腐臭の底に気配を感じて、アリユスは顔をあげた。
 窓外には、眼前の惨劇に似合わぬ午後の陽光。人影ひとつ見あたらない。感じた違和感の正体はつかめぬまま、あらためて室内の惨状に向き直る。
 かたわらで、口と鼻をおおったシェラが耐えかねた風情で上体を折った。
「だいじょうぶ?」
 同じく膝をついて少女の背中に手をかける。ごめんなさい、といいかけてシェラは激しくせきこんだ。
「外に出ていたほうがよくない?」
 背をさすりながらいう。少女は弱々しく首を左右にふったが、言葉は出ない。口をひらけば充満した腐臭がなだれこむからだろう。
「待ってて」
 いいおいて立ちあがり、麗しき女幻術使は結印した。口中で呪文をつぶやく。
 開け放たれた背後の扉から、びょおと風が鳴いた。吹きこんだ流れはすさまじい勢いで縦横に逆まき、雑然とちらかされた家具類にさらなる無秩序をほどこしたあげく、腐臭とともに窓から外へと過ぎ抜ける。意志を持つ小さな台風のようだった。
 軽減した悪臭とひきかえに、民家の内部は文字通り足の踏み場もなくなったが、苦情を申し立てる住人もおそらくいまい。なぜなら、かれらは臭気の源と化していたのだから。
「なにがあったのかしら」
 えずきのあいまにシェラがつぶやく。無論、アリユスにも答えなどない。
 室中の家具をなぎ倒しながらもがき苦しんだとおぼしき五つの屍は、どれもすさまじく腐敗していた。腐肉喰いの虫がむきだしになった臓器に小山とたかり、ぞわぞわとうごめく。アリユスの風によって払われたはずの刺激臭がはやくも、濃密に立ちのぼり始める。
 そして、床一面をおおった腐汁らしきもの。壁や卓上などにもかなり目につく。汚液をしたたらせた巨大な蛞蝓のたぐいが、ところ狭しと這いまわりでもしたかのようだ。
 吐き気をこらえながら、異変の原因をさぐろうと懸命にあちこち視線をとばすシェラに、アリユスはいった。
「出ましょう。ここにいても気持ち悪くなるだけ。何もわからないと思う」
 少女は素直にうなずく。
 開け放した扉をくぐり屋外の空気を吸いこんで、二人は同時に深い安堵の息をついた。臭気は外にも立ちこめていたが、気になるほどではない。
 汚汁は小川わきの砂利道を、ずっと先へとのびている。
「里が……」
「あるでしょうね」
 眉根をよせるシェラのつぶやきを、アリユスがひきとった。
 道にできた吹き出もののごとき腐汁を追って、最初にたどりついた民家がこのありさまだ。先にあるだろう人里の状況を想像すると言葉すら出ない。
 屋内の屍の腐り具合からすれば、かれらの悲劇的な死から数日は経過していると思えたが――奇妙なのは家わきにしつらえられた竈に火が入っていることだ。かけられた鉄釜には野菜と香辛料を煮こんだ汁が、沸騰しながらもまだ底に残っている。くべられた薪も余力は充分。
 太陽は中天を巡ってまもない。昼食のしたくがはやめに行われたのだとしても、数刻と経ってはいない計算になる。
 そのあいだに、何が起こったのか。そしてたったそれだけのあいだに、平凡な田舎家の家族とおぼしき五つの屍を腐敗させたのはいったい何なのか。
 答えは、つきまとう気配にあるとアリユスは考えた。屋内にいたときにかすかに感じた、あの気配だ。
 幻術使は四囲をながめわたした。定かなものは何もない。
「何かさがしているの?」
 眉根をよせて少女がきいた。上の空で、ええ、とだけ答えつつ女幻術使はなおもつかみきれぬ気配を追う。
 ぎくりとした。
 二人とも。
 シェラが幻術の弟子として、アリユスとともに旅するようになって一年ほど。多少の術は会得したものの、まだまだ素人の域を脱していない。
 そのシェラにすら、はっきりと感じられるほどの異様な気配が、濃密に渦をまきはじめたのである。
 そして不意に――
 二人は息をのんだ。
 眼前の路上に、もやが立ちのぼる。
 かげろうともとれるほどかすかなゆらめきが、見るまに渦をまきながら収斂し、やがてゆっくりとひとつの形をとりはじめた。
 人の姿と思えた。
 戯画のごとき人の姿だ。
