「ダルガ、いるか。邪魔するぞ」
 かき鳴らされる狂的な旋律を割って、しわがれ声とともに天幕の出入口がもちあげられた。ひどい猫背のシルエットが覗きこむ。
 傭兵仲間たちがうろんげに視線をやったのはほんの寸時、疲れ果てた車座にすぐに向き直って無口な酒宴に興味を戻す。
 ダルガはつい、と身を起こす。枕頭におかれた剣を手にしざま、一挙動で立ちあがり、年老いた導師とともに夜気のふりそそぐ草むらのなかに歩みだした。
 でたらめとも思えるほど激しい律動の、弦の旋律がその勢いを増したように感じられた。
「眠っていたか?」
「いや。横になっていただけだ」
「ふむ。それでは酒の席に加わっておればよかったものを。いやいやそもそも、酒があるのならなぜわしを招ばんのだ。葬儀場のように陰気な酒盛りも一気にもり立ててやれように」
 身勝手な陳述を好きほうだいに口にする。ダルガはわずかに苦笑し――すぐに顔をくもらせた。
「前線に立って戦わなきゃ、わからんだろうな」
「わからん? はて、何をじゃな」
「おれたちがいま、どういう気分でいるのかってことをだ」
 いって少年は、不機嫌にだまりこんだ。
 草深い山中に築かれた野営地。かかげられたかがり火は突端に集中している。その近く――夜っぴて敵の襲撃にそなえる見張り役たちにはあまり迷惑にならぬ距離にふたりはたどりつき、手近の岩に腰をおろした。
 よう、よう、と夜泣き鳥が鳴く。夜露に、岩面はしっとりとぬれそぼっていた。ヒステリックにかき鳴らされる弦の音色が、山上から狂々と反響する。
「将軍がよく解放してくれたな」
 しばしの沈黙のあと、ダルガが口をひらいた。
 占爺パラン、数年来、ダルガの導師として旅の指針を与えてきた老人は、しわがれた声音でかすかに笑い声を発した。
「どの方角から、いつ、どういった方法で攻めるべきか――わしが求められた見立てなどその程度のものであったからな。領主どのはわしのことを高く買っておられるが、将軍どのはさほど重視しておらぬ。気休めほどにも考えてはいないだろうて。領主館ではそうそう自由にあちこち動きまわれるわけでもないが、ここならばその気になればどうとでも動けるわい」
「そいつァけっこう」気のない口調で少年がこたえる。「ついでだから、こんなくそったれた戦場なんざとっととあとにして、領主館にでも帰っちまえばいいだろう」
「ばかをぬかせ。そこまですれば反逆ととられかねんわ。それにしても」ふいに真顔になり、「どうにも、お疲れのごようすじゃの」
 ちらりと視線をやりながらダルガは口をひらきかけ――ため息とともに言葉を消した。
「何の用だ」
「託宣さね」
 落としかけた視線を、ふたたびあげる。
 禿頭の不可思議な老人が、真正面から少年を見つめかえした。
 瞳を欠いた白子の隻眼が、光を放ったかのように感じられた。
 一瞬だけ。
 それでもダルガは、その見えぬはずの瞳に神秘が宿っていることを知っていた。
 神世を見透す混濁した瞳は、これまでも数限りなくダルガを導き――地獄へと叩き落とし――そしてふたたび現世へとたすけあげてきた。ほかに進むすべを持たぬ少年に、またとない指針を与えつづけてきた眼であった。
「今度は何が視えた?」
 視線をそらし、声だけでダルガはきいた。
 と――逆にパランが問いかえす。
「そも、この争いの原因は何じゃと心得る?」
「狂信者どもの集団自殺」
「概要はそのとおり。狂った教祖にひきいられた者どもの、常人には理解し得ぬ狂宴。ただし、ただの狂徒どもではない」
 激しく上下動をくりかえしていた弦の旋律が、高音域に固定されてリズムを刻む。奏者の腕などいましもちぎれ飛びそうなほどの、律動。
「どういうことだ」
 少年はきいた。老人は、からえずきをひとつ、夜にとばす。
「狂うてはいるが、追っているのは幻ではない、ということよ」
「魔物か?」
 きらりとダルガの目が光る。
「魔物というより、神属かの」
「神? いにしえの神々か?」
「いいや。ヴァイル十二神につらなるものじゃな」
「その系統にしては、無秩序すぎるんじゃないか?」
