- #04 Vogare Longa-
  
     

 

すっとゴンドラを前に出す。
周りのゴンドラは左右に割れて私たちを避けた。
「何しに出てきたのかしら」
「ウンディーネの恥さらし」
陰口が聞こえる。私はつい背筋を丸めてしまう。
隣りを見ると、ディビアーノさんは毅然とした態度で前を見つめていた。
そうだ、私もウンディーネなんだからしっかりしなくちゃ。
そうして、今年のヴォガロンガは始まった。
と同時に、観衆から野次と嘲笑が飛んできた。
「よく出る気になったわね」
「恥知らずは社員も一緒なのよ」
「ねえ、あそこって前に問題起こしたところでしょう?」
オールを持つ手を離して耳をふさぎたかったけど、それはできない。
この声はもちろん隣りを行くディビアーノさんの耳にも届いているはず。
でも先輩は背筋を伸ばし、軽やかにオールを捌いていた。
少しいつもよりオーバアクションにも見えたけど、
きっとそれはディビアーノさんなりの覚悟なんだと思った。
頑張ろう。
私はディビアーノさんを必死で追いかけるように、
前を向いて漕ぎ続けた。
「いたっ」
私は反射的にオールを離して痛みの走った横顔をさすった。
物が飛んできた方向を見ると、観衆の奥へと誰かが走って逃げて
行くのが見えた。長い髪が見えたからもしかしたら同業者かもしれない。
もの投げは一度では済まず、矛先はディビアーノさんへも向いていた。
しかし不思議なのは、ディビアーノさんは経験から来る視野の広さで
ある程度かわせるはずなのに、それらを全て甘んじて受け続けたことだ。
「ディビアーノさん、大丈夫ですか?」
振り向いた先輩は笑顔だった。
そして何事もなかったかのように前を向いて漕ぎ続けた。
「済ました顔しちゃってさ。ほんと、さすがトッププリマは違うわね」
通り過ぎる他社の子たちの声が聞こえた。
ひどい。スキャンダルは社長が勝手にしたことで、
私たちウンディーネの責任は何もないのに、
どうしてここまで言われなくちゃいけないんだろう。
そうしていると、狭い曲がり道に差し掛かった。
私はおぼつかないオール捌きでなんとか曲がろうとした。
「おっと、ごめんね」
内側から来たゴンドラが、何食わぬ顔で私のゴンドラを外へ押し出した。
「うわっ」
私は体制を崩して水の中へ落ちた。
あたりから一斉に笑い声が振ってきた。
「ウンディーネがゴンドラから落ちたぞ」
「それでよくゴンドラなんかに乗れるわね」
「あそこに頼んだら客まで落とされるんじゃないか?」
私は泣きそうになった。
一旦陸に上がり、ゴンドラをオールで引き寄せた。
陸に上がる時、誰も手を貸してはくれなかった。
びしょぬれのまま、私はなんとかゴンドラの上に立った。
寒さと悔しさで震える奥歯を噛み締めた。
けどここにきて、周囲の視線が全て私を見つめているような、
そんな錯覚が強く襲ってきてひざが震えだした。
足元がおぼつかなければこの先ゴンドラを漕ぐことなんてできない。
もうダメだ。
そう思ってゴンドラを岸によせ、降りようと足を岸にかけたとき、
きっと鋭い声が飛んできた。
「ウンディーネが道半ばでゴンドラから離れるな!」
はっと顔を上げると、すぐ前でディビアーノさんがゴンドラを止めて
こちらを睨んでいた。
「水に落ちたのはあなたの技術が未熟だからでしょう。
 技術の未熟さを理由に請けた仕事を途中で投げるような人間には、
 ウンディーネは勤まらないわ!
 漕ぎ始めたのなら、最後まで漕ぎ続けなさい!」
その恫喝は、周りを操船中の他社のウンディーネや観衆を黙らせた。
あの清楚で水の妖精と呼ばれる人間が、語気を荒げて人を叱咤する
なんてことを、おそらくみなが始めてみたのだろう。
もちろん私も初めてだ。
しかも普段は温厚なディビアーノさんが怒鳴るなんて。
私は自分のしようとした事を恥じた。
他社のウンディーネはおずおずと横を通り過ぎて行った。
観衆はみなそっぽを向いてごまかしていた。
私はこぼれる涙をそのままに、オールに手をかけた。
けれどとどめの一言。
「ウンディーネが人前で泣くな!」
「はいっ!」
私は必死で答え、ぐっと目頭をぬぐって再び漕ぎ始めた。
しかし、しばらくいくとそんなことがあったとは知らない他社の子たちや
観衆から、同じことを受け続けた。
晒し者、今日の私たちはまさにそれ以外の何者でもなかった。
そして日がくれ、夜が来ようかという頃、
誰もいない湾に私はゴールした。
ディビアーノさんは一足先に着いていて、何事もなかったかのように
他社の知り合いと談笑をしてた。
「ディビー、うちこない? 今のとこいてもつらいだけでしょう?
 私が上に掛け合うからさ、うちにおいでよ」
風に乗って話が耳に入った。
ディビアーノさんほどの人間が引き抜かれないはずはないと思っていた。
私のように技術のない人間は、自主退社してもレッテルが邪魔して
他社への移動ができず、社に留まるしかなかった。
でもディビアーノさんはトッププリマだ。残る理由がなかった。
今日だってうちにいなければあんなひどい目にあうことはなかったはずだ。
私を公衆の面前で怒鳴りつけるなんていう、ウンディーネにあるまじき
行動をとることもなかったはずだ。
そのことを思い出して私は申し訳なさが体中を駆け巡り、
ディビアーノさんたちの会話に割って入った。
「ディビアーノさん、社を出るべきです!
 今日みたいな、あんなひどい境遇は、
 ディビアーノさんのいるべき場所じゃないです!」
突然のことにディビアーノさんの友人さんたちは何事かと囁きあった。
私は下を向いたまま半ば叫ぶように言葉を続けた。
「今のままじゃディビアーノさんのせっかくの技術や、
 ディビアーノさんを待ってくれているお客さんが困ると思います。
 それにディビアーノさん自身が不当に辛い目にあうなんて……
 私、今日一日後ろにいてもうなんて謝っていいか……」
「どうしてあなたが謝るの? 出ると決めたのは私なのよ?」
「でも私があんなヘマをしなければディビアーノさん、
 最後まで笑顔でいられたじゃないですか!」
私はそこで始めてディビアーノさんの顔を見た。
ディビアーノさんは無表情ですぐに私から顔をそむけ、
友人さんに言った。
「ギグジー、社長さんに移籍願いを通しておいてくれる?」
「ディビー……」
そしてディビアーノさんたちは相変わらず私を見ずに、
食事をしようと行ってしまった。
私は呆然とその場に立ち尽くした。
翌日、ディビアーノさんの移籍が社内中を駆け巡った。
私は、自分のベッドから出ることはできなかった。

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