暗黒神の誕生
その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。その者の深き眠りをさまたげるがゆえに。その者の深き眠りをさまたげ、暗黒の深淵の底から、おそるべき注視をなんじにもたらすがゆえに。死してなおとらわれた呪われた亡者どもの、腐臭にみちた朽ちた肉体を間近に呼びよせるがゆえに。なんじの四囲に、悪夢と混沌と絶望とを屍衣のごとくまとわせるがゆえに。その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。口にせしときはまちがいなく、このことばをくりかえし、ラッ・ハーイー・アの印を二十と二度、その胸とこうべに結ぶべし。それでもその者の眠りは、四周をくねりとぶ羽虫に悩まされるがごとくさまたげられ、保留された世界の破滅と崩壊にまたひとつ、われわれは近づかねばならぬだろう。その者の名はゼル・ジュナス。かつて英雄神とあがめられた大いなる者。千の目の魔神。銀色の獣。絶望を、その閉じたまぶたの裏にひそめたる者。この世界の所有者。その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。
かつて、英雄神ウル・ジュナスの威光は世界のすみずみにまでいきとどいていた。そこにはいかなる悪も悲惨も存在を許されぬまま、ひとびとと神々はともに大いなる慈悲の心もつ英雄神の庇護のもと、生きることのよろこびを存分に謳歌していた。
ウル・ジュナスの身にまとう光輝は太陽神ティグル・ファンドラのかがやきをも凌駕し、その英知はひろき目をもつ者イムリエスをも圧倒した。空にみちたる悪神ガッジ・ア・バグ・アは駆逐され、炎にやどる貪欲なるヴァルディスの悪しきみたまもうち砕かれた。ディエグ・アとウル・パニスとエソは地の底深き淵に封じられ、ただ死界の支配者ム・ワジュアのみが死すべきさだめを課せられたひとびとから、その魂をおのが領土へとみちびくことを許されていた。だがそれもまた、大いなる英雄神ウル・ジュナスの威光により、ゆめゆめ粗略にあつかわれることはなかった。世界にはやすらぎとよろこびがあふれかえり、宝石のようなかがやきを放つ歌がみちみちていた。
ある日、風の神イア・イア・トゥオラがいう。「大いなる英雄神ウル・ジュナスよ。われらはそなたの大いなる力と慈悲とにより、かぎりなき平安を謳歌しているが、それは永遠につづくのか」
英雄神はかがやくような微笑をそのかんばせにうかばせながら、静かにこたえた。
「風の神イア・イア・トゥオラよ、それはつづく。永遠に。われの心が、悪にゆらがぬかぎり」
それをきいて神々は安堵し、また驚愕し、また苦虫をかみつぶした。大いなるウル・ジュナスの威光があまりにも深くひろきゆえに、そのかがやきにおのが影をうすくさせられたことをうらんでいたからである。
そこで時をつかさどる神ガルグ・ア・ルインが問いかけた。「大いなる英雄神ウル・ジュナスよ。そなたの心をゆるがす悪というのは、いかなるものか」
英雄神は、かがやくような微笑をそのかんばせにうかばせながら静かにこたえた。
「われはそれを知らぬ。なぜならばわれは、絶えてそのようなものに出会うたことがないゆえに」
そこで神々はこうべをつきあわせて話しあった。われらを、不滅の存在たる神々をまどわせるものはなにか。それは恐怖である、とイムリエスがいった。それは悲哀である、とアフ・オ・ラウがいった。それは怒りである、とユール・イーリアがいった。それは愛である、とウル・シャフラがいった。
そこでイムリエスはウル・ジュナスのもとへとおもむき、この世界のおわりを告げるべき者、超越せし者、歩み去る者ヴィエラス・パトラの話を語ってきかせた。
「それはおそるべき者だ」とウル・ジュナスはいったが、そのかんばせにうかんだおだやかな笑みがゆらぐことはなかった。
そこでアフ・オ・ラウはウル・ジュナスのもとへとおもむき、バレエスがまだ神々にではなく悪神に支配されていた時代、そこにあまねく存在し、くりかえされた幾多の悲恋、惨劇、不幸と絶望とを、とうとうとうたってきかせた。
「それはなげかわしい時代であった」とウル・ジュナスはいったが、そのかんばせにうかんだおだやかな笑みがゆらぐことはやはりなかった。
そこでユール・イーリアはウル・ジュナスのもとへおもむき、この世界を創造せし者ジェグ・ア・ジェグ・ア・ヌグラとその眷属が、いかにひとびとを苦しめてきたかを舞にうつして演じてみせた。
「それは許せぬ所業であった」とウル・ジュナスはいったが、そのかんばせにうかんだおだやかな笑みがゆらぐことはやはりなかった。
