異界より地獄の公爵来臨のこと
名をとなえてはならぬ大いなる神に世界が蹂躙されたころのこと、深きぬば玉の闇を裂いて不吉なる放浪者がバレエスをおとずれた。
かつておのれがしろしめた大いなる世界を気まぐれで滅ぼし、無へと帰さしめたかぐろき貴公子は、肉体をもたぬ邪悪な存在に行く手をはばまれ、闇よりもなお深いマントをひるがえして問いただす。
「わが行く手をなにゆえ阻む」
実体をうばわれた呪われた魔神キャスは、見えぬ頭を貴公子の前に深々とたれてみせ、底冷えのする声ならぬ声で問いかける。
「わがあるじの領土に、何用もってまいられたのか」
「いにしえに永遠を誓い交わしし落日の乙女を迎えるために」
「そはいずこに?」
「すでに亡い。無明にのまれて引き裂かれ果てた。だが、魂は千度くりかえして転生し、そのたびにわが手をすりぬけ消失する。ここにも、そのひとたび」
「それでは」
と、見えぬ魔神キャスは世界を開示する。
「ごらんあれ」
運命の下す賽の目によりみずからの手で思い人を引き裂いた地獄の公爵は、開示されたバレエスをながめわたしてため息をつく。
「見えぬ」
「では、ここにはおられぬのか」
肉体をもたぬ存在がひそかに笑う。
公爵は落胆に深くうちしずみ、その高貴な氷の瞳に炎を宿らせ、
「無駄足であった。かくなる上は、この世界を引き裂き蹂躙してまわり、無に帰さしめようか」
淡々とそう告げる。
肉を喪失した魔神は低く笑った。
「わがあるじを、あるいはこのわれ自身を、打ち倒すすべが御身にあるとお思いならば、それをお試しになるがよい。だが、そのまえに心あたりがひとつ」
「それは?」
すると、肉体をもたぬ者はずるがしこく顔をあげ、問うた。
「代償に、なにを?」
「なにが欲しい?」
「この世界に滞留を。わがあるじの意向により、恐怖と死と暗黒とを、この世界にふりそそがれんことを」
「よかろう」
大いなる闇の公爵はうなずき、誓いのしぐさをしてみせる。
肉体をもたぬ者は神妙にうなずいてみせたのち、虚空に手をかけ世界の扉をひらいてみせる。
「かつてこのバレエスを統治し、思いのままにした神々のうち、時間をつかさどる神なるガルグ・ア・ルインがこの虚空の彼方のどこかにひそんでいる。かの者なれば、時の彼方まで世界を見ることができる」
公爵はうなずき、そして考えるようにして眉宇をよせる。
「この世界を統治したという神々は、なぜここを去ったのか?」
「わがあるじの怒りと狂気におそれをなして。──そも、わがあるじもまたかつてはこの世界をしろしめす英雄神のひとりではあった」
「転変か」
公爵はうなずき、マントをひるがえして虚無の扉に向きなおる。
その背へ、キャスが問いかける。
「この世界にとどまるあかしに、御身の真名を、おいていかれよ」
「スティレイシャ」
ふりかえりもせず地獄の公爵は投げてよこし──そして虚空へ身を投げいれた。
永遠にひとしい一瞬をさまよう。
闇は光とまぎれて混沌と渦をまき、時と場との軋轢に裂かれて悲鳴をあげる。
かつてひとつの世界を滅ぼした大いなる存在は、ふるえ、身もだえる世界の内部を恍惚とただよい、荒れ狂う苦痛と虐待の歓喜に果て知れなく打たれてかすかに笑う。
たどりついたのは始源か究極か。さかまく獰猛な静寂の底に、それはいた。
深く果て知れない奈落にそびえる時間の壁に、かつての神威をはがれてすすり泣く、時をつかさどる神ガルグ・ア・ルインはへばりつく。
美しき公爵は無限を志向する大いなる壁から抗う時間の神をべりべりと無理矢理にひきはがし、眼前にかかげて要求する。
「わが乙女をさがしだせ」
「そが、名は?」
「シェラッハ」
時間の神はよわよわしく身をあがかせながら時の壁へと視界をひろげ、紅の舌をのばしてさぐりよる。
「見つけた」
「どこにいる」
「ひとつは、遠い未来に。ひとつは、その先に。さらにひとつは、さらにその先。しかれどもひとつは、汝の想いはとどかず砕け、ひとつは呼びあえどとどかず流れ──さらにひとつは世界がかわり、汝は滅びてすべてが終わる」
公爵は表情をかえずに聞きおえてガルグ・ア・ルインを時間の壁へとたたきつけ、ひきつぶし、血まみれの汚塊と化さしめぬりつける。
「わが呪いを永遠とともに、時間の神に贈ろう」
静かに告げ、虚無を去る。
その背へ、ひきつぶされて肉塊と化した時間の神が投げかける。
「なればわれは、永遠そのものを贈ろう。渇望という伴侶とともに」
地獄の公爵はふりかえらず、かすかに笑っただけだった。
「その伴侶ならば、すでに得ている」
絶望の暗黒にぬりこめられた、かすかな光明のやどる世界へと帰還したスティレイシャに、キャスが問う。
「望みしものは、見つかりしか」
「見つけたとも」
地獄の公爵スティレイシャは、静かに微笑み、うなずいた。
「わが望むのは、まったき絶望」