「一般に信じられているほど、ヴァイル神群というのは慈悲深くはないよ、ダルガ」
 からかうように笑った。
 ダルガは憮然とだまりこむ。
「まあ、そう機嫌をわるくするな。ティグル・ファンドラ、ユール・イーリア、ラッ・ハーイー・アといった神々あたりはわれわれ人間に同情的で協力的といってよかろうがな。ほかのものどもは、必ずしもわれわれに益をもたらすばかりともいえん。特に、名を唱えてはならぬ暗黒神にいたっては――」
「まさか、暗黒神の復活を連中は画策してるってんじゃないだろうな」
「それはない。こたびのこの騒動にはな。だが、もうすこし、謎めいておる」
「謎めいてる?」
「そのとおり」うなずき、占爺はくちびるをちろりとなめた。「クォーノ・ア・レッフ。知っているか?」
「いや」
「あまり名の知られた神ではないからな。狩人の神と呼ばれる。狩猟者の守護神として信仰されておるが、昏い一面を秘めている神でな。クォーノ・ア・レッフ自身が狩人であるといわれておるのだが、狩る対象が不吉なんじゃ」
「何の狩人だ」
「魂」
 こともなげに、老人はいった。
「魂? 死神ム・ワジュアの眷属か?」
「いや。魂といっても、ただの魂ではない。戦争で死んだ者の魂を狩る神よ」
「ぞっとしねえな」
「まさにな。で、このクォーノ・ア・レッフは、ム・ワジュアのしろしめす死界ならず、月神とかかわりのある神、とされておる」
「ティグル・イリンか」
「そうじゃ。ティグル・イリンに、神格の変じた四つの陪神がいることは知っておろう」
「ああ。バレエスを照らす月は三つ。これらの月は三つの宝石に擬され、それぞれが三人の女神の化身。女神の名前はファロイス、フィリアン、フェルナン。ティグル・イリンの娘たちだ」
「もしくは、ティグル・イリンの変形、化身ともいわれておる。で、四神めは?」
 ダルガは一瞬ことばをとぎらせた。
 そしていう。
「フェリール。見えない月」
「あるいは、あり得ざる月。暗黒の月。争いの支配者」
 不吉な補足を、老人が加えた。
 しばしだまりこみ――少年は視線で先をうながす。
「このフェリールというものの正体は、神学をこころざす者のあいだでも諸説いり乱れてさだかではない。ある者は蝕のことをさすというし、ある者は月をさえぎる雲や雨の神格化ではないかともいう。星々のあいだに横たわる暗黒の空間そのものをさすのだという説もあるくらいだが、あまりピンとはこないな」
「まあな。で?」
「にもかかわらず、神話中においてはこのフェリールも、ほかの三つの月と同様に月をもち、その世界をもち、宮殿をもち、かしずく陪神を擁しているのだという。どういうことか、などというのはわしになどわかるはずもない。きくなよ」
「だれがきくか」ダルガは苦笑した。「で、クォーノ・ア・レッフってのは? そのフェリールの陪神のひとりか」
「そのとおり。暗黒の月を護衛し、フェリールの敵を討ち果たす軍勢。それがクォーノ・ア・レッフじゃ」
「それを、あの狂人どもが信仰している、と?」
 老人はうなずき、
「そしてな。それだけですらないのよ」
 意味ありげにつけ加えた。
 ダルガは眉根をよせる。
「クォーノ・ア・レッフは、単独の神ではないのさ」
「軍勢、とさっきいったな。たくさんいるってわけか」
「そのとおり。そして――増殖する」
 ぞくり、と戦慄が背を走りぬけた。ダルガは首を左右にふり、狂徒どもがつどう山上に視線を向ける。
 弦の音はあいかわらず、とり憑かれたようなリズムで夜気をふるわせつづけていた。
 注意深く耳をすませば、その音はひとつだけでないのがわかる。
 この三日のあいだに、ダルガたちと対峙してきた武器をふるう狂徒の数は尋常ではなかった。
 そして憑かれた目をして迫りくる狂人たちの群れのなかには、かならずといっていいほど、三弦琴をかき鳴らす楽師たちがいた。
 血しぶきの飛び交う戦場でおそれげもなく楽師たちは、ただただ弦をかき鳴らしながら戦士たちとともに進軍し、最後には敵の刃の前にみずからその身をさしだし息絶えようとする。
 楽器とともに肉が裂かれるその瞬間、いちように楽師たちは至福ともとれる恍惚の表情をうかべるのだ、と傭兵仲間のあいだでささやかれるようになったのは、最初の戦の直後だった。