 ゆらゆらとゆらめきながら、顔かたちらしきものがひらめいては消える。定まらぬままにそれは音もなくたたずみ、ただ濃密な気配だけが戦慄と化して二人に吹きつけてくるのだった。
「何か用かしら」
 アリユスが優雅な口調で問いかける。もちろん視線に油断は微塵もない。
 かげろうのようなものは――応えるがごとく、不安定なその像を前後にゆすった。
 と不意に、収斂と拡散をくりかえしていたその姿が凝結した。
 もやとも薄布ともとれる白い像であることに変わりはないが、明確に目鼻立ちを備え、衣服まで着こんでいる。いや、衣服を模しているというべきか。
「あら」
「まあ」
 二人は同時に口にした。アリユスは感嘆、シェラのはとまどいが濃厚だ。
 さもあろう、もやのとった形は、どことなくシェラに似ていた。少女を男の子に変えれば、こんな姿になるかもしれない。
「この波長はなじみやすい」
 白い少年は淡々とした口調でいった。シェラはますます困惑を深める。
 くすりと笑いをもらし――アリユスは真顔で少年に向き直った
「で、どういったご用向き?」
「おまえたちは何者か」
 即座に返った応答は、アリユスにも困惑を伝播した。
 頓着するふうもなく、白い少年はつづける。
「奇妙な気を放っている。人間ではないのか」
「あら失礼だこと。わたしたちのどこが人間に見えない?」
 アリユスは大げさに憤慨してみせた。
「人間にしては奇妙に気配が強い。おれは今日まで、おまえたちのような者に遭ったことがない」
「わたしは幻術使よ。この世界と――そう、あなたのいるそちらの世界との境目に立って、こちらの理法を超えた力を借用するたぐいの人間、といえば理解してもらえる?」
「それは巫師のようなものか」
「ん、まあ近いわね」
 少年は――あるいは、少年の姿をかたどったものは、無表情にアリユスとシェラを見つめた。あげく、
「理解しがたい」ときた。「おれの知る巫の者は、何ら人間と変わるところなどなかった。おまえたちは明らかに異質だ」
「喜んでいいのかしらね、このセリフ」苦笑しつつシェラの耳もとにささやき、あらためて異怪に視線を向ける。「ところで、そんなわたしたちにも教えていただけるかしら。あなたこそ何者?」
 淡々と少年は答えた。
「おれは神だ」
 アリユスは寸時、疑わしげに眉をひそめた。が、かたわらのシェラが心底から驚いた顔をしているのに気づき、思わず苦笑する。
「で」やや緊張を解きつつ、あらためて問いかける。「この状況を招来したのは、もしかして神であるところのあなた?」
「否であり、応でもある」
「あら哲学的。さすが神さまだわ」皮肉じみたセリフにも、眼前の“神”は顔色ひとつ変えなかった。「でもわたしたち、神さまの理解力にはとうてい及ばないの。申し訳ないんだけど、そんなわたしたちにもわかるように説明していただけないかしら?」
「よかろう」“神”は真顔でいった。「この所業は、わが肉体が行ったものだ」
「まあそうなの。では、あなたは何? 魂?」
「人間の言葉にあてはめれば、それがもっとも適切だ」
「じゃ、もうひとつ。あなたがその“肉体”とやらにこれをやらせているの?」
「ちがう」あいかわらず淡々と“神”はいった。だがその一瞬だけ――アリユスには、少年の姿をしたその者の顔貌に苦渋の色が浮かんだように思えた。「あれはおれの制御を受けつけぬ」
「ふうん」つぶやき、アリユスはつぎの言葉を待ったが、少年の姿をしたものは真顔で見つめ返してくるばかりなので、しかたなくきいた。「で?」
「おまえたちには、力がある。その力で、おれをおれの肉体に還すことはできるか?」
 眉間の皺をますます深めながら、アリユスは横目でシェラに視線を向けた。
 きょとんとしながらも、シェラは応諾の意志を視線にこめて見返した。ひとの頼みを断れない娘なのだ。
 苦笑をもらしつつ、アリユスはいう。
「それは依頼?」
「依頼とは?」
「ひとにものを頼むときは、報酬を呈示するものよ。わたしたちがあなたに肉体をとり戻させたときには、かわりにあなたは何をしてくれるの?」
