風  鈴



 木枯らしに運ばれて窓から枯れ葉が吹きこんできた。
 よろよろと虚空を舞い、男のすわるテーブルの上にかさりと落ちた。
 かたんことんと、また奇妙に渇いた音が厨房の裏手あたりからきこえてくる。
 風鈴だろう。この地方の風鈴は節をぬいたアハザ竹からつくられる。風が吹くたびに、かたんことんと軽い渇いた音をだす。
 それにしてもこの風はどうだろうと男は思った。かたんことん、かたんことん、風鈴の存在を頭の中から忘れさせまいと、不規則に、なりやみそうでいつまでもなりやまず、まるで意志あるもののように吹きよせている。
 ことり、と、茶屋のあるじが水の入った木の椀をテーブルの上におく。
 ああ、と男は、われにかえったように呆然とした顔つきで、しなびた猿のような老人の顔を見あげた。
「なんにするね?」
 茶屋の老人は、やぶにらみの焦点のさだまらぬ目をむけるともなく男にむけて、問いかける。
 ああ、と、男はなおも惚けたようにそうこたえたきり、口をつぐんでしまった。
 以前、このあたりに来たときにはこんな茶屋などなかった。いずれにせよ街道からははずれた荒野のただ中、茶屋に立ちよるどころか、このあたりに足を踏み入れる者さえほとんどいないだろう。
 ものめずらしさよりは、何か憑かれたような気分にかられて入口をくぐったのだ。もとより何かを飲もうとか腹がへったとか考えてのことではない。
「ああ、そうだな……」
 不得要領に男はつぶやき、あいまいに微笑をうかべながら口にした。
「なんでもいい。喉が渇いているんだ。なにか飲み物をたのむよ。そう……今日はどうも冷えるし、からだのあたたまるようなものがいいな」
「ラハ茶でいいかい?」
 首をかしげるようにしてやぶにらみの片目を男にむけ、茶屋のあるじは無愛想な口調でそう口にする。
 それでいい、と男が告げるや、返事もせずにくるりと背をむけた。
 猫背気味の小さな背中が厨房に消える。
 ぶつぶつと、だれかと話しているような声がした。奥には調理人でもいるらしい。
 かたんことん、かたんことん、思い出したようになりはじめる風鈴の音にひかれて、男はふたたび小さな窓から木枯らしの吹く荒野に視線をむける。あの老人は、こんなさびしげな場所で、なぜあのようなものさびしげな音を立てる風鈴をつけているのだろう――かすかないらだちとともに、男はおぼろに考える。
 気配を感じて、ふりかえった。
 厨房の入口に、五、六歳くらいの小さな女の子が無言で立っていた。
 首からさげた鎖の先についた、さほど高価でもなさそうな白い宝石をその小さな手でしきりにいじくりまわしながら、一心に男の顔を下から見あげている。
 どうあつかっていいのかわからず、男は思わず目をそらす。子どもは好きではなかった。対応のしかたがわからない。かわいいとも思わない。男は、子どもが好きではなかった。
 その存在をつよく意識したまま、男は女の子の姿が視界に入らぬように不自然な姿勢で反対側の小窓に視線をとばす。
 かたんことん、かたんことん、店の裏手から、女の子のたたずむ方角から、まるで注視をうながすように風が風鈴をならす。いらだちがつのる。それでも男はそれを顔にはのせない。感情をかくし、能面のようにして生きてきた。いつしか感情そのものが磨耗したようにさえ思えるほど。
 ふいに、かたわらでことりと音がする。
 男はびくりとふりむいた。女の子が、あつかましくもそばまでやってきて注意をひくためにわざと音を立てたのだと思った。怒りに眉をひそめていた。
 ちがっていた。しわがれた顔が、奇妙に焦点のあわない凝視を投げかける。
 湯気をたてる茶がテーブルの、男の眼前におかれていた。女の子の姿は消えている。
「ほかにご注文は?」
 やぶにらみの老人が、しわがれた声で問いかける。
「ああ、いや」
 あいまいにいって男は首をふり、老人は真意をたしかめるようにしてぐい、と顔をつきだした。
 そのまま、奇妙なにらみあいをつづけた。
 ほんの寸秒のあいだだったのだろう。永遠にも近い重圧を、男はその寸秒に感じさせられていた。くるりと老人が背をむけたとき、男は心底から安堵の息をついていた。
 かたんことん、かたん、ことん。
 また風鈴が鳴る。
「あの風鈴は――」
 思わず口にしていた。
