ一人の楽園であった正午の沼のほとりが、そのときから楽園ではなくなった。
 やがて少年は沼詣でをあきらめ、かわりに少女の姿を村にさがすようになった。
 人目については追われる。ときにはいわれのない暴力を受けて半殺しにすらされかねない。だから少年にとって村に足を踏み入れるのは、ある意味で沼に足をとられることより遙かに危険な冒険だった。大人たちに追われ、悪童に打たれ、犬に吠えられて幾日かをやり過ごし、それでも少年はあきらめなかった。
 村では忌み子が境界を侵しはじめたことが問題になった。両親にきつい禁令と罰則がほのめかされ、いつも以上に忌み子は父の暴虐に打たれたが、それでも胸の奥底にすみついた少女の微笑みの幻像は、少年を駆り立てることをやめなかった。
 ながい時間をかけて少年は、だれにも見とがめられずに村の奥深くに進入する方法を会得し――たどりつく。
 少女は、村の長老家の娘だった。村では力もつ数家族のうちの一家で、なかなかの権勢をほこっており、兄が五人、騎士きどりで少女をとりまいていた。
 少女は病弱であるようだった。いつも屋敷の奥深くで床についているか、背もたれのついた椅子にものうげにすわって庭の一角をぼんやりとながめていることが多かった。
 最初のうちは、少年は少女の姿をものかげから仰ぎ見るばかりだった。それだけで胸がいっぱいになって、満足でいられるような気がした。だがそれは己への欺瞞でしかない。
 あるとき、少年が隠れひそんでいる目の前で少女が胸をおさえて苦しみだした。飛び出したとき、自分はそういう機会を心待ちにしていたのだと自覚した。そしてまた――胸をかきむしりながらもがき苦しむ少女の、まるめた背中に手をやりながら、少年はそこに何をすることもできない無力きわまる自分を発見して愕然とする。
 すかさずかけこんできた五人の兄たちに、咆哮とともに袋叩きにされ、ごみくず同然に投げ捨てられた。が、かれらが踏みこんでくる寸前――ばたばたとけたたましい足音が少女の居室に急迫したとき、少女は咳きこむ息の下からたしかに少年に告げた。
 十日後の、フェルナンの月の出に、と。
 混乱が少年を襲う。混乱と、そして狂おしい熱望とが。
 月の出の時間に、自分の部屋を訪れよ、という意味なのか。
 忌み子の境遇から、そんなことはあり得ないとしか思えなかったが、ほかに解釈のしようがなかった。煩悶と懊悩の十日ののち、忌み子は意を決して少女の部屋を訪れる。
 村の夜ははやい。事件のあった日から数日は、魔に魅入られた忌み子の来訪を警戒して警護を怠らなかった家人も七日めあたりから警戒をときはじめ、その夜は早々に寝静まっていた。少年はやすやすと屋敷の奥へと入りこみ、少女の居室へとおそるおそる、歩を踏み入れた。
 月光をあびて少女は、背中を壁にもたれさせた姿勢で、静かに夜空を見あげていた。
 入ってきた少年の気配に気づいたようすも見せず、少女はながいあいだ無言のまま。
 忌み子にとっては、息苦しい時間だった。
 またある意味では、陶酔の時間でもあった。月光にかすかに照らされて浮かびあがる少女の横顔は、少年にとってまさしく女神以外のなにものでもなかった。
 やがてふいに――少女が口をひらいた。
 言葉は少年にとってしばし、理解しがたい意味を内包していた。少女が口にしたのは、少年の名前だった。村人どころか、両親でさえ口にしなくなった少年の、ほんとうの名前。
 忌み子は答えることすらできずに、ぼうぜんと少女の横顔をながめやる。
 そんな少年に、少女ははじめてふりむき、そしてぽかんと目を見ひらいている少年の姿を目にして微笑んだ。
