バラダアル興隆のこと
白く天界をおおうかすかな冷気をおびた清澄な黄昏の大気に、ふと流れるように甘い香気が吹きすぎた。
それが予兆だったのかもしれない。
訪うものの絶えてなかった永い歳月を背に、その蒼ざめた顔色の稀人は奇妙な圧力を秘めた静けさを伴侶に、ひっそりと楽園の門をくぐった。
銀灰の髪は死の澱をふりつもらせた不吉な白髪に似、やせ枯れた肉体は寂寞と風吹きぬける荒野を思わせた。眉の薄い顔にこればかりが異様に熱気をふりまく三白眼がゆっくりと、なめまわすようにしてやさしい冷気のふりつぐ楽園を眺めまわし、口にくわえた煙管からはやけに黒みをおびたけむりが音もなく濃い藍色の空へとたちのぼる。
だが、不吉の化身とさえ見まがう稀人を楽園の住人たちは快くむかえた。楽園の住人たちは楽園の住人たちであるがゆえに、訪う旅人をいつでもあたたかくむかえるのだ。
そして選ばれた民らの中のひとりが、歓待とともに懐旧の笑みをも満面にうかべて稀人に声をかけた。
「おひさしぶりです。お元気でしたか?」
さらに言葉を継ごうとする若く美しい乙女に、蒼ざめた稀人はさえぎるように言葉をかぶせた。
「おれの名は今ではバラダアルだ」
と。
乙女が──そしてつどうた村人たちがとまどいの表情をうかべたのは、男の奇妙な態度のせいばかりではなかった。
が、すぐに乙女は、なにごともなかったかのように輝くような微笑でふたたび顔をおおい、そしていった。
「わかりました、バラダアル。わたくしは、いまでは名前はありません」
応酬のようにして、これも奇怪なセリフを口にしたが、それは彼女が楽園の住人であったからだ。楽園の住人は名前をもたない。なぜなら、楽園の住人なのだから。
そしてバラダアルは、まるであらかじめそれを承知していたかのように無言で、かすかにうなずいてみせただけだった。
宿があてがわれ、歓待の宴が催された。
その夜、十二人の村人が気分の悪さにたおれて寝こんだ。そしてその倍の人数が、おのれの気分の悪さをおしかくして歓待の笑みで顔を鎧っていた。どちらの事象も、楽園が創造されたといわれる始源のとき以来、絶えてないことだった。
そして当の宴の主役は、蒼ざめた笑いで頬の端をあざけりの形にゆがめながらひっそりと宴の場をぬけだし、丘の上へと歩をすすめた。それをただひとり、乙女が見つけてあとを追った。
「下界はどうですか、バラダアル」
山腹の神殿を前に、清澄に夜を照らすかがり火の列を眼下に眺めおろしながら乙女はきいた。俗界からの風が、名を必要としなくなったはずの楽園の住人にそんな質問をさせたのかもしれない。
「下界はやがて暗黒に染まる」とバラダアルは嘲笑で口端をゆがめながら楽しげにいった。「大いなる魔神、ゼル・ジュナスの覚醒をむかえてな」
まあおそろしいこと、と平穏の下僕は口もとに白い繊手をあててよろめいた。
同時に、黒い障気と、深い地の底からわきあがる呪詛の喘鳴とが、地を底深くふるわせた。
「なぜそんなことが?」
という質問が乙女の口をわって出たのは、楽園には無縁の俗界の凶事、という超絶した認識があったからにほかならない。
むろん、まちがっていた。
「おれが目ざめさせるからだ」と嘲笑を顔面にはりつけたまま、バラダアルは言葉を重ねる。「おれは力を得る。そして世に災厄をまき散らす七人めの魔王となって世界を席巻し、そしてやがては大いなる魔神をさえ凌駕しておれこそが神になるのだ」
「ああ、あなた」と乙女は、バラダアルを昔の名で呼んで哀しげに表情をくもらせた。「なぜそのようにおそろしいことを。わたくしたちは遠いあの日、あれほどしあわせであったはずなのに」そして、つけ加えるようにしていった。「この楽園での日々ほどではないにせよ」
激昂も懐旧もなく、ただ嘲笑のみをうすくうかべたままバラダアルはフンと鼻をならした。
「幸福などいまのおれには必要ない。いまのおれに必要なのは、血の供犠だ」
うす笑いをうかべながらいい捨て、煙管の中の黒いかたまりに火をつけた。
異様な臭気をはなつ黒いけむりに嫌悪を示しつつ乙女はあとずさり──
その背後の夜の闇から、わき出たように村人たちが一団となってあらわれた。
「稀人よ。俗界の邪気がわれらが楽園に流れこんでいる」
白髪白髭の老人が、かなしげな口調でそう告げた。
「ほう。それが?」