 立ち去りかけた老人が、くるりと、ぜんまい仕掛けの人形のようにふりかえる。
 瞬時、無意識にとはいえ呼びかけてしまったことに後悔をおぼえ、男はしかたなく言葉をつづける。
「あの風鈴は、よく鳴るねえ。ぼくは以前、もっと暑い季節にここをおとずれたことがあるんだけれど、そのときには風なんかぜんぜん吹いていなかったよ。いまごろの季節になると、こんなところでも風が吹くんだねえ」
 口にしながら、なんとばかげた内容のない言葉を自分は吐いているのだろうと自嘲の念がわきあがる。
 だから、老人が笑いらしき表情をうかべているのを見て、ほっとした気分だった。
「谷底の、よどんだ場所だから」老人は、枯れた唇の端を笑いの形にゆがめながらかさかさとした声で口にする。「ふつうなら、風なんざそよとも吹かないところだろうさ。いま風が吹いているのはアリユスがいるからだよ」
「アリユス?」
 思わず眉をひそめてききかえす男に、老人はさらに奇妙な笑い顔でうなずいてみせた。
「そうとも。アリユスは風をつれて歩くのさ。あの子は風といっしょに生まれてきたんだ。きっといつか、大きくなったころには風のアリユス≠ニ呼ばれるようになるだろうさ」
 なぞめいたセリフを口にして、ふえふえふえふえと奇妙に間延びした抑揚のない声を立てて笑いながら奥へと消えた。
 からかわれたように感じて、男は首を左右にふりながらラハ茶を手にとる。アリユスというのがあの女の子の名前なのだろう。老人の孫だろうか。娘だろうか。いずれにしても、あまりかかわりあいたくはなかった。
 はやく立ち去ろう。茶碗を手にぼんやりとそう考えた。もともとが、このような場所になど一秒たりともとどまっていたくはなかった。わざわざこんな荒野をたずねてきたのは、悪夢に背中をたたかれて汗まみれで目ざめる日々に、執拗にうながされてのことだった。
 茶屋など建つくらいなのだ。
 もうここには、悪夢の因は朽ちはてて残っているはずもない。
 男はおのれにそういいきかせながら、手にした椀を口もとに運ぶ。
 ひい、と叫んで、椀をほうり出した。
 たちのぼる香り、口中に流れこむ熱さとかすかな苦みをはらんだふっくらとした味。男の故郷の味がした。忘れがたい故郷、忘れたいと思いつづけて、どうしても脳裏からぬぐいきれずにこびりついている故郷の味。そして――
 ひとつまみ。ほんのひとつまみで、ラハ茶に独特の味をそえる香草の味。
 妻のいれる茶の味だった。
 あとをも見ずに捨て去ってきた、因習にしばられた男の故郷に建っている、ふたとせだけ男が妻と暮らしたあばら家の、猫のひたいほどの裏庭に植えられていた香草の味だった。
 妻が実家から抱えてきた種を植えてできた香草だった。ほかの家にはない味だった。たいしてうまいとも思わなかったが、妻は執拗にその香草を茶にいれて男に出した。
 同じ味だ。
 中身をまきちらしながらころころと螺旋にころがる茶碗、そしてそこからゆらゆら立ちのぼる湯気とをぼうぜんと見おろしながら男は荒い息をついていた。
 とことこと、女の子――アリユスが、ふたたび厨房の陰からあらわれ、不思議そうに男の狼狽を見あげる。距離をおいて近づかない。そのまま近づくな、と男は心の中でわめきかける。
 その声が――まるできこえたかのように女の子は、こくりとうなずいて二、三歩あとずさった。
 背筋をぞっとふるわせる。
 かたん、ことん、かたん、風が風鈴をならす。厨房の奥で、またぶつぶつと老人がだれかに話しかける声がきこえてきた。アリユスはそこにいる。それでは、こんなうらさびしい荒野に、まだだれかがそこにいるのだろうか。老人が話しかけているのはいったいだれなのか。
 ぼそぼそとした話し声の背後からア、ア、アと、赤子の声がした。むずかる赤子の声だ。びくりとして男は思わず顔をそむけた。
 女の子が、アリユスが不思議そうに男の横顔をまじまじとながめやる気配を、首筋あたりに痛いほど感じる。見るな、おれを見ないでくれ。
 よろよろと男は立ちあがってあとずさり、窓際の柱に頭をよせる。
 ことん、と風がなる。
 叫びだしたい思いをこらえて、男は床上にうずくまり、きつくきつく目を閉じる。ここに茶屋などなかった。枯れ木が一本、うらさびしくたたずんでいただけのはずだ。だれかが自殺でもしたように、輪をつくった縄のかかった不気味な枯れ木が一本、ここにたたずんでいただけのはずなのだ。
