ドライバーへの身体的負担 −心臓の酷使−

F1マシンの運転とは極限状態の連続です。平均時速200km超という高速でバトルを繰り広げ、一台でも抜いて前へ出ようとしているわけですから、ほんの小さなミスも許されませんし、命にもかかわります。したがってドライバーは常に極度の緊張を強いられます。この緊張がドライバーの体内に大きな変化を引き起こしていることはあまり知られていません。特に心臓への負担は多大なものです。

緊張感や恐怖を克服するため、また全身の神経と筋肉を常に活動状態にし情報処理能力を高く保つため、運転中は平常時の5倍にも達するアドレナリンが放出されると言われ、それによって心拍数が急上昇します。Number 263によると、心拍数は平均180に達し、最高205まで上がることもあるそうです。通常の人間の場合、心拍数の最高値は「220マイナス年齢」だそうですから、F1ドライバーはその上限を超えてしまっているのです。

この平均180という心拍数は、マラソン選手がフルマラソンを走る時と同等で、競技時間もF1レースの方が若干短い程度で差はあまりありません。しかし、大きな違いが多々あります。マラソンは比較的寒い時期の午前中(気温が上がる前)に、肌を多く露出したウエアで全身に風を浴びながら走り、競技回数も年数回程度です。一方、F1のレースは比較的暑い時期の午後(最高気温に達した時間)に、全身を二重の耐火服とヘルメットでかためて全く風の出入りのないコックピットに深く潜り込んで走りますし、レースは年16〜17戦に及びます。マラソンも過酷なスポーツですが、競技条件面ではF1の方がもっと過酷かもしれません。心臓を鍛えぬいたマラソン選手でさえF1マシンに乗る機会があれば息切れしてしまうだろうと言われています。

さて、レース中、心拍数は最低150〜160から最高205程度までの間を上下しますが、これは緊張の度合いと大きく関連しています。メインストレートのようにスピードの割には変化が無く、ある程度ほっとできる場所で心拍数は170ほどに下がる一方で、難しいコーナーなど、緊張感の大きい場面では一気に上昇します。従って、レースドクターは心拍数のグラフを見るだけでサーキットの形状を想像することができるくらいだそうです。この緊張感の大きい場面で心拍数が上昇すると言うことを喩えて言うと以下のような感じでしょうか。

地面に置いてある幅50センチの板の上を10m歩くのは、安心感があるためほとんど緊張せず難なく渡りきることが出来るでしょう。レインボーブリッジの歩道を歩いても余程の高所恐怖症の人で無い限り、安定感があるのでドキドキしないでしょう。しかし、レインボーブリッジと同じ高さにある幅50センチの板の上を10m歩くとなると、心拍数は一気に上がるでしょう。安心感も安定感もないからですね。この例のように難しいコーナーを高速で走り抜ける間や、モナコのようにちょっとしたミスをも許されないサーキットの場合、心臓への負担はとても大きくなります。これはコントロールの難しいマシンに乗っていても同様です。

また、発汗による脱水症状も心臓に大きな負担をかけます。ドライバーは1レースで4〜5リットルの水分を失うと言います。これはエンジンを背負った無風のコックピット内の温度が55度にも達する中で、Gと戦い続けるため大量の汗が出るからです。脱水が進むと血液は濃くなり、どろどろとした粘り気のあるものに変化し、これが血流を妨げますので心臓はさらに血圧を高くして働きます。しかし、粘性が高い血液は毛細血管の中を通りにくいので、筋肉への酸素供給が不十分になり心臓へさらに心拍数を多くするよう指令します。

「前後方向のG」も重大な負担を心臓にもたらします。それは血液の移動です。前回書いたように半分寝そべるような運転姿勢であるがゆえ、フルブレーキング時には800ccもの血液が一気に脚に集まり戻ってこなくなります。これは体にとって異常事態ですから心臓は心拍数を上げて血液を吸い上げるよう働きます。特に運転中は首や腕など心臓より高い位置にある上半身の筋肉を多用し、下半身はそれほど大きな運動をしません。従って上半身の筋肉に多くの酸素を送る必要があるわけですから、下半身に血液が集まるのは大変困ったことです。

このように、あらゆる要因がすべて心臓をいじめる方向に作用しています。それに対応するためF1ドライバーは常日頃から最新のスポーツ医学に基づくトレーニングを重ねて、心臓を鍛え、体力作りや体質改善に努めています。だからこそ、人間の限界を超えた世界での長時間ドライビングが可能になるのです。

マクラーレンやミナルディがタンデムツーシーター(ドライバーとパッセンジャーが前後に座る二人乗り)F1カーを作って、有名人や懸賞当選者、金持ちを数周乗せて走るイベントを行なっていますが、心臓検査を中心とした入念な健康診断をパスしない限りどれだけお金を積んでも乗せてもらえないそうです。運転しないとはいえ、本物のF1ドライバーが運転する車に乗せてもらうわけですから、F1ドライバーと同じような負担が心臓にかかってくるためですね。鍛えられていない一般人にはたとえ数周でも命取りになるというわけです。

見た目とは裏腹にF1ドライバーの心臓は限界以上に酷使され続けています。大変危険な状態だと言っても過言はありません。事実、レースドクターはこれ以上コーナーリングスピードが上がることを憂慮し警鐘を鳴らしています。上記のようにコーナーリングスピードの上昇は心拍数の最高値と密接に絡んでおり、心筋に損傷を与えたり、最悪の場合運転中に心臓発作を引き起こしたりする可能性も否定できないレベルまで来てしまっているからです。昨今、FIAが安全対策のためスピードを落とす為の措置を色々と採って話題になっていますが、安全面での配慮とは何も事故時の衝撃だけが問題であるわけではなく、ドライバーの心臓が既に限界域まで達していることにも関係しているのです。

ところで、運転中にドライバーの身体内部で起きている恐るべき事態は、実は心臓だけに限らないのです。次回はその他の身体的負担について書いてみたいと思います。

Bakuの小部屋に戻る             琢磨な部屋に戻る                 NEXT