「なるほど、そういうことか」口調に得心がこもった。「できることはいくつかある。病を遠ざけるか? 家の不幸をとり除くか? 田畑に実りをもたらすか? 不死や寿命の延長は、おれにはできない。子孫の繁栄も尺がながすぎるからだめだ」
「なんだかお参りの文句みたいですね」
 シェラが不思議そうに“神”に向かっていった。
 その言葉に、アリユスはハッとした。まさしくそのとおりなのかもしれない。
「あなたはこの近くに、神として祀られているのね?」
「そのとおりだ」
“神”は答えた。
 なるほど、とアリユスはつぶやく。
 土地に根づく精霊が、人間の築いた堂や社などに宿る例は少なくない。充分な力を持ち、人間の言葉や意志などを理解できるものは、可能な範囲でその願いに応える場合もある。願いがかなうという評判が立てば、人々はいよいよその存在を神と崇めたてまつる。そういった人間の意志や気を受けて、最初は小さな存在であったとしてもやがて“神”の名にふさわしいだけの風格と、場合によっては力を増幅させていくこともないわけではない。
 通常、それらの存在は幻術使や賢者たちのあいだでは、土地神と呼ばれる。
 この“神”も、その土地神のたぐいであろう。
「わかったわ」アリユスはうなずいた。「じゃあ、わたしたちに憑いている病のひとつも取り除いてもらえるかしら」
「よかろう」いって神は、つい、と手をひとふりした。「終了した。おまえには、胃の腑によくないものがとり憑いていたのでそれをひねりつぶした。しばらくはだいじょうぶだろう。おまえは目に立つ病の源を持っていない。ほかの願いはあるか?」
 問いかけは、シェラに対してのものだ。
 少女はびっくりしたように目をむき、考えこんだ。あげく、
「わたしには何もありません」
「それは困る」土地神は淡々と口にした。「何かないか」
 シェラは困惑しつつ、再び考えこんだ。自分の願いをかなえてもらおう、というよりは、相手の要請に応える手段はないのかと懸命になっているのだと、アリユスにはわかった。
 やがて、少女がおずおずと口をひらく。
「わたしの家族が、みんなで仲良く暮らせるようにしてもらえますか?」
「よかろう」土地神は答え、瞑目した。が、しばらくもしないうちに再び目をひらき、「だめだ。距離が遠い上に、おまえの家族に憑いているものはどれもひどく力が強いか、あるいは魂に刻印された妄執が根づきすぎている。それに――おまえ自身にも、おれには想像すらつかぬほどの存在が憑いているな」
 ハッとしてシェラは、アリユスと目を見交わした。
 ほかに願いはないか、と神は重ねる。
 少女は哀しげに首を左右にふった。
「それでは、おまえはおれの要請を受け入れることができぬ」
「だいじょうぶです」とシェラは、努めて明るくうなずいてみせた。「わたしはアリユスの弟子だから、アリユスが報酬をもらったなら、わたしもわたしにできることは何でもします。いきましょう」
 有無をもいわさぬように、率先して歩きはじめた。
 アリユスは“神”の顔を見た。“神”は見返すことなく、すたすたと先をいく少女の背中を追いはじめる。あわてて後に従いながら、瞬時見た横顔に困惑を見出したのは気のせいなのだろうか、と疑問を浮かべた。

“肉体”のあとを追うのは簡単だった。腐臭を放つ汚汁を追えばいい。が、進むに従ってアリユスは、惨状の範囲が拡大していくことに気づいた。
 最初に遭遇したときは、人ひとりが歩いた程度の幅にしか残っていない腐汁が、徐々に広がりはじめたのだ。
 それはやがて道の周囲に生えた雑草のたぐいにも影響を及ぼしはじめた。しおたれたものが増えていき、やがて明らかに溶解した残骸がそれに混じりはじめた。数軒の民家にいきあたり、最初のそれに劣らぬ惨状を見出したがそのころにはあたり一面、腐敗する生の残骸と化してもいた。
 道も四囲も汚汁にどっぷりと浸かっている、というわけではないのでどうにか跡をたどることはできたが、アリユスが指先で少し触れただけで痺れるような痛みとともに猛烈な悪寒を惹起した。汚物に足を踏み入れでもしたら、靴をだめにするくらいではすみそうにない。