 むろん、楽師らとともに戦をしかけてきた狂戦士たちも、斬り殺されるのを望んでいるかのごとく無謀な進軍をくりかえし――ときに、何とも形容しようのない笑いをその顔にうかべながら死んでいく。
 いったい、かれらはなぜそのような所行をするのか。
「クォーノ・ア・レッフは増殖するのさ」
 占爺はくりかえした。重いため息とともに。
「どういうことだ」
「至福を得たい、と思うかね、ダルガよ」
 質問にはこたえず、老人は逆にそう問いかけてきた。
 こたえあぐねて、少年はだまりこむ。
 老爺はかすかに微笑み、そしていった。
「そもそもひとが神を崇めるのは、この世に蔓延するさまざまな苦しみから逃れ、至福を手にしたいと望むからであろう」
「それはそうだ」
 ダルガの答えに、老人はさらににたりと笑う。
「その至福を得る手段が、争いを起こし、戦場を神にささげ、多くの勇敢なる戦士たちを屠り、あげくにおのれらの魂そのものをも――神のみもとに差し出すことだとしたら?」
 まさか、と声にならない言葉を少年は発する。
「そのまさかが、いままさに起こっているのさ」
 占爺パランはため息まじりにつぶやいた。
 ――ことのはじまりは、山上に廃棄されたふるい要塞を擁する町の住民が、謎の集団に虐殺を受けたことに端を発する。
 突如あらわれてひとつの町を血の海に変えた戦士たちは、どうやら朽ちかけた要塞に集うているらしい、と知れて、一帯をおさめる領主は討伐軍を編成した。
 占爺パランはすでに一月ほどを領主のもとで過ごしていたが、あらためてダルガも募られた傭兵部隊に加わることとなる。
 そもそもこの地にとどまることを占爺が決めたことからして、こういったたぐいの事件が待ち受けていることを占術により予見していたのであろう。
 ダルガの内部には異神が秘められている。
 ヴァルディス、と呼ばれる古き神にダルガは宿命を負わされ、“ヴァルディスの神剣”なる宝剣の探求を担わされていた。
 旅は血ぬられたものだった。いくさきざきで怪異が少年を待ち受け、そのひとつひとつを切り抜けるたびに多くの血が流されてきた。
 旅をつづけるのを断念しようとしたこともある。だが、運命には不運な少年を手放すつもりはないらしい。とどまろうとした平和な農村には、おそるべき怪異と殺戮、そして崩壊がおとずれ、パランの占いは停滞するたびに同様の惨劇が少年を責め立てるだろう、と予言した。とどまることはできなかった。
 探索は怪異と直結し、それを回避するすべは少年にはないのだ、と占爺は血を吐く想いで告げたのだった。
 爾来、少年はとどまることを恐れ、進んで妖異な事象を追い求めるようになった。ほかに選択の余地はなかった。
 だから、一月ものあいだ、ひとつの地にとどまって平穏に過ごせることができたのは、ダルガにとって奇跡にもひとしいできごとだったかもしれない。
 だがそれが、いつまでもつづくことはない。
 惨劇の報をきき一帯の領主が傭兵を募る噂が流れたとき、少年はためらわず志願した。待ち受けていたものがようやく訪れたのだ、と。
 それにしても――ひとつの町ぐるみを虐殺が襲うなど、なまなかな妖異ではなかった。
 しかも襲撃をかけたのは、頭がおかしいとはいえ人間であるという。それも、剣士武闘家のたぐいのみならず、商家の者から百姓、女子どもにいたるまで、実に雑多な構成の集団であったらしい。
 さらに一団の士気を鼓舞するごとく、襲撃者たちのあいだには幾人もの楽師らが立ちまじり、扇情的な、狂ったような律動の音楽をかき鳴らしているのだという。
 ひきいていたのは、黒を基調に極彩色をちりばめた、僧衣ふうの衣装を身にまとった者どもであった、という噂も耳にしている。
 邪教の徒のしわざである、と領主は断定した。それでも最初は、降伏する者を手荒に扱うことは許さぬ、との令がでていた。妥協を許さぬ対立など、想像もできなかったのだろう。
 要塞にこもると見られる邪教徒軍に襲撃が敢行され――無惨な結果が訪れた。
 戦果としては当初、予想されたほどには悪くはなかった。