そこでウル・シャフラがウル・ジュナスのもとをおとずれ、情熱のかぎりをつくして英雄神の光輝をたたえ、おのれの思慕をうったえ、その愛をうけいれるようにかきくどいた。
情の女神のうるわしきかんばせと肢体とを前にしてウル・ジュナスは「そなたはまこと美しく、愛すべきものである」といったが、そのかんばせにうかんだおだやかな笑みに情熱の炎がやどることはついになかった。
神々はゆるがぬ英雄神の威光に安堵しながらも地団駄をふんでくやしがり、ゆるがぬウル・ジュナスの宝石のような心をくもらせるものはほかにないのかと相談をかわしたが、よい知恵はうかばなかった。
そのとき、死界の支配者ム・ワジュアの駆る二匹の猟犬、タジャとフラッバがあらわれて神々の耳もとにささやきかけた。
「冥界のさらに彼方、ティグル・ファンドラの光さえとどかぬ暗黒のむこうがわの玉座にまします、夜の女神レレバ・セレセをお呼びなさい。その黒髪にかこまれた真白きかんばせは、底なしの深淵のごとくうるわしく、その暗黒の衣につつまれた肢体は、はてしなき絶望のごとく官能的だといいます。暗黒の女神レレバ・セレセの美しさを前にすれば、大いなる英雄神ウル・ジュナスといえども、その心をゆるがせぬわけにはいかぬかもしれませぬ」
おのれの美と情熱とを前にして、大いなる神がこゆるぎもしなかったことにいたく傷つけられていたウル・シャフラただひとりが、その言葉に眉をひそめた。だが、ほかの十の神々は口々にそれはよい意見だとうなずきあい、死神の猟犬どもにレレバ・セレセを招来するよう言葉くだされたのであった。
神々の命をうけて二匹の猟犬は、前になりうしろになりして冥界をぬけ、闇よりもなお深き暗黒の奥深くふみこんだ。そして無量の時をふみこえてようやくのことで、夜の玉座にけだるく腰をおろした暗黒の女神、レレバ・セレセのもとへとたどりついた。
「暗黒の女神よ、われらは天上の十の神々の命をうけて、あなたさまをむかえにあがりました。どうかわれらとともにバレエスの大地へとおもむき、大いなる英雄神ウル・ジュナスの心をゆるがせたまえ」
二匹の猟犬タジャとフラッバの口上に、夜の女神はいささかも心ひかれたふうもなく、ただけだるげにその腕をふって口にしただけだった。
「わたくしの心やすらぐ場所はただ暗黒。地上には、わたくしをめくらますまばゆい光輝があふれているがゆえに、そこはわたくしには無縁の場所です。とく、立ち去るがよい」
タジャとフラッバは顔を見あわせて困惑したが、なおもいいつのった。
「暗黒の女神よ、われらは大いなる英雄神の威光に、いささかへきえきしているのです。そのかがやきをくもらせることができるのは、あなたさまのその底知れぬうるわしさと神秘のかげり、ただそればかり。どうかわれらとともにバレエスの大地へとおもむき、ウル・ジュナスの心をゆるがせたまえ」
「そのウル・ジュナスはどこにいる」
女神はそのかんばせを両の手でおおったまま、静かにきいた。
二匹の猟犬が指さすさきを見て、夜の女神は音もなく首を左右にふり、いった。「あの光輝こそ、わたくしをこの暗黒の奥底深くおしこめているもの。あれはわたくしにはあまりにもまばゆすぎる」
タジャとフラッバは、招来をことわられたものとひどく落胆した。だが、そんな二匹の猟犬の落胆したようすを見て、女神レレバ・セレセは声高く笑ったのであった。
「あの光輝をくもらせれば、バレエスはわたくしの世界にもなりましょう。猟犬ども、案内するがよい」
タジャとフラッバはよろこびいさんで小踊りしながら暗黒の女神を先導し、こうしてレレバ・セレセは大いなる光輝放つウル・ジュナスのみまえに立ったのだった。
目前に立つ見なれぬ女神を目にしてウル・ジュナスはほほえみながら問いかけた。
「黒き衣まとう女神よ。そなたはなぜそのかんばせをその両手でおおう? 白きうるわしきかんばせにかがやく、その両の瞳はさぞ美しかろうに」
暗黒の女神はその両の手で顔をおおったまま、ウル・ジュナスにいった。
「あなたさまの光輝があまりにもまばゆすぎるがゆえに、わたくしには目をひらくことさえもできませぬ。大いなる英雄神よ、どうかそのつきせぬかがやきを、わたくしのためにすこしだけでもやわらげたまえ」
「これでどうか」
とウル・ジュナスは、すこしだけその光輝をやわらげてみせた。だがレレバ・セレセは、その両の手で顔をおおったまま首を左右にふるうだけだった。
「それでは、これではどうか」
とウル・ジュナスは、さらにすこしだけその光輝をやわらげてみせた。だがレレバ・セレセは、その両の手で顔をおおったまま、またしても首を左右にふった。
「それでは、これではどうか」
