イムリエスの逃走
かつて、バレエスの簒奪神たちが安穏としていた治世のおわりに大いなる英雄神が大いなる暗黒神と化して世界をほろぼそうとした。大いなる神の変節に、残る十一の簒奪神たちはどうにかその暴虐を鎮め、またうち負かそうとしたが歯が立たなかった。
「世界を簒奪せしわれらに、むくいがおとずれたのだ。こは、われらが運命なり」
十一の神の一、アフ・オ・ラウがつぶやくようにそういうと、智をつかさどる神イムリエスが鼻をならした。
「運命などはアフ・オ・ラウのもてあそぶ玩具にすぎぬ。われら大いなる神々に運命の鉄槌のふりかかることはなし。剣をとりて戦え。わが叡智の前に立ちはだかる者はなし」
力づよくいい放つや、九百九十九の眷属をひきいて智の神はふたたび暗黒神の討伐にむかった。
ティグル・ファンドラ、イア・イア・トゥオラ、ラッ・ハーイー・ア、ガルグ・ア・ルイン、ヴァオルらがそれにつづいた。
ティグル・イリンはそのおもてを暗くくもらせながら、三つの宝玉をふところに隠して虚無の壁の裏側にその身を隠した。ティグル・イリンの深きひとつの闇のみが天空に残される。
憐憫の女神ユール・イーリアは世界から月の光が喪われたことをなげいて地にうずくまった。
情念の女神ウル・シャフラは、バレエス全土が大いなる神の暗黒にじわじわと浸食されていくさまに嘆きかなしみ、その流す涙は洪水となって世界をみたしていった。
死神ム・ワジュアは、なだれのように冥界に送りこまれてくる、生けとし生けるあらゆるものの魂をさばくのにただただ忙殺された。
ただひとり、運命をつかさどるアフ・オ・ラウのみが、かなしげにその目をくもらせたまま荒れ狂う暗黒神と、その討伐にむかった神々とのゆくすえをながめやった。
智の神にひきいられて太陽神、風の神、空の神、時の神、地の神らは果敢に暗黒神と刃を交えたが、あらゆる力の化身である暗黒神に敵すべくもなく、つぎつぎにうち倒されていった。
智の神イムリエスはこれがただひとつおのれの智のうちから外れていた運命であることを知り恐怖にかられ、ほかの五神を見捨てて逃走した。それを見てティグル・ファンドラ、イア・イア・トゥオラ、ラッ・ハーイー・ア、ガルグ・ア・ルイン、ヴァオルらもおのが眷属を見捨てて逃亡し、暗黒神はふたたびどすぐろい闇を世界に吐きだしはじめた。
「走れ、走れ、御者どもよ。天をめざしてひた走れ。われは叡智をつかさどるひろき目をもつ光輝神なり。昏き地の底などに隠れひそむことはできぬ。走れ、走れ、暗黒神の千の目がとどかぬ天の果てまでひた走れ」
追いすがる闇に背をうたれながらイムリエスはおのれの乗機である馬車ワジャリヤの御者どもを鞭うち、せきたてた。
ふたりの御者神アジャイアとアジャイルスの肢のまわりで宝輪は狂ったようにまわりつづけ、あまりの速さについに火を噴きはじめた。アジャイアとアジャイルスは熱さと疲労に苦悶の声をあげて泣きわめいたが、イムリエスのうちふるう鞭は容赦なく御者どもを責めたてた。
馬車は天を目ざしてのぼりつづけた。走れ、走れ、御者どもよと叡智の神はうわごとのようにくりかえしながら鞭をふるいつづけ、やがてふたりの御者の七つの足は焼けただれ、すり切れていった。宝輪は炎につつまれながらそれでもまわりつづけ、アジャイアとアジャイルスは血と肉を涙にして流しながらおめき、走りつづけた。
地をおおいつくす暗黒をはるか足もとにおきざりにして、ジェグ・ア・ジェグ・ア・パンドオの虚無に馬車がとどこうかというころに、ふいにイムリエスの鼻先を異様な悪臭がかすめすぎる。
狂ったように走りつづけていたアジャイアとアジャイルスが、せわしない足のうごきはそのまま、ぴたりと暗黒のただなかに停止した。
「なにをしている。あふれでる暗黒はもはやわが足もとまで迫っているぞ。走れ、走れ、御者どもよ」
だがふたりの御者がどれだけ懸命に足掻きつづけてもワジャリヤはぴくりともうごくことはなかった。
なにが起こったのかと前方に目をこらしたイムリエスは、そこに立ちはだかる幼童を見た。
「ここからさきに道はなし」
幼童が口にすると同時に、おそるべき悪臭がイムリエスのもとに吐きかけられた。臭気はあかぐろい煙となって吹きつけ、その刺激は激痛となってイムリエスの目、耳、鼻口尻の穴から精気の出口まであらゆる場所よりその体内へともぐりこみ、叡智の神は苦痛にのたうち泣き叫ぶ。
「わが名はアシェト」
幼童はいった。暗黒神の吐きだした闇のなかからわき出し七人の魔神のひとりである。
「なれが逃れるすべはなし。わが吐息に追い落とされて、なが叡智はすべて暗黒の地上にこぼたれた。なれはすでに痴呆のつまった肉袋にすぎぬ。なんとなれば、もとより絢爛たる馬車の御簾に安穏と護られて怠惰にむさぼられしなれのからだは、見よ、破裂寸前にまでふくれあがってまさしく肉袋のごとし。なれは叡智の神にあらず。怠惰と愚昧をつめこんだ、醜悪きわまる肉袋にすぎぬ」
悪臭を吐きちらしながら魔神アシェトはワジャリヤを追いまわし、からだじゅうの穴という穴からあらゆる粘液をたらしてアジャイアとアジャイルスはかけめぐりつづけ、やがて噴きだした暗黒におし流されたあらゆる汚物が沈殿する、世界のもっとも低き場所に追い落とされた。七つの宝輪は燃えつきて、わずかに残ったアジャイアの左足のかたわらでただひとつの残骸が力なくからからとまわるばかり、それでもふたりの御者はみにくくゆがんだ七つの肢の残骸を懸命に繰りながら走りつづける。
「痴呆の神とその御者どもよ。なんじらはそこで宝輪の残骸とともに、とわにまわりつづけるがよい。そのすきに暗黒神をたおし、われが世界を手中にする」
悪臭を吐きちらしながらアシェトはその場を立ち去り、あらゆる汚物がうずまく世界の底でワジャリヤの残骸のなか、イムリエスはまとわる激痛に血の涙を流しながらその肥満しきった肉体をもてあまし逃げることもかなわなかった。
そして肉体を損傷したアジャイアとアジャイルスは、漆黒の鎖に捕縛されたまま、世界の底でおなじ方向に輪を描きながらいまも馬車をひきつづけているという。