 おそらく、転がる屍も一瞬にして腐敗してしまったのだろう。
「ねえ」アリユスは“神”に問いかけた。「あなたの“肉体”が制御できなくなったのはなぜなの?」
 シェラについて先をいく“神”は、しばらくは無言のままだった。
 が、やがてふりかえりもせずひとりごとのように語りはじめた。
「最後の贄を喰ろうたときから、ああなった」
 いつからかは定かでない。気がついたとき彼は、村人から崇められる存在として山中の堂に巣くっていたのだという。
 供物はさまざまだった。果実、野菜、時には家畜とおぼしき肉。彼の味覚をもっとも満足させるのは肉だった。ほかのものは手をつけないか、多くを残したが肉だけは最後の一片までしゃぶりつくした。やがて供物はもっぱら動物の肉が納められるようになった。“神”はすべて喰らいつくした。
 願いごとは、かなえることもあればかなえないこともあった。気まぐれからそうすることもあり、彼の手には余る願いの場合もあった。それでも奉納が絶えることはなかった。
 ある日、死者をよみがえらせてほしいという願いが届けられた。死神から死者を奪う所業は手に余ったので放っておいた。よくあることだった。だが誓願者は毎日のように供物を捧げ、同じ願いをおいていった。
 かまわず供物だけを貪っていると、ある時――人間が供物として捧げられた。若い少女だった。
“神”はそれを喰らう。美味だった。骨までしゃぶりつくした。生きたまま喰らうのも、それまでは知らなかった快感を“神”にもたらした。
 彼はあくる日も、妙なる供物を待ちうけた。だがそれが届けられることはなかった。あくる日も。あくる日も。それからは、ときおり死んだ動物の肉が奉納されることはあっても生きた人間の贄が捧げられることはなくなった。死んだ動物の肉は、以前ほどの魅力を喪失した。どうあっても人間を喰らいたい、と彼は渇望するようになった。
 だから、それを捧げた人間の魂をのぞき、そこに刻印された容貌を見た。そしてその形どおりに泥水をこねて肉体をつくりあげ、それをあやつって請願者のもとへ届けた。
 その日のうちに、山ほどの供物が捧げられたが、“神”の所望する人間の肉ではなかった。“神”は失望し、泥のかたまりをあやつるのをやめた。
 すると、泣き叫びながら請願者がやってきた。帰ってきたはずの息子が動かなくなったと嘆きかなしみ、人間を贄にしつづけることは長である自分にも不可能だと訴え、死んだ動物の肉でそれに変えることはできぬのかと問いかけた。
 彼は人間の姿を模してそのものの前に現れ、それはできぬとこたえた。請願者は退散した。
「そのとき、その願いごとをしたひと自身を食べなかったのはなぜですか?」
 おぞましげに話をきいていたシェラがふりかえってきいた。
“神”はしばし無言だったが、やがて「それはできない」とだけ答えた。
 口調に畏怖がこもっているように、アリユスには思えた。
 話から類推するに、彼はもともと何らかの肉食獣に宿った精霊であると考えられた。獣であれば、人間への恐れをその魂に刻みこまれたものは多い。その名残が彼のなかに残っていて、捧げられたものしか受け入れることができないのではないか。
 が、あえてそれを質そうとはせず、さらに神が語る言葉に耳を傾けた。
 またしばらくのあいだ、供物の捧げられぬ日々がつづいた。飢えに苛まれながら神は堂にいた。するとまたある日、動かぬ息子を得た請願者が再来した。
 贄はどうした、と問うと、村に祟りを下してくれ、という答えが返った。
 先に捧げた娘は、人目を盗んでさらった村の幼童であった。そういうことを幾度もくりかえしてはそのうちに誰かに見つかるし、第一人間をくりかえし贄にさしだしていればそのうちに村人は絶えてしまう。それよりは例えば十年に一度と期限を定めて定期的に贄をさしだすよう定めてしまえば、ならいごととして絶えることもなく長い年月つづけることができるだろう。だがいくら村の長である自分でも、今まで捧げなかった贄をいきなりさしだせと村人にいってもだれも肯んずることはあるまい。だから祟りを下せ。