 どんな話を交わしたのかは覚えていない。会話らしい会話などほとんどなかった。それでも少年にとっては、その生涯でもっとも輝かしく、幸福にみちた時間だった。
 少女は言葉少なにおのれの境遇を語った。生まれたときから病弱で、いつも伏して過ごしてきたこと。外出を禁じられ、屋敷内の、それもほんの限られた空間以外はほとんど知らずにいたこと。フェルナンの月のでる夜は気分が昂揚し、からだもいくぶんか元気になること。そして沼で出会ったあの日、少女は初めて親の目を盗んで家をぬけだし、奇跡のようにだれにも見とがめられずに、あそこまでたどりつけたのだということ。
 なぜ沼を目ざしたのか、と少年は問うた。偶然よ、と少女はこたえる。村の地理など何も知らなかった。ただ不思議に昂揚した気分に駆り立てられるまま、目的もなく足を進め、気がついたらあの沼のほとりにたどりついていたのだと。
 運命が呼びあったのね、と少女は笑った。少年にとって、現実のものとは思われぬ言葉だった。
 そしてそのときふいに、少女はけだるげに首うなだれた。
 気分が悪いの? と少年は問う。少女はかすかに笑いながら首を左右にふり、すこし疲れただけ、とこたえた。
 もう、寝る? 名残おしさとともに、それでも少女を気づかい問いかけると、少女は無言でうなずいた。
 じゃあ、と歯切れ悪く背を向けかける少年に、
「つぎのフェルナンの月の日にも」
 少女は、そう呼びかけた。
 ふりむく少年に、すでに床に伏せりながら少女は淡く微笑み、約束よ、とつけ加えた。
 人形のようにこくこくとうなずき、少年は屋敷をあとにする。
 それから幾度か、少年は少女の居室を訪うた。屋敷の窓枠から外庭をとおして見える月をながめながら、距離をおいたまま言葉少なに語りあうだけの時間だったが、少年にとってそれはすべてとなった。少女がいることだけで、ほかのあらゆる悲惨や暴虐に耐えていけるような気がしていた。あらゆる理不尽を許してもいい、と。
 そうしてだれにも知られぬままに、ふたりの奇妙な逢瀬は五年つづいた。その五年のあいだに、母は心労から倒れたまま帰らぬひととなり、父もまたいつしか姿を消した。
 そして破局は訪れる。
 その年、一帯を天変地異が見舞った。まず日照り。秋は実りをもたらさず、もとより貧しかった村はまたたくまに蓄えも底をつき、飢餓がひとびとを襲った。そして秋になると今度は一転して水害が村に壊滅的な打撃を与えた。幾日もふりやまぬ雨は川をあふれさせていくつもの家や田畑をおし流した。
 そしてながい冬があとに控えていた。
 占い師は天に伺いをたて、ありきたりな結論を披露する。天は生け贄を所望していると。
 選ばれたのは少女だった。病弱な身でも村の役にたつことができるのを喜べと、占い師の老婆と村長をはじめとする長老家の面々はしたり顔で一家に告げる。権勢をほこるとはいえしょせんは共同体によりかかる身に過ぎぬ少女の一家も、神々の要請を退けることはついにできず、村には血色の祭りが形づくられていった。
 あきらめ顔ですべてを受け入れる、と口にした少女へ、月の夜に少年は初めて否定の言葉を口にした。
 生きるのをあきらめてはいけない、と。
 おのれの安楽しか考えぬ村人たちの思惑に流され、犠牲になるべきではない、と。
 自分自身の境遇に向けられた言葉であった。圧力の下に封じられて形にならなかった言葉が、少女の境遇に仮託されて呪文に変わる。
「逃げよう」
 少年はいつになく強い口調で、そう告げた。月に照らされた半身は神話の英雄のように美しく、ほこり高く輝いていたが、忌み子自身に自覚はなかった。
 少女はすべての想いを陶酔に流しやられて言葉を失い、ただ目を見ひらいたままうなずいた。