 要塞が廃棄されたのは、新しい街道が整備されて一帯が主要な幹線から外れてしまったからだ。町がさびれるほどではなかったが常駐軍を置く意味はなくなったために、要塞そのものも放置されることとなった経緯である。もともともっている堅牢なる地勢が失われたわけではない。
 さらに、戦の専門家とおぼしき剣士、武道家のたぐいも少なからず集団には見られるという報告がある。全体を見れば烏合の衆といえなくもないが、それなりに組織的な戦闘をしかけてくるだろう、と目されていた。
 事実、最初の四日間は地の利を活かした邪教徒軍が、攻囲側をよせつけぬ強固な護りを披露した。被害こそ少ないものの、討伐軍は攻めあぐねたままいたずらに時を重ねることしかできずにいた。
 戦況ががらりと変わったのは、三日前のことだ。
 それまで要塞にこもって堅牢に籠城を決めこんできた狂徒たちが、突如討ってでてきたのである。
 要塞にこもられていてはうつ手なし、兵糧攻めの長期戦に陥るか、と覚悟していた攻城側にとっては、これ幸いの愚策――と最初は思われた。
 そもそもこの争乱自体が、狂気に端を発しているという点が失念されていたのかもしれない。
 ことここにいたって、様相は熾烈きわまる殲滅戦に激変する。
 武器を使える者の数は、たしかに限られていた。
 だが邪教徒たちには、恐怖が欠落していたのだ。
 攻めよせてくる者らのなかには、熊手や鋤といった農具から包丁を手にした婦人まで、およそ軍隊とはほど遠い場ちがいな姿も少なくはなかった。
 戦の専門家である攻城側にとっては手もなくひねることができるはずだが――市場にすわって野菜でも売っていそうなおばさんや腰の曲がった老人、子どもを抱いた女などといったひとびとが、目に歓喜と恍惚すらたたえて襲いかかってくるさまに、戦士たちはためらいを覚えずにはいられなかった。
 対するに狂徒側は、ためらうどころか――まさしく斬って捨てられることを望んでさえいるかのごとく、陸続とおしよせてくる。
 弱き者に剣をふるえぬ者は、容赦なく討たれていった。
 ダルガ自身も、幾度も危うい場面に遭遇した。戦に慣れていればいるほど、市井のひととしか思えぬ相手を斬り伏せるなどためらうものだ。
 攻城側は半日とたたぬうちに大きく押し戻され、そのままでは甚大な被害をもたらされずにはおかなかっただろう。
 奇妙なことに、狂徒の軍勢は戦果など無視して突如後退し――間をおいてふたたび進撃をくり返す、という理屈にあわぬ戦法をとりはじめる。
 やがて動揺する討伐軍にいったん後退命令がだされ――相手を人と思わず、野犬のたぐいと見なして容赦なく殲滅すべし、という厳命が下されることとなる。人道にはもとるが、英断であった。放っておけば、討ち果たされたのはまちがいなく討伐軍のほうだ。
 五日めが終わった夜、脱走する兵も少なからず出た。半分がた黙認されたらしい。逃走もやむなし、という気分が、上層部にすら蔓延していたのだ。町ぐるみ虐殺されたのだという強力な事実がなければ、戦そのものが成り立たなくなっていたかもしれない。
 六日めには、戦況は悲惨な様相を呈した。血の涙とともに妥協をふり捨てた攻囲軍と、こちらはあいもかわらずいっさいの迷いなき邪教徒軍とが真正面からぶつかりあい、血みどろの消耗戦を展開したのだ。山中に死屍累々とおり重なり、両軍ともに甚大な犠牲を強いられることとなる。
 そして狂徒どもの攻勢は、そこまでだった。
 剣の使える者、戦のできる者の底がついたのであろう。
 あとは、一方的な虐殺にならざるを得なかった。
 抵抗がやめば、即座に戦は終結していたはずだ。あいにく、武器を手にできるものは幼児であろうと手向かいせぬ者はなく、討伐軍の剣士たちは不安と恐怖、そして底知れぬ嫌悪をかみ殺して虐殺をつづける以外に、できることはなかったのである。
 籠城側に、すでに戦力はほとんど残ってはいまい。明日にでも戦は終結するだろう。
 邪教徒たちの、完全なる壊滅をもって。
 ほかに方法はない。完膚なきまでに討ち果たされることを、当の狂徒たち自身が望んでいるのだから。