あざけるようなバラダアルの口調にこたえて長老は、
「あり得ぬことではあるが、おまえさまが邪気を運んできたとしか思えぬ。まことにもうしわけないが、おまえさまにはもういちど、試練をうけてもらわねばならぬ」
と、まさに言葉どおりのもうしわけなさを満面にうかべつついった。
よかろう、とバラダアルはいった。
「のぞむところだ」
と。
神殿へのながい階段をのぼるあいだ、先導する長老がバラダアルに問うた。
「おまえさまはさっき、暗黒の魔神の名をとなえていなすったか?」
「ゼル・ジュナスのことか」
からかうようにバラダアルが口にするとともに、ふたたび大地が底深くから不吉にふるえた。
魔神の名をとなえればその関心をひき、ついにはそれを招来する。長老はあわててバラダアルの口をおしとどめるしぐさをし、ぶるると背すじをふるわせた。
「あり得ぬことだ。楽園は邪悪の衣をまとっている。世のあらゆる邪気が楽園の一歩手まえでせきとめられ、それはそのまま諸悪にまみれた俗人を阻み喰らう。ゆえにこそ、この楽園にふみこめる者はまがうかたなき聖者のみにほかならぬはず。それをなぜ、魔神の名を平気でとなえるようなやからが」
きしむ音ともに、地獄にかこまれ守られた楽園の中心で、おごそかに神殿の扉はひらかれた。
創世以来たやされたことのない灯火に照らされて、白い慈愛の女神像がおだやかな視線を侵入者たちに投げかけていた。
その神像に、ふうと暗黒のけむりを吹きかけつつ、バラダアルはさもおかしげに口にした。
「ああ、そのことか。あのバカげた邪気の結界なら、かためて封じておいたよ。もうここは楽園じゃない。地上のあらゆる邪気がおしよせる、地獄のなかの地獄そのものだ」
「かためて封じた……?」
長老はバラダアルの言葉がまるで理解できず、痴呆のように復唱した。
あざけり笑いに頬をゆがめながらバラダアルはうなずいてみせ、煙管につめる煙草葉をしこむ皮袋を、からかうようなしぐさでゆらゆらと左右にふってみせた。
「ああ。かためて封じたのだ。火をつけて吸えば、あの程度の邪界でもなかなかいける」
「……おまえさまは、人間か」
よろよろと長老はあとずさる。
その背後で、おだやかな微笑をうかべたまま──白い女神像がびしりと砕けて、地におちた。
慈愛にみちた美しい白い顔が、ひびわれたままごろりところがる。
おお、おお、とうろたえうめく長老の背に、目をむき、裂けた笑いをうかべるバラダアルが声をかけた。
「地獄の底まで記憶を抱いていけ。おれは人間ではない。魔王バラダアルだ」
と。
その背後から、うっすらとうかぶ夜の薄明をつらぬいて、いくつもの悲鳴があがりはじめた。
ぼうぜんとしながら長老はよろよろと歩みだし、眼下に信じられぬ光景をみた。
粘液のように重く不快な、生きた闇がどろどろと楽園を浸食していく光景を。
「おまえたちはしあわせだな」笑いながらバラダアルがいった。「終末の光景をその目で見ることができたのだからな」
嘲笑を背に長老は絶望のうめきをあげ、ふらりとふみだし、階段をふみはずした。
落下する長老を追うようにして、絶望に嘆き身をよじらせながら楽園の住人たちも小刻みに、いつまでもふるえつづける暗黒の大地にむけてつぎつぎと墜落していった。
「ああ、あなた」破滅の風景を背に、驚愕と恐怖に身をふるわせつつ乙女がバラダアルの古い名を呼んだ。「なぜこのような無益な所行を」
「この楽園ほど無益で無意味ではない」バラダアルはたからかに笑いさざめいた。
「そしておれの名は、バラダアルだ」
いいざま、眼前にたたずむ乙女にむけて一歩をふみだし、鋭利な鉤のように腕をふるった。
乙女は裂けてころがり肉塊と化し、うけて血まみれのバラダアルはたまらぬように哄笑した。
楽園が裂けて砕けて完全なる地獄と化すまで、バラダアルは笑いつづけていた。
やがて邪気の席巻をうけて廃墟と化した地に、黒い巨大な影が舞いおりた。
「よくやった、バラダアル」
と影はいった。
「大きなお世話だ、肉体をもたぬ魔王キャス」憎々しげな嘲笑をうかべたまま、バラダアルが返してよこす。「おれはすでにおまえと対等だ。そしていずれは、はるか足もとにおきざりにしてやる」
「げにおそろしきは人の欲か」
ため息のように影がつぶやいた。
こたえるように、嘲笑がはじけた。
そしていった。
「おれは人ではない。バラダアルだ」