「どうしたえ」
 かさかさと枯れ枝のような声が背中から呼びかける。男は顔さえあげず、だまりこんだままただふるえつづけるばかりだった。
「おまえさん、奥さんがいるだろう」
 頭を抱えこんだまま、男はぎょっと目をむいた。
 貧相な庭に生えた香草。妻のいれるラハ茶。因習にみちた村。渇いてさびれた荒野のような、果てのしれない単調な日常。
「いない!」
 頭を抱えこんだ姿勢のまま、男は叫んだ。
「いない! 妻などいない! 死んだんだ! 子どもをはらんだまま、死んだんだ!」
 おのれの過去へむけるようにして、つばを吐き散らしながらわめきちらした。
 かたんことんと風鈴がなった。
 むずかる赤子の声が――泣き声にかわる。
 力ない、よわよわしい、いまにも命の灯を燃え尽きさせてしまいそうな、小さな泣き声。
 夜毎の悪夢と声が重なる。男は耳をおさえて絶叫する。おれじゃない。おれはちがう。おれが悪いんじゃない。狂おしくおのれにむかっていいきかせる。あいつが悪いんだ身重のくせにおれを追ってこんなところまできてしまったあいつが悪いんだおれはあいつを捨てたんだ戻りたくはなかったんだ子どもなどほしくはなかったんだ自由になりたかったんだおれが悪いんじゃない、来るな! 来ないでくれ! おれはもう戻らない! 戻りたくはない!
 心の奥底でわめきたてる絶望の叫び声をつらぬくようにして、かたんことん、かたん、ことんと、風鈴の音が耳にまとわりつく。
「たずねてきたんだよ」しわがれた声が抑揚のない口調でいう。「たずねてきたんだよ。あんたの奥さんだ。大きくなった腹を抱えて、あんたを迎えにきたんだよ。ふりむいてやれ。会ってやれ。……生まれずに死んだ子どもを、抱いてやれな」
 あんたはだれだ! 硬直した心の底で、驚愕が絶叫する。
 あんたはだれだ! なぜおれのことを知っているんだ!
「声をきいたの」
 あどけない女の子の声が、男の心の内部の叫びにこたえてそう告げる。
 男は――ゆっくりとふりかえる。
 遠まきのまま不思議そうに男を見つめるアリユスのあどけない顔。
 その顔の中で、澄んだその瞳だけが深く深く男を見つめる。
「風の声をきいたの。ここで、生まれないままさまよう風の声を」
「おまえさんが打ち捨てた風の声さ」かさかさとした声がかぶさるようにいう。「アリユスの風にのって、よどんだ谷底でたゆたっていた魂が顔をあげたのさ。見てみるがええ」
 言葉とともに――男はぼうぜんと、顔をあげる。
 かたん。
 ことん。
 音がなる。
 茶屋はもうない。
 枯れ木が一本あるだけ。
 その枯れ木の枝に――あの日のままだ。まったくあの日のまま。
 見ひらいた目の端に恐怖と後悔の涙をにじませ、男はよろよろと立ちあがる。
 アリユスの風を受けて人ひとり通らぬ谷底の荒野で、枯れ木にぶらさがってゆれる白骨が、かたんことんと音を立てながらそのうつろな双の目で男を見やる。
 そしてかたんことんとゆれる人間の残骸の足もとに、小さな未生の白骨が小山のようにうらさびしくころがっていた。
 男はよろよろと二歩、三歩、進み出て――
 目を見ひらいたまま、絶叫する。
 そしてことりと、崩れおちる。
 そのままぴくりとも動かない。
「死んでしもうたよ、アリユス」
 やぶにらみの老人が、木枯らしのように渇いた声音でつぶやいた。
 しわがれた骨と皮ばかりの手をしっかりと握りしめながら、女の子はあいもかわらず不思議そうな目で男を見ている。
「かわいそう。赤ちゃんはただ、声をかけてほしかっただけなのに」
 ちらりと、横手の枯れ木の下にうずくまる赤子の白骨に視線をやってたどたどしい口調でつぶやき、未生の魂を抱いた母親の姿が泣きながら風にのって遠い空へと消えていくまぼろしをながめあげた。
「いっちゃったよ」
 その光景をぼんやりとながめあげながら、アリユスはぽつりと口にする。
 老人はうなずき、いこうかいアリユス、と静かに声をかけて女の子の手をひいた。
 やがて幻術使トエダと風のアリユスが谷を去ると、白骨はもう二度と鳴ることなく、救われぬ魂だけがひとつぽつりと、いつまでもそこによどんでいた。


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