「じゃ、連中は至福を得るために、こんなばかげたことをやっているってのか」
 憤りすらこめて、少年はうめくように口にした。
 老人は、無言でうなずく。
「ばかばかしい。そんなことで、至福を得ることなどできるものか」
「それが、そうでもないらしい」
 占爺の言葉に、ダルガは目をむく。
 老人はつづける。
「戦場で散る魂を糧に、クォーノ・ア・レッフは力を増す。のみならず……クォーノ・ア・レッフに戦場をささげ、そこにみずからの魂をすら供犠としてさしだす者らは――クォーノ・ア・レッフそのものとして転生し、神の軍勢に加わることができる、とされているのじゃよ」
 そんなばかな、とダルガはつぶやいた。
 力なく。
 あきらめたような目をして、老人もうなずく。
「ほんとうのところがどうかは知らぬさ。神の眷属として転生できたからといって、そこに至福が待ち受けているとも限るまい。しかし少なくとも――おまえさんらに斬りかかってくる邪教徒たちの顔貌には、至福の表情がうかんでいたのではあるまいかね」
 否定するために口をひらきかけ――ダルガはだまりこむ。
 自身が知っていた。
 生と死の狭間に位置する戦場で、生き延びるために剣をふるいつづけるうち、ある瞬間からすべてが真っ白になることがある。
 そんなときダルガは、ただ肉体が覚えた技をくりだしつづけるだけの、からくり人形と化す。
 すべての感覚は麻痺し、その底には、得もいわれぬ平安のようなもの――いってしまえば、至福が静かに横たわっている、といえなくもない。
 そういった感覚は、まぎれもなく自分自身で経験したことが幾度となくあるのだ。
 狂徒どもを駆り立てているのはそのようなものなのかもしれない、とは漠然と思っていたことだ。
「だが――そんなことで神になれるわけがないだろう」
 弱々しく、ダルガはつぶやいた。
 占爺パランは、首をふった。――左右に。
「そもそも、神、というのがどのような存在であるのか、という定義そのものが問題にはなろうが――なれぬものでもなさそうでな」
「どういうことだ」
 しばし答えず、老人は光を宿さぬアルビノの隻眼で、山上の闇をながめやった。

 曇天は、夜にも匹敵する暗闇を地上に重くわだかまらせた。
 重い足どりで討伐軍は進撃する。
 組織的な抵抗はもはやまったくなくなっていた。待っているのは、草むらやものかげから不意につきかかってくる者ばかり。
 それらとて、いつどこから襲ってくるやら知れぬとばかりに気を張っている兵士たちにとっては、現実的な脅威とはなり得ない。
 もはや掃討ですらなかった。厭戦気分は兵士たちをどっぷりと包みこみ、感情などとうの昔に麻痺させている。だれもが襲いかかってくる者をただただ機械的に迎え討つだけの、殺戮人形へと変わっていた。
 そんななかでひとり、ダルガだけが、緊張の琴線上にいた。
 最前まで鳴りひびいていた最後の弦の音色も、すでに途絶えている。
 ときおりきこえる奇声と絶叫以外に、あたりにひびきわたる音すらない。
 崩れた壁と草むした石畳。いたるところを血と屍がうめつくし――
 いつしか断末魔の絶叫すらとぎれていた。
 どろどろと全天をうめつくすどすぐろい曇天のもと――耳に痛いほどの沈黙が四囲にみちあふれる。
 これで終わったのかと、なかばぼうぜんとしながら兵士たちがたたずむなかで、ダルガただひとりが腰にした剣の柄に手をかけ、臨戦態勢を解かずにいた。
 そして。
 もしかしたら、ほんとうにすべては終わったのかもしれない――と思えるほどのながい時間をおいて。
 ――驚愕の叫びが、あがった。
 どんよりとわだかまっていた倦怠を切り裂いて響きわたったその叫びは、すぐに悲鳴に変わった。
 ついでいくつもの怒号と絶叫が交錯し――
 ダルガは走った。
 かろうじて崩壊をまぬかれた石づくりの建築が、礼拝堂のように少年には見えた。騒乱はそのなかから発している。
 かけこみ――遭遇した。
 ところどころ崩れかけた天井から、曇天を透してわずかにとどけられる幾筋もの薄明。
 天使の梯子に照らされて、それは限りなく禍々しく――そしてこの上なく神々しく、そこにたたずんでいた。