 そういったようなことを、請願者はどもりながら語ったのだという。
 十年に一度というのは気が遠くなりそうなほどながいスパンだったが、まるで手に入らぬよりはましだと彼は考えた。
 だから腹黒い長の言葉に従って、村の田畑を無差別に根こそぎすくいとり、贄をさしだせ、さしださねば片端から喰らいつくそうぞ、とひとびとの魂に語りかけた。
 しばらくして、ふたりめの贄が堂に届けられた。満月の夜だった。彼は陶然としながら生きた娘の肉を喰らいつくした。
 それから泥のかたまりをあやつった。ものを食うふりをし、かたことで語らせ、ときおりそこらを歩かせる、といった程度だがそれでも父親である村長は嬉々として泥塊に語りかけ、母親はなにくれとなく世話を焼いた。ひとの肉は無理でも、堂には定期的に肉を届けるようにもなった。彼は泥をあやつることをつづけた。
 同時に、ひとの世の営みをつぶさに観察することになった。ひとには男と女とがいて、むつみあい子を設けることを知った。そして十年めに、つぎの贄がさしだされた。
 彼はひとのまねをしてその娘とむつみあってみた。だがさほどの興は覚えなかった。営みをやめて彼は娘を喰らい、泥塊をあやつりながらつぎの十年を待ちつづけた。
 やがて村長は死に、その妻も死に、何人かいたうちの息子たちのひとりが長の地位を継いだ。“神”はあいかわらず泥人形をあやつりつづけたが、以前のごとく熱心に泥塊の世話を焼くものはいなくなった。試しにあやつるのをやめると、死んだものとして埋葬された。
 その後も供物を持って願いを捧げにくるものは減らなかったし、十年めには新たな贄がさしだされた。面倒になったので、ひとの願いをかなえることはいつのまにかやめていたにも関わらず。見返りを求められることもなく、彼は存分に贄を喰らい楽しんだ。つぎの十年も。そのつぎの十年も。
 必要はなくなったが、人間のようすを観察するのはやめなかった。人間たちの日々の営みは、奇妙に彼の興味をひいたらしい。
 彼は喰らい、観察した。
 ある年、ひとつの魂が産声をあげるのを彼は感得した。その魂の輝きは、奇妙に彼を惹きつけた。
 生まれた幼子は娘だった。何が特別だったのかはわからない。ほかの人間とは、魂のありようがまるで違うように彼には思えたが、どこがどう、とは自分にも定かではなかった。わけもわからぬまま彼は娘の成長を見守り、ものごころつくようになってからはひとの姿を真似てその眼前に現れては語りあい、しばしばともに時を過ごすようになった。
 娘は神と交信できるものとして、巫女と崇められた。それほどの器量よしというわけではなかったらしいが、彼にはそんなことはどうでもいいように思えた。ただ娘とともに過ごす時間がひどく大切であるように思えた。
 やがて娘は年頃に育ち、生まれた時とはまた違う輝きを発するようになった。その輝きに彼は抑えようもなく魅かれるようになった。試しに、一度きり試みただけの、男女の交わりをしてみた。ひとの発するようなあえぎや歓喜が彼に訪れることはなく、行為そのものには感興を覚えなかったが、しばらくして娘のほうから交わりを求めてきたので、定期的にそれをするようになった。
 そうして、新たな十年めが訪れた。巫女の娘は十六になっていた。当然のごとく、贄に選ばれた。神に気に入られたものならば、贄にはふさわしかろうと。
 期待もこめられていたかもしれない。少女を贄として出せば、以降はあたら若い命を無意味に出さずともよくなるかもしれぬ、と。
 彼自身にもわからなかった。
 巫女は村内に建てられた神の宮から、山中の堂へと贄として移され、そして夜がきた。少女はおそれてはいなかった。微笑みながら神の入来を待ち――そして彼は少女を貪り喰った。何も考えてはいなかった。ただ十年分の渇望が、ためらいもなく少女の喉笛に焦点を結んでいただけだった。