 手に手をとってふたりは屋敷をぬけだし、夜の村をかけぬけ、フェルナンの月光のもと、森奥深くへと踏みこんだ。夜の森は迷路だった。ながい時間をかけつづけたつもりで、ふたりは村の周囲をさまようだけだった。
 不幸なことに、若衆小屋からぬけ出して不埒な逢瀬を楽しんでいた二人づれが忌み子と生け贄との逃避行を目撃していた。争乱が夜の村を占拠し、安らかな眠りの変わりに、怒りにみちた追跡をひとびとに強要する。
 手にした農具は、魔に魅入られた不埒な妖物の化身を打ち倒すためだったかもしれない。しかるのちに少女は保護され、神のみもとへと召されるのだ。
 少年と少女は次第に追いこまれていき、いつしかふたりが出会ったあの沼のほとりにたどりついていた。
 奇跡のように、生い茂る樹木のすきまからフェルナンの月光が沼を照らしだしていた。よどむ水面は波紋すらたてぬまま静かに横たわり、無数の虫が鳴き騒いでいた。
 遠くから、かすかに犬の鳴き声がきこえる。近づいていた。
「もう逃げきれない」
 少年は絶望とともにつぶやいた。
 少女は少年の手を握り、ありがとう、とささやいた。
 え? と目をむいて少年が少女に視線をやったとき――発作が少女を襲った。
 咳きこみながら少女は沼のほとりにしゃがみこむ。昔日とおなじように少年は、少女の背中をぎこちなくさする以外に何もすることができなかった。父に内緒で母から教えられたいくつかの呪文を必死になって口にする。幸せを招ぶ呪文、幸福な気分になれる呪文、すばらしいことが訪れる呪文、すべて、母の願望の吐露に過ぎなかった。それでも、ほかにできることはなかった。村の医師や占い師に託しても、似たようなことしかできなかっただろう。
 少女の居室でなら、気休め程度の効果はあった。少年のとなえる呪文をきくと安心して眠れるのだと、少女は笑いながらいっていた。だがその夜だけは、状況が悪すぎた。夜を徹して追われながらあちこちさまよったあげくの発作。限界だった。
 キゼの獣が、空高く鳴きあげた。
 その余韻を断ち切って、無数の犬の吠え声が樹間をぬって接近し、忌み子の姿をみとめてひとびとの怒号がおしよせる。
 そのときにはもう、少女の息は絶えていた。
 悪鬼の形相で村人たちがおしよせてくることも、もはや少年にはどうでもいいことだった。かつてない激しさで袋叩きにされながら少年は、少女の死にのみ慟哭した。おしよせる痛みや悪意はむしろ、少女を救えなかった罪悪感を癒す道具だったかもしれない。
 凶猛な感情の発露を受けてぼろくずのようにされたあげく、少年の肉体は沼の底へと投げこまれた。黒いよどみが双つに別れた肉体をのみこむと、村人たちは哀号の叫びをあげながら少女のなきがらを運んで、祭りとともに天の神へと捧げた。
 どれだけの時間が経ったかはわからない。煙とともに少女の魂が天へと召されたあとだったのかもしれない。少年は目覚めた。洞窟の奥で。
 どうどうと滝の流れる音がきこえた。どこからか、かすかな光がさしこむなかで、少年は半身を起こして四囲を見まわす。
 ぎくりとした。
 何かが、少年のかたわらにうずくまっていた。
 黒いもの。ただどすぐろく、その双の目ばかりをぎらぎらと光らせた何かが、うっそりと闇の奥にうずくまっているのだ。
「だれ?」
 あとずさりながら問う少年に、黒いものはこたえた。
「おまえの半身さ」
 忌み子はおぞましさに顔を歪めて、おのれの半身を抱きしめる。ささくれた感触。呪われた人生の象徴。いまここで、魔に肉体をのっとられてしまうのか。
 想念を読みとったように、黒いものがかさかさと笑った。