 裂けた口に無数に立ちならぶ牙のあいだから、だらだらと大量の涎をたらしている。――血の色の涎だ。
 どくろのように不吉な色あいの頭部に、その四つの眼だけが爛々と異様なまでに力づよい光を発し、その巨大な獣はひろげた四肢に力をこめて立ちあがり――
 咆哮した。
 崩れかけた瓦礫が、大音声にびりびりとふるえながらつぎつぎに崩落し、数条のほこりがもうもうとわきあがる。
 ぞろりと、化物が前進した。
 四肢のみならず、獣の動きにつれて肩や首や背中の筋肉がいっせいに、力づよく波打つ。
 全身が、炎が噴きでてきそうなまでに、力にみちあふれていた。
「クォーノ・ア・レッフか……」
 ダルガはぼうぜんとつぶやく。
「わしのこの、見えぬ右目に映ったのじゃよ。この世のものならぬ魔怪が、降臨する光景が、な」
 先夜、パランはたしかにそういった。
 神威を見透す白子の眼が、託宣を受けたのだ、と。
 すなわち、すべての狂徒どもが天に――狩人の神に召されたとき、転生した神獣がまさしくこの地に顕現すると。
 その獣は最初の生け贄を求めて討伐軍の兵士たちに牙をむくだろう、と。
 そしてもうひとつ。
「この化物を相手に、どう闘えってんだ、じいさんよ」
 狂おしくダルガはつぶやき――身がまえた。
 いつでも抜き打てる姿勢で、化物と――神の獣と、対峙する。
 背中が、ふいに熱くなった。
 ダルガの内部に秘められたるもの――太古の神、忘れられた神、封印された神であるヴァルディスが、眼前の神威に反応してうごめきはじめた証であった。
 ダルガ自身は目にしたことがないが、その背には炎のかたちのあざのようなものが浮きあがっているはずだ。
 そして幻視の心得のある者が見るならば、さらにそこには燃え盛る熱き炎の幻像が見えるのだという。
 ヴァルディス――すなわち、炎の神。
 この世界に存在するあらゆるものを灼きつくし、灰へと変えずにはおかぬ暴虐の神である。
 その火勢のあまりの激しさに、ついには神自身をも灼きつくさずにはおかぬのだと伝説にいう。
 パランは、ことあるごとに語った。炎の神がダルガの裡に棲むかぎり、あらゆる妖異はついにダルガを討ち果たすことはできぬだろうと。だが――それゆえにこそ、暴虐なる神はいつかダルガ自身をも灼きつくさずにはおかないだろう、と。
 だから――
「おまえは、ヴァルディスを抑えるすべを学ばねばならぬ」
 先夜、山上の闇を見すえながらパランは、そう語ったのであった。
「大いなる神を抑え、制御するすべを学ばねば、いつかはおまえ自身がヴァルディスの炎にうち倒されることじゃろう。それほどまでに、ヴァルディスとは危険な神なのじゃ」
「何度もそれはきいた」ダルガは不機嫌に、そう答えた。「だが、それならばおれは、どうすればいい」
「剣をふるえ」
 というのが、パランの答えだった。
 意味がわからず、ダルガはぼうぜんとするしかなかった。
 だが、いまならわかる。
 巨獣が、ふたたび吠えた。
 剣の柄に手をやり、燃えるような視線で立ちはだかるダルガに向かって。
 咆哮は熱風となってダルガを襲った。襲いくる風圧に、木の葉のように吹き飛ばされそうになった。
 姿勢を低くしてやり過ごし、歯を食いしばりながら待つ。
 はじけるのを。
 炎の神威が、ではない。
 おのれがつちかってきたもの、積み重ねてきたものが、はじけるのを。
 背中で燃え上がるものが、いっそう勢いを増そうとする。
 それを抑えるように、ダルガはさらに腰を落とした。
 腹部に、冷たく、冴えた光を放つ球を想像する。
 灼熱に燃えたぎる火の神の炎を、鎮静させるためのイメージだった。
「どの世界にも達人というものは存在しよう」とパランは語った。「おまえの身をおく剣の世界に限定せずとも、その剣を鍛造する匠の世界にも。武具をつくるものたち。馬具をつくるものたち。砦を、城を、あるいは館を、また町にたたずむ家々をつくるものたちにも、その道の達人と呼ぶべきものたちは無数にいよう。神々に仕える神官、幻術をきわめた賢者、そういった神秘を具現するものたちのみならず、料理をつくるものや日常のこまごまとした道具をつくるもの、音楽を奏でるものから大道芸人まで、田畑をたがやすものたちのなかにも、達人と呼ぶべき偉大なる人物はいるかもしれぬ。ダルガよ、おまえもそれを目指さねばならぬ。半年ほども前に道を分かった、アリユスのことを覚えているか?」