とウル・ジュナスは、さらにすこしだけその光輝をやわらげてみせた。だがそれでもレレバ・セレセは、やはりその両の手で顔をおおったまま、首を左右にふるうだけだった。ウル・ジュナスはいった。
「これでは、われはいつまで経ってもそなたのうるわしき姿を目にすることはできぬ。そなたの、その両の手をどけさせるために、いったいわれはなにをなせばよいのか」
すると女神はその手で顔をおおったまま、いった。
「それでは大いなるジュナスよ。わたくしのためにあの天空にかがやくおそるべき光明神を、闇のヴェールでおかくしください」
レレバ・セレセの懇願にしたがって、ウル・ジュナスは天をめぐる太陽神ティグル・ファンドラをわしづかみ、暗黒のヴェールでそれをおおってみせた。
「これでどうか」
とウル・ジュナスは問うた。夜の女神はまだそのかんばせを両の手でおおったまま、いやいやをするように首を左右にふってみせた。
「まだまぶしすぎます」
「それでは、さらにわれはなにをなせばよいのか」
「ではウル・ジュナスよ。世界を経めぐりつきせぬ笛の音でわれの耳を悩ます風の神をひとつところにおとどめください」
レレバ・セレセの懇願にしたがって、ウル・ジュナスは世界を経めぐる風の神イア・イア・トゥオラをわしづかみ、ひとつところにおしこめて身動きできぬようにした。めぐることをやめたイア・イア・トゥオラは絶望のうめきをあげてかすかに身をふるわせることしかできなくなった。両の手の下で夜の女神は、かすかにくちびるをふるわせて笑った。
「これでどうか」
とウル・ジュナスは問うたが、またも夜の女神は首を左右にふった。
「まだまぶしすぎます。今度は、その身もだえとともに大地をふるわす、磐石の神を討ちしずめてください」
そこでウル・ジュナスは、世界をふるわす大地の神ヴァオルの四肢をひきさき、その五体をバレエス中にばらまいた。
だがレレバ・セレセは、まだまぶしすぎるといった。
「大いなる神よ、わたくしはこのバレエスにあふれかえるがごとく繁殖した、人間なる者のかわす言葉の声音がおぞましくてたまりませぬ。かれらのよろこびはわたくしのかなしみ、かれらの平穏はわたくしの失望」
「では見知らぬ女神よ」とジュナスは問うた。「われはそなたのために、なにをなせばよいのか」
暗黒の女神は声もなく笑い、そしていう。
「ひとびとの苦しみもだえる声を、わたくしはききたい。底なしの絶望に身もだえ、つきせぬ地獄の業苦にうめき呪詛する、うるわしき暗黒の歌声をわたくしは、ききとうございます」と。
大いなる神はうなずき、天の玉座を立って地上へと来臨し、暴虐のかぎりをつくしてあまねくバレエスの大地を蹂躙してまわった。天に光はなく風はめぐらぬまま、海はさかまき大地はひきさけ、ひとびとは希望を喪って泣き叫びながら逃げまどい、世界は荒廃し果てて絶望ばかりがそのおもてをおおいつくした。
十一の神々は怒り嘆き、大いなるジュナスの変心をなじったが、光輪を喪い、そのかわりに絶望の黒き衣をまとった力ある者は、もはや移り気な神々の言葉になど、きく耳をもたなかった。
このときよりウル・ジュナスは、ウル・ジュナスであることをやめ、ゼル・ジュナスとなったのである。世界に闇をもたらす者、破滅を内包せし者、暗黒神の誕生である。
やがて疲れはてた世界を背に、暗黒神と化したジュナスは、大地の果てでレレバ・セレセのひざにやすらぎ、深き眠りについた。
神々はぼろぼろのからだをひきずって、ようやくのことでバレエスへと帰還し、ずたずたにひきさかれた世界を形ばかりととのえた。だがそこには、かつての威光も歓喜ももはや二度と存在することはなかった。そして、ただただかりそめにまぬかれただけの破滅と終末をうちにして眠る、ゼル・ジュナスの眠りをさまたげぬよう、神々と生き残ったひとびととは息をひそめて生きねばならぬようになった。
こうしてバレエスは、暗黒と絶望の時代をむかえたのである。きたるべき終末を待って、ただただおそれ嘆きつつ暮らされるばかりの、希望なき保留のいまをむかえたのである。
それゆえに、その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。その者の深き眠りをさまたげるがゆえに。口にせしときはまちがいなく、この呪句をくりかえし、ラッ・ハーイー・アの印をその胸とこうべに結ぶべし。その者の名はゼル・ジュナス。絶望を、その閉じたまぶたの裏にひそめたる者。この世界の所有者。その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。その者の名をとなえてはならぬ。となえれば、夜の女神の笑いをまねくであろう。それは破滅のつつぎのはじまりなれば。