「おまえの半身などいらぬさ。実をいうと、それはただの病だ。おれがおまえの半身だというのは冗談だ。だが、くれるというならもらってやってもいいぞ。おまえを苦しめてきたもの。おまえを縛りつけてきたもの。すなわち、それがおまえの所有するすべてだ。どうだ、それをおれにくれるか?」
 忌み子は、わけがわからず、ただ黒い影を見つめる。
 影はふたたびかさかさと笑う。
「復讐をしたいとは思わないのか。おまえから大切なものを奪い去っていった者どもに。捧げる、と一言いえばいい。そうすれば、おまえの宿縁すべてをおれがのみこんでやろう。おまえに与えられた侮蔑も、怒りも、迫害も、憤りや悲哀やその他もろもろの何もかもを。代償など必要ない。むりに奪わなくとも、おまえはそれをおれに捧げるのだから。さあ、いえ。捧げると。おまえの宿縁すべてを」
 捧げる、と少年が告げたかどうかは定かではない。すべては暗黒にのまれて、記憶すら残ってはいなかった。ただふと気づいたとき、とうとうときこえていた滝の音はとだえ、陽がさしこんでいた。
 まばゆい光にさそわれて少年は洞窟をあとにし、太陽のもとへと歩を踏み出した。
 異様な光景がそこにあった。
 巨人が滅多やたらに暴れ狂った跡のように、無数の樹々が折れ倒れて、散乱していた。地面がまだぬれている。嵐でもあったのかもしれない。それにしても、尋常ではなかった。原型を保っている樹木など、どこにも見あたらないのだ。
 奇怪なことに、地面がえぐりとられていた。巨人が力まかせに大地をこそぎとっている光景を想像したが、しばらく見ているとその正体に思いあたった。川だ。
 村の裏側あたりの森を流れていた川から水を干上がらせると、目の前の光景になるのだと看破する。となると、滝の音も裏山のものであったと納得できる。
 昨夜の黒い魔とのやりとりが夢ではなかった証であった。問題は、どこまで実現したか。
 忌み子は山を降り、村に走った。
 傷跡は歴然としていた。巨大な爪にもぎとられたかのように家々はことごとく破壊し尽くされ、ひとの姿はどこにも見あたらない。むろん村はずれの、少年の暮らしていた荒れ地の小屋も、影も形もなくなっていた。
 しばし少年は村の惨状をぼうぜんとながめやり――やがて、声を立てて笑った。
 あるいはそれが少年の、最初で最後の笑いだったかもしれない。
 陽光の照りかがやく蒼穹に向けて少年は、ながいあいだただ、笑いつづけた。血の絶叫のごとく、いつまでも、いつまでも。


 くびきから解き放たれた少年は各地を放浪した。少年の異相に、かつての村と同じく迷信的な恐怖を覚えるひとびともいたが、その一方で少年の境遇に同情し、厚遇をもって迎えるひとびともまた少なくなかった。いつまでもここで暮らしていけばいい、といわれたこともあったが、忌みきらわれた地と同様、少年は訥々とした礼の言葉を残してつぎの場所へと旅立っていった。
 少年の生まれた村をも含めて、一帯はひとつの王国に属していた。多くの村が貧しかったが、その原因は王国の税の過剰なとりたてにあったといっていい。加えて、新しく国を相続した王は暗愚というさえたりぬほどの、深刻なる愚王であった。うろんな呪術師にころりとだまされ天が望まぬといってはひとつの村に匹敵するほどの生け贄を要求し、祭儀のためと称して何千人もの人手を徴用しては大神殿を造営し、その一方で追従者を四囲に侍らせて国庫を浪費するばかりの祝宴を日毎夜毎くりかえした。各地に反乱の火の手があがり、軍との熾烈な攻防がおこなわれるのを後目に、愚王は祭りがたらぬのだとばかりにいよいよ狂乱の度合いを深めていく。
 青年となったかつての忌み子は、王国の中心地へと向かうにつれて戦乱にまきこまれ、気がついたときにはその先頭にたって戦っていた。四辺には双面神の伝説がいきわたっていた。かつての忌み子はいつしか神の具現とあがめられ、一軍をひきいて王国軍とまっこうからわたりあうまでになった。狂王と神人との戦において、勝敗の帰趨は明らかである。王国は崩壊し、あらためて神王とあがめられたかつての忌み子が、新たな国を築きあげる。