 ふいの質問にとまどいながらも、ダルガはうなずいた。
 アリユスとシェラのことは忘れようもない。
 ある山中に巣くう魔怪を退治するために合流して以来、しばらくのあいだ旅路をともにしてきた幻術使の師弟である。アリユスは妙齢の美女、シェラはダルガとほぼ同年代の美少女だった。パランの託宣によりフェリクス方面に行き先を変えるまで、ふたりとは途をおなじくしてきたのだ。
 ふたりながらに魅力あふれる女性であるという点をさしひいても――とりわけアリユスは印象に残らずにはいられない。ヴァイラム文化圏と呼ばれる、西イシュール大陸のかなり広大な部分を占める地域にわたって“風のアリユス”なる勇名を馳せた、当代随一の幻術使なのである。
 事実、ダルガの眼前で幾度となく、奇跡としか思えぬ数々の秘技を開陳してきた、驚くべき女性であった。
 シェラとともに、できればいつまでも旅路をともにしていきたいと思える心楽しき道連れでもあったのだが、どうやらフェリクス方面に支障を抱えているらしく、またの再会を期しての別離をつい半年ほど前に終えたばかりである。忘れようとしても忘れられない人物だ。
「そのアリユスが、どうした」
 困惑を隠せぬまま発したダルガの質問に、パランはこうこたえた。
「あれもまた、達人のひとりといってよいだろう。彼女の放つ“風の矢”や“風の槍”が妖魅魔怪のたぐいを切り裂く姿を、おまえも覚えておろうが」
「もちろんだ」
「あれとおなじことを、おまえは剣で実現しろ」
 突拍子もないことを、こともなげに老人は口にしたのだった。
「ばかをぬかせ」なかば本気で、ダルガは腹を立てた。「あれは幻術だ。この世のものならぬ力の発露だ。そりゃ、実体を備えた魔物なら剣で斬れぬことはないが、アリユスと同等の効果をだせといわれても――」
「不可能だと、思うかおまえは?」挑発するように、パランはいった。「そうではない。あれはひとつの到達した姿だ。偉大ではあるが、たどりつけぬ高みというわけでも、決してない。ひとはだれでも、おなじ場所に達することのできる可能性を秘めているものじゃ。そしてその道筋は、ひとつとは限らぬ。アリユスの場合は幻術がその道程であったのだろうが、そうでない道もいくらでもあるのさ。あるものは神に仕えることでその域に近づき、あるものは無心に剣を鍛えることでたどりつこう。ひとびとに口福を供与しつづけることで、その域に近づくことのできるものもおるかもしれぬ。そして、おまえに与えられた可能性は――剣の道ではないかな?」
 こたえることはできず、ダルガはただだまりこんだ。
 占爺は、静かに笑った。
 慈愛にみちた表情で。
「道はさまざまでも、窮まる場所は結局、ひとつだよ、ダルガ。その場所に、おまえはたどりつかねばならぬ。もし達することができれば――神の炎であろうと、御することはできるじゃろ。さもなければ――」
 それ以上を、老人は口にしなかった。
 むろん、口にされずとも少年にはわかっていた。
 だから、ダルガは、選んだ。
 暴虐の神がおのれの内部から噴出し、荒れ狂うにまかせて妖魅魔怪を圧殺するきのうまでから、脱却する途を。
 熱塊のごとき咆哮とともに、化物が――狩人の神クォーノ・ア・レッフが、ずしりとさらに前進する。
 内圧がいっそう膨れあがるのを、ダルガは歯をくいしばりながら牽制する。
 荒れ狂う炎が、ダルガの意識をいましも噴き飛ばそうとした。
 暴虐の嵐に身をまかせてしまえば、無我夢中のうちに眼前の危機を脱することは容易だろう。
 だが、ダルガは必死になってあふれだそうとする神威に対抗しつづけた。
 歯をくいしばり――剣の柄に手を当てた姿勢で、待つ。
 剣が、解き放たれるのを。
 獣がずしりとさらに一歩をふみだし、巨大な顎が眼前でぱっくりとひらかれた。
 それでも、抜かない。