 それから一両日を彼は、堂でひとりきりで過ごした。語りあう者のない時間は、ここ数年では初めてのことであった。
 そして気づいたとき、彼の魂は肉体から分離していた。
 肉体は勝手に堂を出て歩き始めた。ひとの姿すら留めてはいなかった。獣じみた姿はとろとろと腐りはじめ、あとに汚汁を残していった。あやつられるように村を目ざし、行き当たった民家になだれこんで驚き逃げまどう家族をつぎつぎに貪り喰った。貪り喰う端から、人間たちは彼と同じように腐れて落ちた。腐れ死んだ屍には興味を失い喰らうのをやめてそこらに投げ捨て、肉体はほかの獲物を追いまわした。
“魂”は、暴虐きわまるその所業を見守ることしかできなかった。肉体に戻ろうと試みても、まるでうまくいかなかった。
「肉体が行っているのは、おれがひとの肉の味を覚えて以来、やりたくてたまらぬ行為だった。思うさま人間を貪り喰らう。おれはいつも飢えていた。喰らいたくてたまらなかった。だが何かがおれのその飢えを抑えていた。いまおれの肉体は抑制をものともせずに、望んでいた行為を行っている。だがおれには何の感興もない」
「でしょうね」ため息とともに、アリユスはいった。「で、その肉体を捨てることはできないの? つまり、もうひとつ別の肉体を用意することは?」
「やってみたが、できなかった。あれ以外に、おれの肉体はないらしい」
 そう、とアリユスは重ねて嘆息する。
 肉体から分離した魂を呼び戻す呪文なら知っている。肉体が生きてさえいれば呼び戻すことはできるが、この場合にもその呪文が有効なのかはわからない。
 だが問題はそれよりも、この存在が人を喰らうことを覚えた魔怪にほかならない、という点にある。
“肉体”と遭遇すればそれから身を守らねばならないのはまちがいないし、それをどうにかできたとしても、魂と肉体とが一体化したときの“神”がどういった反応を示すかもまるで未知数だった。へたをすれば、自動人形化しただけの今の状態より、始末に負えない存在になることもあり得ないことではない。
 厄介な事態になってしまったが、報酬を受けた以上、逃げるわけにもいかない。例え逃げたところで只ですむとも限らない。
 しばし無言のまま進む。腐汁の範囲の拡大は、しばらく前からおさまっていた。ひと三人がつらなって横たわる程度の大きさだ。ある予感がアリユスにはあった。
 やがて陽が暮れはじめたころ、里が見えた。盆地の底に、民家が軒をつらねている。その真ん中に、うごめく影があった。
 一行は足をはやめる。
 汚汁は縦横無尽にちらばっていた。山道を下っているときはわきにそれることもなかったのでその大きさも伺い知ることができたが、もはや範囲も何も判然としない。半壊した家屋。溶け崩れた屍。なかには犬らしきそれも見受けられた。生きた存在はどこにも見あたらない。むごたらしい物色の残滓が、腐臭を立ちのぼらせて横たわるだけ。
 だがアリユスにもシェラにも――そしておそらくは“神”自身にも――気配だけは感じられた。
“肉体”の発する、異様な気配。
 腐臭そのもののように、吹きつけてくる。
「近づいてこない?」
 不安げにシェラがつぶやいた。
 アリユスはうなずく。
「わたしたちの臭いでも、かぎつけたかしらね」
 いいながら懐から色砂をとりだし、地面に模様を描きはじめる。あわててシェラも習った。
 魔法陣。単純に要約するなら、この世界と異世とのあいだに穴を穿つ作業だ。特定の図像にアリユスのような訓練された幻術使の意志を付与して、物理的な手段では対応できない種類の脅威に対して効果のある力を抽出する。図像自体には意味があるともないともいわれる。どうあれ、鍵はひとの意志にある。
 陣をしくあいだ、かげろうのごとき少年の姿をした“神”は無言で見守っていた。
 作業を終え切らぬうちにどっぷりと陽が暮れて――“肉体”が出現した。
 物音ひとつ立てなかった。ただとてつもなくおぞましい“気”がどんどん近づいてきて、崩れかけた家屋の陰から不意に姿を現したのだ。
 もとは動物だったのであろう、と推測していたが、もはやどのような獣であったのかは判然としなかった。ただ溶け崩れた肉の塊、それ以外のなにものでもない。