 二面王プラグ、あるいは双身王プラグといえば、伝説上の名とはいえ知らぬ者はまずいまい。王国は繁栄し、ひとびとはこの世の春を謳歌した。かつての忌み子は王妃を迎えて子をなし、あらゆる栄華が具現化した。
 それも、一代かぎりのこと。王が老いてその権勢衰えはじめたころ、五人の息子たちのあいだに後継争いが勃発する。明暗さまざまなかたちで争いは拡大し、ふたたび国は乱れた。陰謀逆まく王宮で、老王自身が暗殺の対象になるという事態にまで発展し――王は国を追われた。あるいはみずから身をひいたともいわれるが定かではない。
 ともあれ内乱が国を蹂躙しておそるべき混乱の嵐が吹き荒れ、弱体化を待ち受けていた隣接国があいついで牙をむき、血と慟哭がみちあふれて王国は崩壊した。かつての黒い魔がほくそ笑んだかどうかはわからない。
 ふたたび放浪者となった忌み子は目的もないまま世界を経めぐり、やがて故郷へとたどりつく。
 朝霧のたゆたう荒れ果てた森のなかに、村は見る影もなく埋もれ果て、アハガラの鳥の鳴き声が、法、法、と反響するばかりだった。
 おのれが棲み暮らしてきた小屋がどのあたりにあったのかすら定かではなくなっていたが、沼のありかはすぐにわかった。
 干上がった沼の跡地、崖のきわに洞窟への入り口を見つける。かつては、よどんだ水に隠されていた場所だ。どこをどうくねっているのかはわからないが、そのもう一方の出口が滝のところにつづいているのだろう。
 アハガラの鳴き声に触発されて、忘れていた多くのことがよみがえる。
 キゼの吠え声に神経がたかぶり眠れぬと泣いた夜、母は幸福になれる呪文をとなえて幼な子をいつまでも抱いてあやした。
 おまえが悪いわけじゃねえ、許してくれ、と酒をくらいながら父が号泣したこともある。
 痩せ枯れた畑を踏み荒らされてぼうぜんとしていた母を遠まきにながめやっていたとき、それまで一言も話したことすらなかった村人のひとりが忌み子の肩に手をかけ、小屋の裏手を無言で指さしたこともあった。いってみると、野菜の山がそこにおかれていたのだ。
 いわれのない暴力を無数に受けてもきたが、その一方で遠慮がちに、人目をおそれながらであっても、励ましをこめて傷の手当てをしてくれたひとたちもいた。
 そして、月光の下、かけがえのない時間を与えてくれた少女の面影。
「われを捧げる!」
 老人は叫んだ。洞窟の奥に向けて。
「われを捧げる! なれに奪われた生涯とともに、なれの所望したこの呪われた肉体を捧げるぞ! 受けとれ! 受けとれ! すべて奪い尽くすがいい。わが半身のみならず、汚されぬ残り半身とともに、われの記憶も! 何もかも奪い尽くせ。われを塵となせ! この世界から消え失せるのだ! 奪え、魔よ。われを捧げる!」
 奪え! 奪え! 奪えと、老人は喉から血が噴き出るまで叫びつづけた。日輪が地平の彼方に没するまで、洞窟をぬけ川の跡をたどってふたたび村へと分け入り、荒れ果て、下生えに埋もれた滅亡の地をさまよった。だが黒い影などどこにも見出すことはできず、ついに老人は力つきて崩おれる。
 ふりそそぐ暗黒のもと、かつて天使のように純白だった白い半身も、ながい風雪にさらされてひからび色あせ、残る半身の暗黒との境界もすでに定かではない。
 老人は沼のほとりにたたずみ、静かに泣いた。ただ泣きつづけた。



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