 ――その境地に達したとき、意識せぬままに剣は放たれる――そう教えられたことがダルガにはあった。パランのいう達人の域とは、それであろうと考えていた。
 斬らねばやられる、そう意識してぬいた剣は、その境地とはほど遠い。ゆえに、意識せぬままに抜き打てるまで、ただ待ちつづけるだけ。
 死を賭した方策であった。
 轟と化物が咆哮した。巨大な牙が立ちならんだ顎が閉じられれば、そのままダルガなどのまれてしまうだろう。
 それでも、抜かなかった。
 これで終わりかもしれない。そう思った。雑念だった。無我の境地とはかけ離れている。
 奥歯をかみしめる。
 獣は、いぶかしげに顎を閉じてわずかに後退し――
 つぎの瞬間、鋭利な鈎爪のならぶ上肢を、ぐいとふりかぶった。
 目を閉じそうになる。
 懸命にこらえ、爛々と燃え盛る巨獣の四眼をにらみつける。
 死が、心奥で明滅した。
 ふりかぶられたそれが、風を裂いて襲来し――


 飛びでるほどにその四つの目を見ひらいたまま、ダルガはぼうぜんと凝視した。
 氷結したように神獣は硬直したままぴくりとも動かず――
 ――薙いだ軌跡の残像が、光のように網膜にはりついていた。
 剣を抜き打った記憶はない。
 にもかかわらず、銀閃はたしかに、獣の頭部をかけ抜けていた。
 はっきりと、それを目撃していた。
 目撃しながら、まるで夢のなかのできごとのような気がしていた。
 硬直した巨体が、ふいにぐらりとかしぎ――
 ずれた。
 銀閃の残像を追うように。
 ずずだんと、醜悪な巨体が左右に別れて倒壊した。
 できたのか――?
 茫漠の底に、わずかな歓喜が光をさした。
 瞬間――
 炸裂した。
 炎が。
 ふたつに別れた獣の屍骸を――巨大な炎がつつみこんだ。
 轟々と、まるで勝ちほこったように燃え盛る。
 ヴァルディスの炎――神威の炎。やがていつか、ダルガ自身をも神への供物と化さしめる、暴虐の炎の発現に、ほかならなかった。
 達した、と信じかけた。はかない幻影に過ぎなかった。狩人の神を切り裂いたのは――ダルガの剣尖ではなく、火神の炎そのものであったのだ。
 ぼうぜんと目を見はり――ダルガは、ぎりぎりと奥歯をかみしめた。
「まだ――」狂おしく、言葉がのどをついて出る。「まだ、おれはほど遠い――」
「それでいいさ」
 しわがれたつぶやきが背後から呼びかける。
 ダルガは、ふりむかない。
 化物と対峙する前から、パランの気配が近づいていることには気づいていた。それほど意識が研ぎ澄まされていたのだろう。
 それでも、占爺のいう“達人の域”にはほど遠いのだ。
 どすぐろい絶望が噴きあがろうとするのを押しとどめるだけで、せいいっぱいだった。
「それほど簡単には、たどりつけぬものだろうさ。だからこそ、ひとは求道者たり得るのだろうよ」
 言葉がやさしく慰撫を投げかける。
 だが少年は、こたえることすらできず、ただわきあがる無力感と必死に戦うばかりだった。
「ゆるりと、まいろうぞ」
 古風ないいまわしをパランは口にする。
 笑いたい衝動が、かすかにダルガの心の底に兆した。
 それに身をまかせるかわりに少年は――歯をくいしばり、にじみ出ようとする涙をこらえた。
 凝視する先で――神の獣をつつむ炎からまきあがる煙柱のさらに上方に、ゆらゆらといくつもの、もやのようなものがゆらめいているのに気づいた。
「魂で、あろうな」
 占爺がつぶやく。
 たましい、と息だけでダルガはくりかえした。
 ゆらめいていたもやは、やがて、ふいにふわり、ふわりと上昇をはじめた。
 黒雲うずまく、天上へ。
 立ち昇る煙に乗るようにして、いくつもの、いくつもの魂が飛翔していく。
「帰ろうとしているのかもしれんな。暗黒の月へ、よ」
 しわがれた声音で、老人は静かにつぶやいた。
「そこに、何がある」
 問いともきこえぬ口調で、淡々と少年は口にした。
 占爺は答えず、ふたりは天へと消えていく無数の魂をただながめあげつづけた。


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