 その腐肉塊が、蛞蝓のごとくもろもろと蠢きながら近づいてくる。
「シェラ、中に入って」
 自ら魔法陣の中心に立って印を結びつつ、アリユスが叫ぶ。
「もう少し」
 少女はいって、化物を背にしながら夢中になって砂袋をふりつづけた。
 アリユスもそれ以上はいいつのらず、陣の中心に膝をついて呪文をとなえはじめる。
 耐えがたい腐臭を放ちながら、妖物はぞわぞわと近づいてきた。触手か何かのように、幾本もの突起がにゅるりと生え出てシェラの背を求める。立ちこめる臭気は形を備えそうなほどに濃密だ。
 腐汁をたらす突起の先端が触れる寸前まで、シェラは作業をつづけた。ぎりぎりで陣内に踏みこみ、アリユスの隣に片膝をつく。呪文に唱和した。
 見えぬ壁に阻まれて腐肉塊は、陣の周囲をねろねろと巡った。ゆっくりとだが、色砂の境界を浸食しながら。
 未完成な陣には、力がたりないのだろう。
 かたわらに佇む、おぼろな少年の姿にはまるで注意を払わない。
“神”の魂は無表情になりゆきを見守る。
 その“魂”に向けて、アリユスは語りかけた。
「始めるわ。でもいいの? この“肉体”は、縮み始めている」
「かまわない」
 淡々とした口調で“神”はいった。
 わかった、と答え、アリユスは印を組みかえた。
 二人が唱和する呪文の音調が変わる。
 同時に、化物の動きが活性化した。腐肉の塊に過ぎないが、それでも苦悶しているように見える。
 しばらくはそのまま何の変化もなかった。ただふるえながら肉の塊が徐々に、徐々に、魔法陣を崩して前進するだけだった。
 が不意に――少年の姿をした“魂”が口をひらいた。
「ああ……」
 と、それはいった。
 恍惚の吐息とも、苦悶のうめき声ともとれた。
 表情に変化はない。
 それでも、二人の呪文がつづくにつれ、その姿がゆっくりと、だがはっきりと薄らぎはじめた。
「ああ」
 再び“神”が声音をもらす。
 音もなく、宙を滑るようにして肉塊に近づいた。
 ゆっくりと。
「これはなんだ」と“神”はいった。「感情か? 人の肉を貪り喰らうときの歓喜に似て、めまいがするほどに激しい感覚だ。しかしそれとはちがう。初めて体験する感覚だ。これはなんだ」
「嘆きかな」アリユスが答えた。「哀しみ。あるいは怒り。わたしにはわからないけれど、そんな気がする」
「なるほど……これが嘆き悲しむ、ということなのか。おれは嘆き悲しんでいたのか」
“神”はつぶやく。あいかわらず淡々とした口調。
「だとすれば“魂”はおれではなく、こちらに宿っていたことになる」
「ひとつになりなさい」
 ささやくように口にして、アリユスは呪文に戻った。
 苦悶する“肉体”は前進をつづけた。
 が、やがてその速度が鈍り始め――ついにはただ全身を小刻みにふるわせるだけでその場から動かなくなった。
 少年の姿をとった“魂”は、醜悪きわまる“肉体”のなかにゆっくりと溶けこんでいく。
 溶けこむにつれてその姿も薄れていき――呼応するごとく、腐肉塊も縮小しはじめた。
 じわじわと腐汁が流れて色砂の陣を押し流していった。それでも肉塊は前進を再開することはなかった。
 アリユスが印を解いて立ちあがり、シェラの肩に手をかける。
「もういいわ」
 一心に呪文を唱えていた少女は、夢から醒めたような顔つきでアリユスをながめあげた。
「もういいわ」幻術使はくりかえした。「腐汁が流れてくる。さがりましょう」
 見ると破れた陣のあいだからアリユスの言葉通り、汚汁が流れこんできていた。
 シェラはあわててあとずさる。
 汚汁の筋をあちこちに広げながら、腐肉の塊はみるみるうちに縮んでいった。
 やがて、ほかの腐汁だまりと区別がつかなくなった。
「死んだのかしら」
 ぽつりとシェラがつぶやいた。
 かもね、とアリユスはいった。
「そう彼自身が、願ったのかもね」



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